湖畔亭奇談

 

       第四章

 

 「ねぇ、大丈夫?」

 恵理が心配そうに、顔を覗き込んでくる。

 「う…うん。大丈夫よ」

 ソファに横たわった姿で、加奈子は微笑ん

だ。が、顔はやや青ざめている。

 湖での事件があった後、加奈子は急に具合

が悪くなってしまったのだった。軽い頭痛と

吐き気である。恐らくは、湖でのショックが

引き金になったものだろうが…。

 とりあえず、由紀や恵理に頼んで、コテー

ジまで引き返してもらったのだった。

 「ま、ちょっとした疲れでしょ」

 そう言いながら、由紀がキッチンの方から

現れた。

  手には水を入れたコップを持っている。

 「さ、加奈子。これ飲んで」

 由紀が差し出した手には、白い錠剤が二つ

乗っていた。

 「これは?」

 錠剤を取りながら、加奈子が尋ねる。

 「生理痛の薬よ。もし始まっちゃうと困る

から、一応持ってきてたんだけど…。まぁ、

頭痛にも効くでしょ」

 「さすが、由紀ね。ありがと」

 ポイと錠剤を口に放り込むと、加奈子はコ

ップの水で喉の奥へと流し込む。

 「しばらく横になっていれば、良くなると

思うわ」

 由紀は空になったコップを受け取ると、そ

のままキッチンの方へ戻っていった。

 「でも、加奈子もバカねぇ。手に絡まった

藻に大騒ぎした上に、具合まで悪くなっちゃ

うんだから」

 恵理がやれやれといった感じに言う。

 「ゴメンね。せっかくの旅行なのに、迷惑

かけちゃって…」

 「別に気にしないで。加奈子の分も、たっ

ぶり楽しんでおいてあげるから」

 恵理がからかうように笑う。

 「もう、恵理ったら…」

 思わず、つられて笑ってしまう。恵理なり

に、かなり気をつかってくれているのが伝わ

ってくる。

 「ま、とりあえず寝てなさいね」

 由紀の声がして、ほのかに甘い香りが漂っ

てきた。

 見ると、微かな湯気をたてたカップを手に

由紀が戻ってくるところだった。

 「あったかいココアよ。飲めば、少しは気

分が良くなるかもね」

 「ありがとう」

 温かいカップを受け取りながら、加奈子は

ジーンとしてしまう。

 自分の体調が優れない時こそ、大切な友人

の存在がより身近に感じられる瞬間だった。

 「おいしい…」

 ココアの温かみを感じながら、ゆっくりと

友の気持ちを味わう加奈子だった。

 「さてと…。恵理、行こうか」

 不意に由紀が言ったので、加奈子がゲホッ

とムセてしまう。

 「ケホッ…、い、行くって?」

 「やあねぇ、買い出しよ。買い出し」

 恵理が答える。

 「買い出し?」

 「最初の一夜にして、買ってきたワインも

チーズもスッカラカン。かよわき乙女が3人

にしては、ちょっと食べすぎよね」

 呆れたように言って、由紀は『お手上げ』

のポーズをする。

 「とは言っても、お酒とツマミがなければ

夜は楽しめないもんねぇ」

 「と恵理が言ってるから、買い出しに行く

ことになったのよ」

 「ちょ、ちょっと。私は?」

 加奈子が不安そうな表情になる。

 「あんたはおとなしく寝てなよ。しっかり

とお留守番しててね」

 ツンと加奈子の額を指でつつきながら、恵

理が笑う。

 「待ってよ。私も行くわ」

 「ダメよ。しっかり寝て、夜の宴会までに

は元気になっておいてね」

 「恵理ぃ…」

 「情けない声出さないでよ。3つや4つの

ガキじゃあるまいし、一人でお留守番も出来

ないの?」

 「そ、そういうわけじゃ…」

 加奈子が情けなさそうに口ごもる。

 「だったら、おとなしくしてなよ」

 恵理はそう言うと、外出の準備をするため

に二階へと上がっていった。

 「恵理の言う通りよ。加奈子はちゃんとお

留守番してなさいね」

 「由紀ぃ…」

 「すぐに戻ってくるわよ。旅行会社の人が

言ってたコンビニまでだから。例の自転車で

ひとっ走りだもの」

 「でも…」

 由紀に言われてもなお、加奈子は一人で残

ることを渋る。

 「加奈子。あんた、どうしたの?」

 「……」

 由紀に聞き返されて、答えにつまる。

 はっきりと説明できる理由はなかった。

 子供のわがままにも似た感情が、加奈子を

かたくなにさせているに過ぎない。

 もし、どうしてもと理由づけするなら、

 『一人になりたくない…』

 という他はない。

 漠然とだが、確固たる不安が胸の内に広が

っていくのを感じる。それは、嵐の到来を告

げる暗雲のように、果てしない広がりを見せ

始めていた。

 ここに来てから遭遇した奇妙な出来事…。

 二階を歩く足音。

 クローゼットの奥からの視線。

 湖の暗い水底から伸びてきた手…。

 どれもが気のせいと言えば、それまでのこ

とに違いない。

 ましてや、加奈子は幽霊などを信じるよう

なタイプでもなかった。

 (気のせいよ…)

