学校怪談

「夜の王様」

 

  最終回 「決戦」

 

 長い時間が経ったようにも思えたが、やが

て顔に明らかに外のものと分かる空気が感じ

られた。

 「もう、いいぜ」

 声がして、ようやく美貴が目を開けると、

そこはもう一階の渡り廊下であった。

 夜の空気がひんやりと冷たい。だが、それ

は確かに生きている世界の空気だった。

 「無限の階段は、クリアみたいだな」

 「そうね」

 美貴はそう言って、深呼吸した。外の空気

が肺の中に染み渡って、気持ちいい。

 「じゃあ、美貴」

 山本が不意に言った。美貴が見る。

 「俺が、やつらを引きつけておくから、お

前は早くこの学校から逃げだすんだ」

 「駄目よ。まだ友達を見つけてないの!」

 美貴が叫ぶと、山本は目を丸くした。

 「おいおい、まだいたのか?」

 そう言って、山本は学校を見回す。

 「どこにいるかもわかりゃしない。捜すの

は、はっきり言って無理だぜ」

 「無理じゃない。絶対に見つけ出さなきゃ

いけないのよ!」

 美貴は叫んだ。

 「そいつって、自分から夜の学校に入った

んだろ、そりゃ、自業自得だよ…」

 「違うの。理恵は…、理恵はいやがってた

のを、無理やり私がお願いしたの!」

 「何で、一緒じゃないんだよ?」

 「私が置き去りにしてしまったからよ」

 いつしか美貴の目に涙がにじんでいた。そ

れを見て、山本は目をそらした。

 「…でも、…悪気じゃないんだろ?」

 「そんなの関係ないわよ!」

 美貴の鋭い声に、山本がピクッと顔をあげ

る。見つめた先には、涙に濡れているものの

決意に満ちた眼差しがあった。

 「どうあっても、許されないことはあるの

よ。謝ったって、泣いたって、駄目なものは

駄目なのよ」

 「じゃあ、死ぬしかないな…」

 山本がボソッと言った。

 「違うわ!」

 美貴はすぐさま、山本の言葉を否定した。

 「今、やらなければならないのは、理恵を

救い出すことよ!」

 「……」

 強い光を持った瞳がそこにあった。山本は

その瞳を見つめながら、ジッと考え込んでい

た。その心の中に、はるか遠い彼方から聞こ

えてくる声を感じ取りながら…。

 その時、細々とした声が聞こえた。

 美貴が直ぐさま反応する。

 「あれは、理恵…。理恵の声よ!」

 耳をすますと、その声は風に乗って、細々

と聞こえてくる。

 『たすけて…、たすけて…』

 それは確かに理恵の声であった。

 「は、早く行かなくちゃ…」

 あわてて駆けだそうとする美貴の腕を、山

本がつかんだ。

 「行くな。あれはワナだ」

 「う、うそよ。あれは確かに理恵の声よ」

 「夜の王様は、まやかしが得意なんだ。人

の声ぐらいは、簡単にマネできる」

 「そ、そんな…」

 美貴は声のする方を見た。そちらは夜の闇

に包まれて、よく分からなかった。

 山本も、闇をジッと見つめている。

 「美貴。あっちには何があるんだ?」

 「あ、あそこはプールになってるわ」

 「この学校の7不思議を思い出せ。ここの

プールにまつわる話はあるのか?」

 美貴はポケットから、例のメモを取り出し

て、ページをめくる。

 「あるわ…」

 そう言って、美貴の手が止まる。

 「どんな話なんだ?」

 「えっと、真夜中にプールで泳ぐ少年の話

よ。昔におぼれ死んだ子供が、夜になると泳

ぎはじめるってやつ…」

 「なるほどね…。行ったら、お前はプール

の中に引きずり込まれちまうぜ」

 「で、でも、もし本当だったら…」

 美貴は気が気ではない。理恵の声が聞こえ

ているだけに、その焦りは高まるばかりだ。

 「だったら、もう少し待て…」

 「何でなのよ?」

 「夜の王様ってのは、ガマンが足りないの

さ。しばらくすれば、シッポを出す…」

