学校怪談

  夜の王様

 

  第三章 「理科室」

 

 ガラリとドアを開けると、いつもながらの

臭いが鼻をついた。すっぱいような、甘いよ

うな独特の臭いであった。アルコールのもの

なのか、それとも無造作に置かれた水槽の中

の水が腐っているのか、それはよくわからな

かった。おそらくは、部屋中に置かれている

薬品の入り交じった臭いに、部屋そのものが

持っている雰囲気とが、微妙にブレンドされ

たものなのだろう。

 理科室。それがこの部屋の名前であった。

 ガラスをはめた戸棚には、たくさんのビー

カーや試験管が見える。変にかしいだ上皿て

んびんは調整されていないものだろう。そし

て、ラベルの貼られた薬瓶の数々。硫酸、塩

酸、ヨウソ液、過酸化水素水、アルカリ溶液

などなど…。それらを収めた棚には、しっか

りとカギがかけられていた。

 並んでいるテーブルには、無数の薬品のし

みやコゲ跡が見える。授業でこぼしてしまっ

たものや、マッチの燃えかすをうっかり置い

てしまった結果なのだろう。

 そのテーブルの向こうに、目的のものは置

かれていた。黒い空洞となった目が、こちら

を見つめている。白い強化プラスチックで作

られた歯が、パクリと開いた口の向こうで鈍

い光を放っていた。まるで、部屋に入ってき

た人をあざ笑っているような印象がある。

 人骨標本。ガイコツの模型であった。

 