 そう自分に言い聞かせる。

 怖がってる自分を見せちゃいけない。

 そう、自分はいつでも…。

 「加奈子っっ!」

 不意に大きな声で呼ばれ、加奈子はハッと

現実へ引き戻された。

 「え?」

 キョトンとする加奈子の額に、そっと手が

当てられる。

 「熱でもあるんじゃないの?」

 心配そうに由紀がのぞきこむ。

 「ううん、何でもない」

 加奈子が微笑む。これ以上、何の根拠もな

い不安で、由紀や恵理を心配させたくないと

いう気持ちからであった。

 「じゃ、すぐに戻ってくるからね」

 ベージュのハーフコートを羽織りながら、

由紀が立ち上がる。春が近いとは言え、高原

の風はまだまだ冷たいのだ。

 「そうそう、何か買ってきてほしいものは

ある?」

 リビングのドアまで行ったところで、由紀

が振り返った。

 「そうね…。アイスクリーム」

 「この寒いのに?」

 「サッパリしてて、いいじゃない」

 「オッケー。アイスクリームのご注文、確

かにうけたまわりました」

 おどけて敬礼した時、トタトタと恵理が二

階から戻ってくる音が聞こえた。

 「じゃ、行ってくるわ」

 玄関へ向かう由紀にくっついて、加奈子も

リビングを出る。玄関では、恵理がちょうど

靴を履いているところだった。

 「あれ? 加奈子も行くの?」

 振り返って、不思議そうに聞く。

 「ううん。私は見送りよ」

 加奈子が微笑む。それを受けて、恵理もウ

ンとうなずくように微笑んだ。

 「いってらっしゃい」

 由紀が靴を履くのを見て、加奈子が声をか

ける。

 「いってきまぁす!」

 扉を開け、恵理がコテージの外へと出てい

った。由紀が軽く手を降って、それに続く。

 カチャ…。

 小さな音と共に正面のドアが閉まる。

 その様子を加奈子はジッと見ていた。

 そして、自転車の微かにチェーンの廻る音

が次第に遠ざかっていくのが聞こえた。加奈

子は玄関に立ったまま、その音が完全に消え

るまで聞いていた。

 やがて、音が途絶えた…。

 賑やかだったコテージは、海の底のような

静寂へと沈んでいった。

 「……」

 そっと後ろを振り返る。そこに誰もいない

のが分かっていても、思わず振り返りたくな

ってしまう。風呂場で頭を洗っている時に感

じる背後の気配にも似ていた。

 「一人なんだよね…」

 ポツリと呟く。それは自分自身への確認で

もあった。

 もちろん、他にいるはずがない。

 ふと加奈子は大きな階段を目で追って、二

階へと視線を移した。

 階段を中心にいて、シンメトリーを形作っ

ている二つの扉。その内の一つが中途半端に

開いたままだった。

 「もう…。恵理ったら、だらしないんだか

ら」

 足早に階段を上り、開いていた恵理の部屋

の扉をバタンと閉める。別に意味はないのだ

が、開いているのが気になってしまう。

 まるで怯える小さな子供のようだった。

 「…バカ…みたい…」

 ピッタリと閉めたドアのノブから手を離し

ながら、加奈子はつぶやいた。

 ついつい独り言が多くなってしまうのも、

怯えている心の表れであった…。

 「さて、リビングのソファで横になってい

ようっと…」

 ちょっと大きな声で自分の気持ちに弾みを

つけたのか、加奈子はそのまま階段を下りて

いく。トタトタと音が響き、やがて加奈子の

気配はリビングの中へと消えていった。

 その直後…。

 カチャ…という微かな音が聞こえた。

 閉まっていたはずの扉のノブがゆっくりと

回った音だった。

  生み出された隙間は、少しずつその幅を広