 「……」

 美貴は山本の言葉に従って、しばらく待つ

ことにした。だが、その間も理恵の助けを求

める声は聞こえつづけていた。

 『たすけて…、たすけて…』

 その声を聞きつづけていることは、美貴に

とっては拷問に近いものだった。

 その内に不意に、声が止んだ。

 「り、理恵っ!」

 美貴が叫んだ途端、プールの方から不気味

な笑い声が聞こえてきた。

 アハハハハハ、アハハハハハ。

 それは理恵の声で笑っていた。

 「やっぱりな…」

 山本がため息をつきながら、言った。

 その横で、美貴は身体を震わせていた。

  恐怖のためではない。それは身体を焼き尽

くすような怒りのためであった。

 「ゆ、ゆるせない…」

 しぼりだされた声は、果てし無い怒りのエ

ネルギーを含んでいた。

 そして、美貴が不意に叫んだ。

 「やい、夜の王様。あんたに耳があるなら

よく聞きなさい!」

 これには山本があわてた。

 「おい、美貴。ちょっと…」

 だが、美貴はやめなかった。

 「あんたには、いい加減キレたわ。これ以

上、くだらないゲームにつきあわされるのは

真っ平よ!」

 美貴の怒声が、校舎全体へと響きわたる。

 それと同時に、学校全体に明らかな動揺が

広がるのが感じられた。

 その反応を確かめながら、美貴は続けた。

 「私たちと勝負しなさい!」

 ザワザワと中庭の木々が揺れる。

 「あんたたちが鬼ごっこを望んでいるのな

ら、それでもいいわ。ただし、勝負であるか

らには、ダラダラとなんかやってられない」

 「おい、美貴…」

 山本が美貴の腕をつかむが、美貴はそれを

振り払って、なおも叫んだ。

 「ちゃんとゴールを決めなさい。そして、

そこへ私たちがたどりついたら、理恵も、飯

島くんも、さっきの中学生も、夜の学校に捕

らわれている人たち全員を返すのよ!」

 シーンと学校は静まりかえっていた。

 「私たちが怖いの?それで、よく夜の王様

なんて、言っていられるわね!」

 学校が震えているのを感じてはいるが、何

らかのリアクションは返ってこなかった。

 「どうなの?、勝負を受けるの、受けない

の!」

 美貴が叫ぶと同時に、第二校舎に光の点滅

が現れた。山本が驚く。

 「美貴、あれは…?」

 「六年四組の教室だわ!」

 「つまりは、あれがゴールということか」

 「そうみたいね…」

 見つめる先で、六年四組の教室の明かりが

激しく点滅を繰り返している。

 その激しさが、夜の王様の怒りのレベルを

表現していると言ってよいだろう。

 学校中に悪意と共に、殺意に近いものが立

ち込めてきている。それは鬼気と言っても良

いものであった。

 校舎全体が青白く輝きを放ち始める。

 「へっ、俺もいろんな学校を渡り歩いてき

たけど、ここまで無茶をやらなかったぜ」

 山本がカチカチとケン玉をもて遊びながら

言った。彼も緊張しているようだ。

 「どうも、私って、カッとなるのよ」

 美貴が申し訳無さそうに、言う。

 「まあ、いいさ。だがな…」

 カチンとケン玉を剣先にはめて、山本が真

剣な目になる。

 「ここまでやった以上、夜の王様は手加減

しちゃくれねえぞ…」

 「のぞむところだわ!」

 美貴がこぶしを握りしめて言う。

 山本はそれを見て微笑むと、帽子をかぶり

なおし、口許をペロリとなめた。

 「待って…!」

 不意に美貴が、山本に声をかけた。

 「どうした?」

 「私、あなたの下の名前、聞いてない」

 山本の顔に、驚きとも、動揺ともつかない

複雑な表情が浮かぶ。

 「そんなの、どうでもいいじゃん」

 「ダメよ。もしかすると、これで…」

 美貴は言葉を止めた。

 死んじゃうかもしれないじゃない。

 そう言いかけて、言葉を続けられなかった

