湖畔亭奇談

 

                              第三章

 

 まばゆい朝の光と小鳥の囀りが、爽やかな

ハーモニーとなって別荘を包んでいた。

 東京での普段の生活では寝起きも悪く、な

かなか起きれない三人でも、さすがに良き目

覚めをもたらされたようであった。

 ただ、一人を除いて…。

 「加奈子ったら、どうしちゃったのよ」

 朝食の用意をしながら、由紀が笑った。

 「なんか、どうしても寝つけなくて…」

 「そりゃ、夜中に起きてるからよ」

 サーバーからカップにコーヒーを注ぐと、

それを加奈子に渡しながら由紀が言う。

 「う…うん。そうなんだけど…」

 加奈子は口ごもった。さすがに昨夜のこと

を由紀に言う気にはなれなかった。微かに開

いたクローゼットの奥から誰かが見ていたな

んて、誰が信じられると言うのだろうか。

 それに実際、何もなかったのだから…。

 「うーん、いい香りねぇ」

 ダイニングキッチンに漂うコーヒーの香り

に鼻をひくつかせて、恵理が入ってきた。

 「あら、恵理。おはよう!」

 「おはよう。朝シャワー、使わせてもらっ

ちゃったわよ」

 そう言いながら、濡れた髪をドライタオル

でこすっている。

 「後で出掛ける前に、私も使わせてもらお

うっと。はい、コーヒー」

 由紀が芳醇な香りを放つコーヒーカップを

恵理へと渡しながら言う。そんな様子を見な

がら、加奈子は眠そうに目をこすった。

 「あれ、加奈子ったら眠れなかったの?」

 眠そうな様子に気づいた恵理が聞く。

 「うん、まあね」

 加奈子はそれだけ答えた。すると、恵理が

思い出したように言った。

 「そう言えば、加奈子さぁ。何で、わざわ

ざ一階のトイレを使ったの?」

 「え?」

 「二階にトイレが付いてるのに、一階のト

イレに行ったでしょ?」

 「何時のこと?」

 加奈子が不思議そうな顔をする。

 「みんなが寝たからすぐだよ。だから午前

二時ぐらいかなぁ…」

 「行ってないよ、私。その時間は寝たばっ

かりで、目を覚ましてないもん」

 「ふーん。だったら、私の気のせいね」

 恵理はあっさりと言って、話題を断ち切っ

てしまった。だが、加奈子はそれでは納得で

きなかった。

 「どういうことなの?」

 「大したことじゃないのよ。眠るか眠らな

いかの時に、誰かが階段を下りていったよう

な気がしただけなの」

 「トイレへ?」

 コーヒーを飲みながら、恵理がうなずく。

 「ねえ、どうして私だと思ったの?」

 「え?別に、そんな気がしただけなの。で

も行ってないのなら、違うんでしょ」

 「……」

 恵理はもう気にしてない様子だが、加奈子

は昨夜のことがあるだけに、心に小さな棘が

刺さったような感覚が残る。

 「ねえねえ、今日はどうする?」

 恵理は何事もなかったように、話題を切り

換えた。

 「そうねぇ。そういえば、湖にボートがあ

るって言ってわよね」

 ハムエッグの皿を並べながら、由紀がエー

ジェントの言葉を思い出すように言った。

 「あ、それいい。そうしようよ」

 「じゃあ、朝御飯を食べたら行きましょ」

 由紀と恵理が食事を始めても、加奈子はま

だボオッと考えていた。

 「加奈子ったら、どうしたのよ?」

 声をかけられて、ハッと我に返る。気づく

と、二人がキョトンとこちらを見ている。

 「え、ううん。何でもないの」

 胸の奥の不安を悟られないように、加奈子

は明るく答えた。

 「ご飯、冷めちゃうよ」

 「うん。今、食べる」

 加奈子はそう答えて、朝食のテーブルへと

つくのだった。

 だが、その心の中からハッキリとしない何

かをぬぐい去ることは出来なかった…。

 