くしていく…。

 リビングに入ってしまった加奈子が、全く

そのことには気づいていない。

  気づくはずもないほどの静かな変化であった。

 だが、確実に扉は開いていく…。

 先程の加奈子の閉め方が甘かったのか…?

 いや、違う。そうではない…。

 今、開きつつある扉は恵理の部屋のもので

はなかった…。

 そう…、それは…。

 加奈子たちの部屋の扉であった…。

 

 「被害者のA子さんは事件当夜、こちらの

スナックで恋人と思われる男性と…」

 ピッ。

 「話題のビューティースリムパック。わず

か三日で10キロの減量が…」

 ピッ。

 「騙していたのね。あの優しい笑顔も、優

しい言葉も、みんなウソだったのね!」

 ピッ、ブツン…。

 ナイフを男に向けながら泣き叫んでいる女

の顔がブラウン管の彼方へ消える。あとには

微かな静電気のようなノイズが、パチパチと

黒い画面に残るだけであった。

 「くだらないのばっかし…」

 カランとテレビのリモコンがガラステーブ

ルの上に放り出され、加奈子はソファに仰向

けになった。

 「静かだなぁ…」

 横になったまま、何気なく右手を伸ばす。

 白く整えられた天井は、普段よりも一層高

く感じられた。

 「……」

 手を戻し、ゆっくりと目を閉じる。

 何処かで風が哭いているのが聞こえる。

 閉じた瞼の奥に、ふと何かが浮かび上がる。

  それは遠い記憶に残る映像だった。

 

 シトシトと雨が降っていた…。

 やはり加奈子は、そこでも独りであった。

 たった独りで、部屋に残っている。

 「独りでお留守番できるでしょ?」

 そんな母親の言葉が耳の奥に残っていた。

 加奈子がまだ5歳の頃のことである…。

 『いやだぁ。寂しいよぉ』

 『お願いだから、独りにしないで』

 『怖いよ。私もママと一緒に行く』

 心の中で叫ぶ本音は、決して口にできはし

ないものばかりであった。

 「加奈子は強い子なんだから…」

 そう言われるのが判っているから…。

 自分では違うと思っていても、親はそう信

じているのだった。いや、そう信じようとし

ていたのかもしれない。

 5歳という年齢の加奈子には、親の心の内

を量り知ることなど無理に決まっている。

 ただ、父の目を、母の顔色を気にしながら

自分を作り上げてきたに過ぎなかった…。

 「ママ…」

 そうは言っても、まだまだ小学校にも入っ

ていない子供である。雨の日の薄暗い室内で

ただ独り、留守番をさせられていることを心

細く思わない訳がなかった。

 小さな呟きが、その全てを語っていた。

 ゴロゴロゴロゴロ…。

 次第に近づきつつある雷の音。低い太鼓の

ような音が、心臓の鼓動にも似た音が、重々

しい天の呼吸音が近づいてくる。

 「……」

 雷鳴の他には、シトシトと窓を濡らす雨音

のみである。他には何も聞こえない。

 その時も加奈子は、ソファの上でジッと膝

を抱えているだけであった。

 「…?」

 何かの気配に加奈子は顔を上げた。

 怯えた目を部屋の中に走らせる。雨に濡れ

た窓の向こうに、玄関へ通じるガラス戸の奥

に…。天井の四隅にすら、気配を求めて目を

送ってしまう。そこにさえ、何かがいるよう

な気がして…。いる訳はないのに…。

 「あ…」

 その内に見回す視界に入ってきたのは、加

奈子自身だった。サイドボードの上に置かれ

た小さな鏡に映る加奈子の姿であった。

 「どうして…?」

 ポツリと尋ねる。鏡の中の加奈子に。

 (どうして震えているの?)