のである。言ったら最後、本当にそうなって

しまうような気がしたのだった…。

 「マモル…」

 山本が不意に答える。

 「マモルくん…?」

 「ああ」

 山本はぶっきらぼうに答える。視線の隅に

は、廊下にかかった体操着の袋がある。

 「字は?」

 「忘れたよ。それよりもいくぞ!」

 「オッケー、マモル!」

 言われて、山本マモルは照れくさそうな笑

顔を浮かべた。

 

 渡り廊下の第一校舎側が出発点となった。

 ゴールである六年四組の教室だけに、明か

りが点いていた。それ以外は、第二校舎は闇

に包まれていた。

 「準備はいいか?」

 山本が聞いた。手にケン玉がある。

 「大丈夫よ。いけるわ…」

 美貴が答える。手には竹刀があった。

 「スタートッッ!」

 山本が叫び、二人が一気に走りだす。

 それと同時に、渡り廊下をはさんでいる中

庭の茂みの中から、ザザッと音をたてて、現

れたものがあった。それは無数の竹刀で、空

中に浮かび上がっていた。

 「一気に行くぞ、絶対に止まるなっ!」

 渡り廊下を突っ走る二人をめがけて、左右

から襲いかかる竹刀の群れ。それは目に見え

ぬ糸にあやつられるように、二人を狙い、空

中をすべってくる。

 バシッ、バシッ、バシッ。

 二人に当たらなかった竹刀が、渡り廊下の

壁にぶち当たって、バラバラになる。実際に

それほどの勢いで飛んでくるのだ。

 「気をつけろよ。当たったら、ケガじゃ済

まないからな!」

 ケン玉で竹刀を弾きながら、山本が叫ぶ。

 「マモルこそ、気をつけてね!」

 竹刀を振り回しながら、美貴が言った。

 そして、そのまま二人は第二校舎へと走り

込んだ。山本が走り込むと同時に、ドアを閉

じる。その途端、

 バシッ、バシン、バッシイィィン!

 ドアへと当たって、竹刀の砕ける音が響き

わたる。危ないところであった。

 「フゥーッ、あぶねぇ、あぶねぇ…」

 「幽霊でも、こわいんだ?」

 「あったりまえだろ。俺は、お前のほうが

怖くないのかと思うぜ」

 「怖がってるヒマなんか、ないわよ」

 「そりゃ、そうだ」

 グワッシャアン、パリーン!

 山本が笑った途端、一階の教室の窓を破っ

て、机やイスが廊下へと飛び出してきた。

 「いくぞ、美貴!」

 「オッケー!」

 息をつく間もなく、二人は階段へと走る。

 登りはじめると同時に、今さっきまで二人

がいた所で、机やイスがもの凄い勢いでぶつ

かっては、砕け散った。

 (すでにゲームを超えている!)

 美貴は、背後で響きわたる音を聞きながら

そう思った。

 (やつらは殺す気だ!)

 今までは、怖がらせることに目的をおいて

いたような感じがあった。だが、今の様子で

は明らかに力技で危害を加えようとしている

のが分かった。

 階段にまやかしがかけられていないのが、

何よりの証拠とも言えた。

 駆け登る二人の行く手に、人影があらわれ

た。手には鉄パイプを握っている。

 人体模型だった。鉄パイプは、どこかのス

チール机からもぎ取った物だろう。

 「こりゃ、とんでもない番人が待ってたも

んだぜ」

 「でも、ここを通らなければ、三階には行

けないわ」

 「じゃあ、突破するしかねえな!」

 山本はそう言うと、襲いかかる人体模型に

向かって、ケン玉を振った。

 ケン玉のロープが、人体模型の腕に巻きつ

く。と同時に、山本が思いっきり引っ張る。

 階段の上から襲いかかってきていた人体模

型は、そのままの勢いで二人の間をかすめて

落ちていく。そして、下の踊り場の床にぶつ

かって、バラバラになってしまった。

 そんな様子には、目もくれずに駆け登る二

人の足音が上へと消えていく。

 カランカランと音をたてて転がる鉄パイプ

を、人体模型の目が見つめていた。

 