 爽やかな風が湖面を渡っていく。微かな波

音が、鼓膜の奥に心地よかった。

 「いい気分ねぇ…」

 ボートに揺られながら、恵理が言った。

 湖の中程まで漕ぎ出されたボートは白い船

体で、一組のオールが備えつけられていた。

 二人乗りのボートなので、由紀は岸に残っ

ている。最初に恵理と加奈子のコンビで乗る

ことにしたのだった。

 「そうだね。来てよかった…」

 ユラユラと波に遊ばれるボートが、ゆりか

ごのように揺れる。そのゆるやかなリズムが

加奈子を幼い頃に帰った気分に浸し、幸せな

気分にさせるのだった。

 ピルルルル…。

 遠くで電話の鳴る音がした。

 「あれ、私の?」

 恵理がデイバッグからPHSを取り出すが

鳴っていない。

 「なぁんだ、由紀だよ」

 恵理の指さす方を見ると、由紀が携帯電話

を耳にあてて、笑っている。

 「たぶん、小林さんだよ」

 好奇心たっぷりの目で見ながら、恵理は笑

った。恵理とヒロシの関係同様、由紀が小林

と付き合っていることも公認の事実だった。

 「へえ、こんな所までかけてくるんだ」

 加奈子には意外だった。あの二人は、そん

なにベタベタしたような関係には思えなかっ

たのだ。

 「小林さんて、もっとドライなタイプの人

だと思ってたんだけどな」

 恵理も意外そうに言う。

 「うん。私もそう思ったんだけど…」

 恵理の言うように、小林自身はそういうの

を好まないタイプのはずだった。それは小林

を由紀に引き合わせた張本人である加奈子が

一番よく知っている……つもりだった。

 自分が知らない小林の一面。そして、彼を

そうさせた由紀という存在。自分の知らない

二人の姿に、少し寂しいような感覚が心の奥

に沸き起こるのを加奈子は感じた。はたして

それは、寂しいという気持ちだけだったのだ

ろうか…?