 そう尋ねたかったのだ。鏡の中にいる加奈

子はそれほどに弱々しく、それほどに哀しそ

うだったからだ。

 あるいは…、

 (どうして、お母さんに本当の自分の気持

ちを言えなかったの?)

 と尋ねたかったのかもしれない。

 いや、逆に尋ねられたような気がした。

 「……」

 見つめ合う加奈子と加奈子の間に沈黙の時

が流れる。ゴロゴロという低い響きが近づい

てきていた。

 「だって…」

 心細い気持ちを必死に抑えながら、加奈子

の口からポツリと漏れる。

 「だって…加奈子、いい子だもん…」

 そうつぶやいた瞬間、

 ピシャアッ!

 一瞬の輝きが窓を通り抜け、うずくまる加

奈子の姿をシルエットに変える。

 「キャアアッ!」

 ドガアァァァンン!

 思わず上げた悲鳴は、つんざくような落雷

の轟音にかき消される。加奈子は雷鳴の余韻

に耳を塞ぎながら震えていた。

 「うっ…、うっうっ…」

 小さな嗚咽が再び暗くなった部屋の中に漂

い始める。

 「ママ…」

 哀しい響きだった…。

 

 「…!」

 ハッと加奈子はソファに身を起こした。

 そのまま、辺りを見回す。そこは5歳の頃

の家ではなく、現実のコテージの中だった。

 「夢…」

 ホウと加奈子はため息をついた。

 まだ記憶の森から抜け出してきたばかりだ

からか、ボーッとした感じのままである。

 「いやな夢…」

 加奈子はそれだけをつぶやいた。最近は夢

に見ることも少なくなった過去の記憶だった

からである。

 「あれ?」

 不思議そうな声をあげる。コテージの窓が

濡れていることに気づいたからだ。

 「雨が降ってるのかしら?」

 まるで、夢の続きを見ているみたいであっ

た。微かにシトシトと雨音すら聞こえる。

 過去の幻影に囚われている感じがして、と

てもイヤな気分であった。

 「由紀たち、大丈夫かな?」

 気分を切り換えるように、そう口にする。

 自転車で出掛けた由紀たちは傘を持ってい

かなかったはずだ。心配になった加奈子はソ

ファから起き上がり、外を見ようと窓辺に近

づきいていった。

 だが、まさに窓の外を覗きかけた瞬間。

 パキィィンッッッ!

 何かが弾けるような甲高い音が部屋の中に

大きく響いた。

 「え?」

 ビックリして、加奈子が身を縮ませる。

 カタカタカタカタ…。

 ガラステーブルが震え始める。

 「じ、地震?」

 加奈子は地震も苦手だった。

  要するに、根っからの臆病者なのである。

 ブツン。

 消えていたはずのテレビが急に点いた。

 「新発売のカルボナーララーメン。スパゲ

ティとラーメンの素晴らしいコンビネーショ

ンが魅力の逸品。クリームのまろみと…」

 流れるコマーシャルの音がビックリする程

の大きさで部屋に響く。

 「な、何なのっ?」

 慌てて、テレビのスイッチを切る。

 だが、すぐにテレビは点き直した。

 「…誰もが不可能と思っていた味に挑戦し

たカルボナーララーメンは…!」

 「何なのよ、もうっ!」

 今度はコンセントを引き抜く。ブツッと音

がして、完全に画面は暗黒に帰った。

 「な、何がカルボナーララーメンよ。そん

なモン、売れるわけないでしょうが…!」

 加奈子が怒ったように言う。無理もない。

 しかし、見たこともない食品会社の人間に

悪態をついたところで、それはただの八つ当

たりというものである。

 気がつくと、カタカタと聞こえていたガラ

ステーブルの震えも収まっていた。

 「そ、それにしても何故テレビが急に点い

たりしたのかしら…?」

 加奈子はガラステーブルの上に置かれたリ

モコンに目をやりながら言った。誰も触れた

様子はない。もちろん、ここには加奈子しか

いないのだから当然である。

 「地震の震えで、スイッチが入っちゃった

のかなぁ…?」

 そう考えるのが、最も合理的である。

 だが、そうとばかりも言えない気持ちが釈

然としない形で心の中に残った。

 (もしかして、また…)