 三階から四階へ。

 ここを抜けてしまえば、そこは六年四組の

ある階に到達する。

 そこで二人は、もっとも危険な待ち伏せに

あっていた。

 「どうする?」

 階段の手すりの陰にかくれながら、美貴が

山本に聞く。山本もさすがにためらっている

のが伝わってくる。

 四階の踊り場に、無数の小さな物体が浮か

んでいた。それは鈍い光を放ちながら、三階

から四階へと続く階段の登り口を確実に狙っ

ていた。

 六年四組の奥が家庭科室になっていたのを

美貴は忘れていた。

 四階の踊り場に浮かんでいるのは、包丁に

ハサミ、ナイフ、フォーク、縫い針…。鈍い

光に殺意をたぎらせている。

 「どうしよう?」

 美貴が再び聞いた時、またも大きな音が響

きわたった。

 ガシャアアン、バリイィィン!

 すさまじい音と共に、三階の教室から廊下

へと机やイスが飛び出してくる。

 このままでは一階と同じように、つぶされ

てしまうかもしれない。

 「こうなりゃ、一か八か行くしかないな」

 山本が決心した。

 「どうやって、突破するの?」

 「頭っていうのは、生きているうちに使う

ものなんだけどな…」

 そう言って、山本はスタジアムジャンパー

を脱いだ。

 「俺が走れ、って言ったら、ダッシュで抜

けるんだぞ!」

 「わかったわ」

 美貴は山本が考えてることに気づいて、う

なずいた。

 そうしている間に、机やイスは間近にまで

迫っていた。もう待っている余裕はない。

 「いくぜっ!」

 山本がスタジアムジャンパーを階段の真ん

中に放り投げる。その次の瞬間には、包丁を

始めとする刃物の群れが、そのジャンパーに

突き刺さっていた。

 「今だ、走れぇっ!」

 美貴と山本は、一気に階段を駆け登り、つ

いに四階へと到達した。

 そして、そこで最後の難関を目撃した。

 (何なの、これは?)

 美貴はヨロヨロと歩み寄った。

 目の前に巨大な壁があった。

 「くそぉ、汚すぎるぜ…」

 山本がその壁をにらみながら、言った。

 恐らくは、四階の教室にある机やイスを総

動員したものであろう。それらが組み合わさ

って作られた壁が、廊下を完全にふさいでい

たのである。

 「どうして…、ここまで来たのに…」

 美貴が哀しそうに、力なくつぶやく。

 さっきの四階の踊り場を守っていた刃物の

群れは、これを作るための時間かせぎだった

に違いない。

 「もう駄目だよ…」

 美貴がつぶやいた。

 「まだ、駄目と決まったわけじゃない」

 山本が励ますが、美貴は完全にうちひしが

れていた。

 「もう、理恵を助けられないよ…」

 美貴の声が、泣き声に変わっていく。

 冷たい床に、ポツリと涙が落ちた。

 「美貴…」

 山本は、泣き崩れる美貴を見つめていた。

 その耳に、遠い彼方からの声が聞こえてく

る。それは、山本自身の記憶の底から、呼び

かける声であった。

 『山本くん…』

 その声は、そう言っていた。

 