 「由紀みたいな可愛い女の子が彼女だと、

心配で放っておけないんでしょ…」

 「加奈子…?」

 突き放したような言い方をしながら、遠い

景色に目をやる加奈子。その様子に恵理は微

妙な感情の発露を見てしまうのだった。

 「ちょっと、気になる?」

 恵理が悪戯っぽく、問いかける。

 「そ、そんなことないわよ」

 「ホント?」

 からかうような視線に、加奈子は自分の頬

が熱くなるのを感じた。

 「もし、私が由紀の恋人だったら、女の子

同士の旅とは言っても心配になるわよ。恵理

の彼氏のヒロシくんだって、電話してきてる

じゃない?」

 加奈子が逆襲に転じる。

 「ヒロシの場合は、用もないのにかけてく

るだけよ」

 恵理はあっさり、それを受け流した。

 「それでもいいじゃない。私なんか、かけ

てきてくれる人もいないんだから」

 「加奈子…」

 「あ、別にイジけてる訳じゃないよ。本当

に心からうらやましいなぁ…って、思ってる

んだから。本当に…」

 そう言いながら、加奈子は手を水面に浸し

た。小さな波紋が水に触れた指先を中心に、

ゆっくりと広がっていく。

 まるで、揺れる心のように…。

 「加奈子。本当によかったの?」

 「え?」

 不意の問い掛けが、加奈子を呼び戻した。

 「小林さんのこと…。あれで、本当によか

ったの?」

 向かい合う恵理がジッと加奈子を見つめた

まま、もう一度聞いてきた。

 「よかったの…って?」

 聞き返す加奈子の表情には、明らかな動揺

が見られた。さらけだしてしまいそうになる

心を必死に隠そうとする思いが、加奈子のリ

アクションを却って不自然にしてしまう。

 「ああやって、由紀が小林さんと幸せそう

に付き合ってることをよ」

 「い…、いいに決まってるじゃない。由紀

と小林さんて、お似合いのカップルだもん」

 「はぐらかさないでよ。小林さんのこと、

好きだったんでしょ…?」

 「……」

 加奈子は答えなかった。

 『好きだったんでしょ?』

 心の中に、その言葉がエコーのようにリフ

レインしていく。

 その質問はタブーであった。それでも、加

奈子はまだ真意を隠そうと努力していた。

 「す、好きよ。小林さんて、ほ、ほら、い

い人だし…。そ、それに…、ゆ、由紀の恋人

なんだし…」

 「私の聞いてるのは、そういう『好き』を

言ってるんじゃないわ。女として、愛してい

るかどうかよ」

 「……」

 「どうなのよ?」

 「……」

 加奈子は黙ったままだった。それにたたみ

かけるかのように、恵理は続けた。

 「加奈子が、小林さんのことを好きだった

のは知ってるわ。だから、小林さんと由紀の

仲を取り持ったと聞いて、驚いたのよ」

 「……」

 「加奈子、どうしてなの?」

 「恵理だって、由紀の方が私より似合って

ると思うでしょ。小林さんの彼女には…」

 「思ってないわよ。じゃあ、あなたの気持

ちはどうなってしまうの?」

 「いいの。小林さんには、私なんかより由

紀みたいな子の方が、似合ってるわよ。だか

らこそ、由紀を紹介したんだから」

 加奈子はそう言って、笑った。何処か寂し

い微笑みであった。

 「加奈子。本当はあなた、由紀に遠慮した

んでしょ?」

 「恵理…」

 「由紀も小林さんのことが好きだというこ

とに気づいて、彼女に気を使ったんじゃ…」

 「やめてよ!」

 強い声で、加奈子は遮った。

 「加奈子…」

 「ゴメン…。でも、恵理ったら、まるで略

奪愛でも勧めてるみたいよ」

 「私は単に素直になりなさいって、言って

るだけよ」

 「もう、いいのよ…。私が自分でそう思っ

て、決めたんだから…」

 「加奈子の悪いクセよね…」

 恵理がフッとため息をつくように言った。

 「恵理?」

 「友達と揉めそうになると、自分から身を

引いてしまう。そうすることで、友情を壊さ

なくていいし、何よりも自分自身が傷つかな

くて済むものね」

 「恵理ったら、なんか今日は哲学入ってる

わよ」

 「恋愛に関しちゃ、うるさいわよ。伊達に

いろんな人と付き合っちゃいないわ」

 「……」

 「でもね、加奈子。それを友情だなんて、

思ってたら大間違いだよ」

 恵理が真面目な顔で、加奈子を見つめた。

 「あなたが本当の気持ちを隠してるだけな

ら、それはいつか無理が来るわよ」

 「それは予言なの?」

 加奈子が恵理を見つめ返す。その瞳の中に

怯えとも揶揄ともつかない表情が漂うのを見

て、恵理がひるむ。

 「……。ただのアドバイスよ」

 恵理はそれだけを口にした。予言と聞かれ

た瞬間、急に不安のようなものが押し寄せた

からであった。自分は予言したのではない。

 それは、理由のない確信に近いものであっ

たからだった。だが、それを口にしてしまう

のは、さすがの恵理にもはばかられたのであ

った。

 二人の間に沈黙が落ちる…。

 「ゴメン。せっかくの旅行なのに、つまん

ない事を話しちゃったね」

 これ以上の気まずい雰囲気を断ち切るよう

に、恵理が謝った。

 「いいのよ…」

 加奈子は小さくそれだけ言って、ボートの

縁から垂らした指先で、静かに湖面をなぞる

のだった。

 湖面に自分の姿が映っている。

 (情けない顔、しないの!)

 そう湖面に映る自分に言った時、湖面の顔

がニヤリと笑ったような感じがした。

 (え…?)

 次の瞬間、それは起こった!

 突然、ガシッと加奈子の手が握りしめられ

たのである。

 「!」

 ビックリして自分の手を見つめた瞬間、加

奈子の目は恐怖に凍りついた。

 水中から手が伸びていた。その謎の手が、

加奈子の手首をガッシリと握りしめているの

である。暗い湖の底から伸びる手が…!