 昨日までの奇妙な出来事が脳裏に蘇った。

 「考えすぎよ…」

 自嘲的な笑みを浮かべて、加奈子はすぐに

その思いを頭から振り払った。常識的に考え

てもあり得ないことにビクビクするのが、と

てもバカバカしく思えたからだった。

 「…!」

 だが、次の瞬間。加奈子は何者かの視線を

感じて振り返った。

 「キャッ!」

 その視界に、白い人影が映る。

 リビングから玄関へと通じる扉が微かに開

いており、その向こうから誰かが加奈子の様

子をうかがっていた。

 「だ、誰なのっ?」

 叫んだ途端、スッと人影が消える。

 「ま、待ちなさいっ!」

 加奈子は咄嗟にガラステーブルの下に置い

てあった大きめの灰皿を手にした。手に伝わ

る重量感は、十分に武器になると思われた。

 勇気を奮い起こして、消えた人影を追う。

 「待てえっ!」

 リビングから外へと飛び出す加奈子。

 その目に、先程の人影が滑るように廊下を

歩み去っていくのが見えた。

 「お、女の子?」

 その後ろ姿はまぎれもなく少女のものだっ

た。大体、加奈子と同じ位の年齢だろうか。

 白いワンピース姿である。しかし、薄手の

それは春先の気候にはふさわしくなく、初夏

の装いに思えた。

 「ま、待ちなさいよっ!」

 少女は玄関の方へと向かっている。それを

逃げだすと感じた加奈子が叫んだ。

 少女はカチャリと正面のドアを開けて、滑

りだすように外へと出ていこうとしている。

 「逃がさないからっ!」

 重い灰皿を手に、加奈子も一気にスピード

を上げて駈け出す。走る目の前でドアの向こ

うへと少女が消える。

 そのすぐ後に続いて、加奈子も外へと靴も

履かぬままに飛び出した。

 そして、

 「あ…!」

 外へ出た途端、加奈子は短く叫んだ。

 呆然と立ち尽くしてしまう…。

 今出ていったばかりのはずの少女の姿は、

そこにはなかった。誰もいない…。

 コテージの正面は木立の連なる一本道であ

り、周りは逆に開けている。当然ながら、身

を隠すようなスペースなどはない。

 しかし、少女の姿は何処にもなかった。

 まるで空気に溶け込んでしまったかのよう

に、消えてしまっていたのである。

 加奈子の手から力が抜け、灰皿がコテージ

の階段へと落ちる。ガシャンと派手な音をた

てて、それは見事に砕け散った。

 「ま、まさか…」

 震える声で加奈子はつぶやいた。

 全身を抑えようのない恐怖と不安が貫き、

加奈子の体をガタガタと震わせる。

 「う…、うそよ…」

 加奈子の怯えは、消えてしまった少女に対

してのものではなかった。

 それよりももっと大きな驚愕が彼女を包み

込んでいたのである。

 今、彼女の目には眩しいほどの陽光が差し

込んできていたのである。若葉が萌え始めた

木立も鮮やかな緑であり、その上には白い雲

を浮かべた青い空が広がっている。そんな美

しい光景が、眩しい日差しの下に浮かび上が

っていたのだった…。

 その美しく、平和な光景こそが加奈子を恐

怖させている存在であった。

 「そ、そんな…、バカな…」

 力が抜けたように加奈子がしゃがみこむ。

 そう…。そうなのだ…。

 加奈子がまだコテージの中にいた時、窓の

外は確かに雨が降っていたはずなのだ。

  かっての幼き日の留守番の時と同じように。

 薄暗い部屋の中、濡れた窓ガラス…。

 シトシトと雨音すらも加奈子には聞こえて

いたはずだった。

 だが、外に雨は降っていなかったのだ。

  ほんの少し前まで降っていた形跡すらない。

 全てが幻か、夢だったかのように…。

 「……」

 もはや、何も言葉はなかった。加奈子はコ

テージの階段にペタリとしゃがみこんだまま

の状態で、晴れ渡った景色を眺めるしかなか

ったのである。

 そんな彼女の耳には、まだ幻の雨音が響い

ているような気がしていた…。

 

                                                  つづく