 そして、記憶の扉が開く。

 山本が生きていた頃、彼は一人の女の子に

あこがれていた。そして、山本には、たった

一つ、その子への願いがあった。

 それは、彼女に下の名前で呼んでもらうこ

とだった。

 彼女はいろんな男子と仲が良く、いつも彼

らのことを下の名前で呼んでいた。だが、山

本だけは呼ばれなかった。

 「山本くん」

 いつも、そう呼ばれていた。何故かと聞く

と、山本は気弱でおとなしい感じだから、名

字の山本の方が呼びやすいと言われた。

 気弱でおとなしいから…。山本はそう言わ

れてショックを受け、自分が強いところを見

せるために、女の子を夜の学校での肝試しに

誘ったのだった。

 だが、その途中で変な物音がしたのに驚い

てしまい、山本は彼女を置き去りにして、家

へと逃げ帰ってしまったのである。

 彼女の呼びかける声が、耳に残る。

 「山本くーん」

 「山本くーん」

 「○○くーん」

 最後に微かに自分の下の名前を呼ばれたよ

うな気がしたが、その時の山本には恐怖のた

めに余裕がなく、それを確かめることができ

なかった。

 そして、それは永久に確かめることができ

なくなってしまったのだった。

 まさか、変な物音の正体が、本当に学校へ

の侵入者によるものだったと、誰が想像でき

ただろうか。

 それきり、彼女の姿は消えた。

 数日後、山本は自らの死を選んだ…。

 今でも耳に残るのは、彼女の呼びかける声

である。それがために成仏できない。

 そして、その呪縛は彼女に下の名前を呼ん

でもらうまで、解けることはない…。

 

 そうだった…。

 遠い記憶の彼方への旅から帰ってきた山本

は、自分の心に問いかけた。

 何をすべきなのか?

 必要なことは何か?

 「必要なのは、勇気だ。決してあきらめな

い強い心なんだ」

  山本はそう言うと、美貴に近寄って、彼

女を抱き起こした。

 「美貴、しっかりしろよ」

 「だって、もう無理だよ…」

 「あきらめるな。お前は、理恵を助けたい

んだろ、だったら絶対にあきらめるな!」

 強い言葉だった。

 美貴はその言葉にハッとして、身体を起こ

した。顔にやや精気が戻っている。

 「マモルくん…」

 「そうさ、絶対にあきらめない。それを教

えてくれたのは美貴じゃないかよ」

 山本はそう言って、微笑んだ。

 「どうして、そこまで一生懸命になってく

れるの?」

 二度と友達を見捨てたくない。

 だが、その思いを口には出さず、山本は廊

下に立ちふさがる壁に向かって歩きだした。

 手にケン玉を握っていた。

 「マモルくん。一体、どうするの?」

 美貴が聞くと、山本はいきなりケン玉を振

り始め、赤い玉を壁に向かって、手当たり次

第にぶつけはじめた。

 「そ、そんなのしても、無駄だよ!」

 美貴が思わず叫ぶ。だが、山本はかまわず

ぶつけ続けた。

 「美貴…」

 玉をぶつけながら、不意に山本が言った。

 「な、何…?」

 「ケン玉の上手になる極意って、知ってい

るかい?」

 「そんなの、知らないわ」

 「力の流れを読むことと、力の中心になっ

ている点を見つけ出すことさ」

 山本はなおも、玉をぶつけ続けている。

 「こうやって、玉をぶつけていると、その

振動の伝わり方で、力の流れを読むことがで

きる」

 美貴は、山本の意図を瞬時に理解した。

 「そして、その流れが集まるところが、力

の中心になっているところなのさ!」

 「わ、わかったわ、マモルくん!」

 美貴が叫ぶと、山本は振り返って、ニッコ

リと笑った。

 そして、大きく玉を振りかぶった。

 「壁を支えている力の中心点…、それは、

ここだぁ!」

 山本がケン玉を振って、玉を勢いよく壁の

一点にぶつけた。

 ガキッと音がして、小さな振動が壁の隅々

まで広がっていく。

 「ああっ」

 美貴が声をあげた途端、壁を組み上げてい

る机やイスのバランスが一気に崩れた。

 ガラガラガラ…、ガッシャアアン!