 「キャアアッ!」

 絶叫と共に手を引き戻そうとするが、湖底

からの手はそれを許そうとしない。

 半狂乱になる加奈子を引きずりこもうとす

るかのように、謎の手に力がこもる。それは

信じられない程の強い力であった。

 「キャアアアッ!」

 絶叫が湖に響きわたる。

 「ど、どうしたの!」

 あまりの驚きに恵理が思わず立ち上がりか

ける。だが、その途端にボートのバランスが

崩れて転覆しかけてしまう。

 「キャアアッ!」

 今度は恵理が悲鳴をあげて、必死にボート

の縁にしがみついた。だが、狂ったように暴

れる加奈子のために、ボートは激しい波しぶ

きをあげて揺れる。静かな湖面なのに、そこ

だけ嵐に巻き込まれてしまったかのように。

 白く激しく水飛沫が飛び散った!

 「か、加奈子!落ちついて!」

 このままでは転覆してしまうと感じ、必死

に加奈子に叫ぶ恵理。何が起こっているのか

が分からないだけに、恐怖がつのる。

 「手…、手が…!」

 体を大きくボートから乗り出させながら、

加奈子が叫んでいる。

 「手がどうしたのっ?」

 「だ、誰かが…、誰かが私の手をつかんで

る!私を水に引きずり込もうとしてる!」

 泣き叫ぶ加奈子の手は確かに湖面に浸って

いる。だが、恵理はすぐに気づいた。

 「違うわ!よく見て!」

 恵理の叫びを耳が受け入れた瞬間、加奈子

の手を捕らえている力が消失した。

 「……」

 不気味な静寂が辺りを包み、チャプチャプ

という水音だけが聞こえた。

 「……」

 ボートはさっきまでの騒ぎの名残のように

ユラユラと揺れ動き続けている。

 加奈子は水面に吸い込まれた自分の手を見

た。自分の手をつかんでいた謎の手は消えて

いた。そして、その代わりに暗い緑色をした

藻が幾重にも絡みついていたのだった。

 「う…、うそ…」

 あれは自分の錯覚だったのだろうか…。

 加奈子は手を水面から上げた。ドロッとい

た藻が水を滴らせながら、くっついてくる。

 「ただの藻じゃない。それが絡んだだけな

のに、ビックリさせないでよ」

 呆れたように恵理が笑った。

 「ゴ、ゴメン…」

 加奈子にはまだ信じられなかった。自分の

手には、あの不気味な手の感触がリアルに残

っている。それは、絶対に藻なんかではなか

ったと思う。確かに誰かが、湖底に加奈子を

引きずり込もうとしたのだ…。

 不意に音楽が鳴った。その唐突さに、加奈

子は心臓が停まりそうなほど、驚いた。

 「アハハ、私のピッチだってば」

 そう言って、恵理はPHSを耳に当てた。

 「あ、由紀。……ううん、大丈夫。あわて

者の加奈子が、変なことにビックリしただけ

なの…。……うん。全然、平気だから。…分

かったわ、今戻るから」

 ピッとボタンを押して、恵理は電話を切っ

た。相手は由紀と分かる。

 「由紀もビックリしてたよ。二人がおぼれ

ちゃうんじゃないかって…」

 「ゴメンね…」

 加奈子が神妙に頭をさげるのを見て、恵理

は笑った。

 「気にしないで。加奈子のドジはよく知っ

てるもん」

 「ちょっとぉ…!」

 「アハハ、冗談、冗談。さ、由紀が心配し

てるから、帰りましょ」

 恵理はオールを手にすると、岸に向かって

漕ぎはじめる。水をはね上げつつ、ボートは

ゆっくりと湖面を滑りはじめた。

 「……」

 揺れるボートの上で、加奈子は湖面を見つ

めていた。だが、謎の手は何処にも見えず、

静かな水面がどこまでも広がっているだけで

あった…。

                                            つづく