 大きな音と地響きと共に、廊下をふさいで

いた壁は呆気なく崩れさったのだった。

 「どんな時でも、あきらめない…」

 山本がつぶやく。

  「そうすれば、必ず道は開けるんだ」

  山本は自分に言い聞かせるように言い、そ

して美貴を振り向いた。

 「そうだろ、美貴!」

 「うん、うん!」

 美貴は涙で顔をクシャクシャにしながら、

何度も何度もうなずいた。 

 もはや、二人の行く手をふさぐものは、何

もなかった。

 いま、美貴と山本の前には六年四組の教室

のドアがあるだけであった。

 

  このドアの向こうに理恵がいる。

  美貴は取っ手に手をかけながら、勇気を奮

い起こした。

  山本を見る。

  山本はコクリとうなずいた。 

 「理恵っ!」

 ガラリと六年四組のドアを開けるなり、美

貴が叫ぶ。そして、中を見回す美貴の目が、

ある一点で止まった。

 いた!

 机もイスもなくなって、ガランとした教室

の中央に、理恵と裕一が寝かされていた。

 「理恵っ!」

 もう一度叫ぶと、美貴は部屋の中へとかけ

こんでいった。

 それと同時に、キィィと音が響いた。

 美貴の後から教室のドアに現れた山本は、

それに気づいて、音のしている方向を目で追

いかけた。

 「美貴、気をつけろっっ!」

 山本が美貴へと注意を呼びかけた。

 ちょうど理恵や裕一の寝かされている真上

にある蛍光灯の根元が、徐々に浮き上がって

いくのを見たのだ。

 (やつら、落とすつもりだ!)

 山本は夜の王様の意図を見抜き、その最後

の罠に恐怖した。

 理恵や裕一を助けようとした途端、上から

蛍光灯を落として、美貴もろとも下敷きにし

てしまおうとしているのだ。

 だが、美貴の耳に、すでに山本の注意は届

いていなかった。彼女の意識は、目の前の理

恵だけに集中されているために、周囲の状況

には気づきもしない。

 ギギギギ…。

 パラパラと漆喰がこぼれ落ち、蛍光灯は今

にも落下しそうな雰囲気である。

 「理恵、大丈夫?」

 美貴は理恵にかけよると、彼女を抱き起こ

して、名を呼びかけていた。

 「あ、あぶねえぇっ!」

 山本が叫んだ瞬間、ついに蛍光灯は天井か

ら離れて、落下を開始した。

 美貴はその山本の叫びによって、初めて頭

上から襲いかかる蛍光灯に気づいた。

 「キャアアアッッ」

 悲鳴をあげながら、美貴は理恵の頭を胸の

中に抱え込んだ。せめて友達だけでも守ろう

とする美貴の精一杯の行動であった。

 (理恵、ゴメン…!)

 そう心の中でさけんで、美貴は目をつぶっ

た。そこへ蛍光灯が落ちてくる。

 「やめろおぉぉぉ!」

 山本が絶叫する。

 そしてそこから先、何も音はしなかった。

 「…?」

 美貴が恐る恐る目を開ける。そして、上を

見上げた。

 蛍光灯は止まっていた。それも美貴たちの

頭上、10センチもない所で止まっていた。

 蛍光灯からは天井に向かって、電気コード

が伸びていた。それが切れなかったがために

蛍光灯は当たる寸前までで、止まったのであ

った。そこまでが限界だったようだ。

  「エネルギー切れかよ…」

  山本がホッとしたようにつぶやいた。

  教室の中に静かな沈黙の時が流れる。 

 「ハ…ハハ……ハハハハ…」

 山本の口から、少しずつ笑いがもれた。

 「フフ…ウフフフ…フフフフ…」

 それにつられて、美貴も笑いだす。

 「アハハハハハハハハ…!」

 二人は同時に笑いだした。どうにもこうに

も止まらないほどに、笑いがこみ上げてくる

のだった。

 「た、助かったのね、私たち」

 美貴が理恵を抱きながら、言った。

 「ああ、もう終わったよ。夜の王様のやつ

も、もうこれで当分動けやしないさ」

 山本は教室の中を見回しながら、そう言っ

た。すでに学校を覆い尽くしていた禍々しい

気配は消えていた。

 「そうさ、ゲームは終わったんだ…」

 そして、学校に静けさが戻った。

 美貴は理恵を抱いたまま、泣きじゃくって

いた。

 「理恵、ごめんね…。ごめんねぇ…」

 泣きながら、何度も繰り返す美貴。

 そして、理恵がうっすらと目を開けた。

 「美貴…」

 理恵は泣きながら謝る美貴に気づくと、優

しくその頭に触れた。

 「ありがとう、美貴…」

 理恵が優しく言う。その声に美貴が顔を上

げ、見つめ合った二人はどちらからともなく

微笑み合うのだった。

 その光景を山本はドアの所から、やはり優

しい眼差しで見つめていた。

 美貴がその視線に気づいて振り返った。

 「マモルくん、あなたのおかげよ」

 美貴が涙に濡れた笑顔を向ける。

 「マモルくん、ありがとう…」

 だが、その時、山本の目から一筋の涙が流

れたのだった。

 「マモルくん?」

 美貴はそれに気づいて、不思議そうな顔を

した。理恵がそんな美貴に言った。

 「美貴…。彼の名前はマモルじゃないわ」

 「え?」

 美貴が驚いて、理恵を見る。だが、理恵の

目は山本の方を向いていた。そして、彼女の

瞳からも一筋の涙が流れた。

 「理恵…?」

 「彼の名前は、誰も知らないの…」

 「どういうこと?」

 その問いに答えたのは、理恵ではなく山本

自身であった。

 「だって、俺自身が覚えてないんだもん」

 「ちょ、ちょっと、何なの?」

 美貴があわてて、山本に問いかける。

 山本は、寂しそうな表情を浮かべた。

 「俺は、あの子に名前を呼んでもらえる時

まで、自分の名前が思い出せないんだよ」

 山本の目から、さらに涙がこぼれた。

 「何で、俺はあの時、逃げだしちゃったん

だろうなぁ…。どうして、あの子を守ってあ

げられなかったんだろうなぁ…」

 「や、山本くん…」

 美貴が元の名字で呼びかけた。だが、それ

すらも彼には届いていないようだった。

 「あれきり、学校に来なくなっちゃったけ

ど、俺…、ずっと待ってたんだ…。いつまで

も、いつまでも…」

 聞いている美貴や理恵の目からも、涙がこ

ぼれていた。

 「きっと、何処かの学校にいるんだよ。そ

して、いつか俺の名前を笑顔で呼んでくれる

はずなんだ…」

 「や、山本くん」

 美貴の声に、山本は美貴を見た。

 「でも、もう平気だよ。美貴があきらめる

な、ってことを教えてくれたから。俺はいつ

までも待てるよ」

 「ち、違うのよ。そうじゃない…!」

 叫びかけた美貴の肩を、理恵がつかんだ。

 振り向く美貴に向かって、理恵は無言で首

をゆっくりと左右に振った。

 美貴も理恵も気づいていたのだった。

 山本が探している子はいない。

 もう、何処の学校にもいない。

 二度と巡り会えない場所に「あの子」は、

すでに旅立ってしまっているのだ…。

 決して報われることのない哀しい旅路を山

本は続けているのだ…。永遠に…。

 理恵の眼差しは、そのことを告げてはなら

ないと語っている。

 「美貴…」

 不意に呼びかけられて、美貴は山本の方へ

と振り向く。山本はドアの所にいた。

 「俺にもあの時、美貴みたいな勇気があれ

ばよかったと思うよ…」

 そう言って、山本はドアの向こうへと姿を

消した。空気がフワリと動く…。

 何かが遠ざかっていく気配がした。

 「山本くん!」

 あわてて後を追った美貴だったが、廊下に

出た時、すでにそこに山本の姿はなかった。

 「楽しかったぜ…」

 何処からともなく山本の声が響く。

 「山本くんっっ!」

 美貴の叫びが、廊下に響いた。だが、それ

に応える声はどこからもなかった。

 「美貴…」

 いつの間にか理恵が来て、美貴の肩にそっ

と手を置いた。

 「もう、行っちゃったわ…」

 理恵が寂しそうな声で言った。

 「…!」

 美貴の目から涙があふれた。

 「私、彼に何もしてあげられなかった…」

 美貴の口から嗚咽がもれる。そして、その

まま、理恵にもたれかかるようにして泣き崩

れるのだった。

 「ご、ごめん…、山本くん…」

 泣きじゃくる美貴の頭を、理恵が優しくな

でた。何も言わず、ただ、そっと…。

 いつまでも美貴の泣き声が続いていた。

 こうして、長い夜の王様とのゲームは完全

に終わりを告げたのであった…。

 

 

 

     エピローグ

 

 朝のやわらかな日差しが、緑ヶ丘小学校を

つつんでいた。

 教室の中には、いつものにぎやかな雰囲気

が戻ってきていた。グラウンドへ駆けだして

いくサッカー少年、宿題を写している忘れん

坊、小さな鏡で髪を直している女の子。

 そこには、暗い翳りは少しも感じられなか

った。

 そして、退院した鳴美の席には、いつもの

ようにウワサ好きな女の子たちが集まってい

た。

 「例の学校荒らしって、捕まったの?」

 一人の女の子が聞いた。

 「ううん、まだみたいよ。でも、机もイス

も目茶苦茶にした上に、ガラスまで割られま

くったんでしょ?」

 鳴美が答えるが、退院したてで、良く情報

を集められると感心してしまう。

 「ひどい話よね。でも、あれだけのことを

やるには一人じゃなくて、たくさんの人がい

なきゃ、無理だよね」

 「そう言えば、行方不明の中学生って、見

つかったんでしょ。その子たちがやったんじ

ゃないの?」

 「無理無理。見つかった時は、もう虫の息

だったんだって」

 「理恵は覚えてないの?」

 女の子の一人が、理恵にふった。

 「ゴメン。全然、覚えてないのよ。どこで

何をしてたのかも…」

 「まあ、いいんじゃない。とにかく元気で

戻ってきたんだから」

 鳴美があっけらかんと言う。みんながそれ

につられて、笑った。

 「飯島くんも戻ってきたもんね。さっきも

校門の所でカメラかまえてたよ」

 「いやだぁ。また女の子のパンチラでもね

らってるんじゃないの?」

 「そんなこと、ないわよ!」

 鳴美が言ったのを受けて、周囲から冷やか

しの声が上がる。

 どうやら、鳴美の中にも、裕一に対する思

いの自覚が芽生えつつあるようだった。

 「そう言えば、夜の王様の話って、聞かな

くなったよね」

 女の子の一人が言った。

 「あの学校が荒らされた日以来でしょ。も

しかして、夜の王様の仕業だったりして…」

 「だったら、また起きるのかなぁ」

 「ううん、もう終わったのよ」

 美貴がきっぱりと言った。

 「どうして、そんなこと分かるの?」

 鳴美が不思議そうな顔をして聞いた。

 「私たちには分かるのよ。ね、理恵」

 「うん、そうよね」

 理恵が答え、二人は笑った。

 「変なの。この前まで、学校の怪談なんて

少しも信じてなかったくせに」

 別の女の子が言うと、美貴は微笑んだ。

 「女の子は気まぐれなのだよ。そんな細か

いことを気にしてられますか!」

 美貴の様子に、一同から大爆笑が起こる。

 その笑いの中で、美貴はふと窓の外に目を

向けた。その表情に、寂しげな影がよぎる。

 山本くん…。

  心の奥で、そう呼びかける。

 どこにいるのかも分からない。

 どこに行くのかも分からない。

 ただ、今日も彼はどこかの学校を旅してい

るに違いない。

 もう一度巡り合える日が来たならば、その

時は名前を呼んであげたかった。

 本当の名前が分かるまで、何度でも…。