 「これが、例の笑うガイコツかぁ」

 鳴美がガイコツの前に立って、言った。

 「一応、この緑ヶ丘小学校の7不思議の一

つなんだろ。それ」

 一緒に入ってきた裕一が、カメラの三脚を

用意しながら言った。

 「まあね。どうやったら、このガイコツが

笑いだすのか知らないけど…」

 鳴美が無遠慮にガイコツの頭をなでる。

 裕一と鳴美の二人は、このガイコツを撮影

するために理科室にやってきたのであった。

 美貴は各クラブの部長が集まる代表委員会

に出席しており、武は家の無線機の調子が悪

いとかで、今日はさっさと帰ってしまってい

た。

 「アハハ、よく見ると、このガイコツって

かわいいじゃん。これが笑いだすのって、意

外と大ウケかもしれないね」

 そう言いながら、鳴美がガイコツの額をこ

づくと、ガイコツがブラブラと揺れる。まる

で踊っているような感じだった。

 「そりゃ、そうかもな。学校の怪談を取材

するよりも、それを使って、『笑うガイコツ

ショー』をやった方が面白いぜ」

 「言えてる。マジにウケるよ、それ」

 鳴美は調子に乗って、ガイコツをいじくっ

ている。その横で裕一はせっせと、カメラの

準備を続けていた。

 「後藤。あんまりいじってると、こわれる

かもしれないぜ。いい加減にしとけよ」

 「わかってるって。それよりも人体模型の

方も用意しておく?」

 ガイコツから手を離して、鳴美が聞いた。

 裕一は奥にある理科準備室の方を見た。そ

この小さなガラス窓の向こうに、人体模型が

見えている。血管の流れや筋肉の様子などを

再現した模型であり、その不気味さにおいて

は、学校の中でかなうものはない。

 「あのグロテスクなやつかぁ。まあ、横に

並べておけば気味悪いけどね」

 「そう。じゃあ、並べてみようよ」

 「そりゃいいけど。人体模型の方にも怪談

はあるのかよ?」

 「もちろん、あるわよ」

 「俺さぁ。このガイコツの話だって、よく

知らないんだぜ。カメラで撮るにも、イメー

ジってものがあるんだから、一応聞かせてお

いてくれよ」

 裕一はそう言って、カメラを手にする。

 「なんだ、知らなかったの?」

 鳴美は『早く言えよ』という表情をすると

裕一に話しはじめた。

 「昔ね、ある先生が理科室に遅くまで残っ

て、実験をしていたんだって。すると、天井

の蛍光灯が切れちゃったそうなの。その先生

は取り替えるためにテーブルの上にイスを乗

せて、登ったんだけど、足を踏み外して落ち

てしまったのよ」

 「マジかよ?」

 「うん。その翌朝になって、そんな事を知

らない別の先生が来てみると、理科の先生が

テーブルの所で逆立ちをしているので、思わ

ず大笑いしてしまったんだって」

 「そりゃ、いきなりそんなのを見せられれ

ば、笑うよな」

 「でもね。そう見えただけで、実は首の骨

を折って、もう死んでいたのよ」

 「ひでえ…。イヤだな、そんな死に方」

 「それからなの。夜になると、ガイコツが

独りでに笑いだすようになったのよ」

 「ふーん。なんか分かったような、わから

ないような話だなぁ。作り話だな、そりゃ」

 裕一がボヤく。でも、鳴美は別に動じた様

子もなく言った。

 「怪談なんてそんなものよ。だって人体模

型の方は、夜になるといきなり歩き回るとい

うだけで、何の理由もないんだもん」

 「はいはい。ま、とりあえず両方とも撮っ

ておくことにしましょ」

 そう言いながら、裕一はカメラを理科準備

室の方に何気なく向けた。

 「あれ?」

 急に裕一が素っ頓狂な声を出す。

 「どうしたの?」

 「いや…。あのさぁ、準備室の人体模型っ

て、さっきは向こうを向いてなかったけ」

 「はあ?」

 そう言って、鳴美も理科準備室の方を向い

た。

 人体模型がガラス窓の向こうから、こっち

を見ていた。まるで、覗き見をしているみた

いに見える。

 「別に気にしてなかったから。最初から、

ああだったんじゃないの?」

 「おかしいなぁ。確か、さっきは頭の後ろ

しか見えてなかったと思ったんだけど…」

 裕一の記憶では、人体模型の顔が見えてい

た覚えがなかった。それが今は、顔をこちら

に向けている…。

 「勝手に動くわけないでしょ。何をバカな

こと言ってるのよ、今は昼間よ」

 「そうだよなぁ…。悪い、悪い、俺の勘違

いだったみたいだ」

 「バカなこと言ってないで、さっさと終わ

らせようよ」

 鳴美に言われて、裕一はそのまま人体模型

の方にカメラを向けた。ファインダーをのぞ

きながら、ピントを合わせる。

 ファインダーの中には、人体模型の顔がア

ップで見えていた。ボヤァとした状態から、

ピントを合わせていくと、不気味な顔が画面

全体になった。

 「うへぇ…、気味悪い顔だぜ…」

 そう言って、裕一が録画ボタンを押そうと

した瞬間だった。

 いきなり、人体模型の目がパチリとまばた

いたのである。

 「うわあああっっ」

 裕一が叫び声をあげて、のけぞる。その声

にビックリして、鳴美も飛び跳ねた。

 「な、何なのよっっ?」

 「う、動いた!じ、人体模型の目が、いき

なり、ま、まま、まばたきを…!」

 裕一は人体模型の方を指さしたまま、あわ

てふためいている。鳴美は、腰に手を当てる

と裕一をにらみつけるようにして、言った。

 「んな事、あるわけないでしょ。私をビビ

らせようとしたって、無駄ですからね。そん

なウソじゃ、驚かないわよ」

 言われてみれば、それもそうだ。裕一は、

もう一度恐る恐るファインダーをのぞきこん

だ。再び、人体模型の不気味なアップが、目

にとびこんでくる。だが、そこに見えるのは

ただの模型であり、別におかしなところはな

かった。

 「あれ、おかしいなぁ。確かにさっき…」

 「昼間っから、寝ぼけないでよ!」

 そう怒られて、頭をかきながら裕一は録画

ボタンを押した。だが、カメラはウンともス

ンとも言わない。

 「あれ?」

 「今度は何よ?」

 「いや…、カメラが動かないんだよ」

 あれこれとスイッチをいじくるが、やはり

カメラは動かない。ファインダーとかは映っ

ているのに、録画だけができないのだ。

 「バッテリー切れじゃないの?」

 「違うよ。ちゃんと映ってるんだけど…」

 「じゃあ、単にこわれたんでしょ」

 「そうかなぁ。でも、このままじゃ撮影で

きないぜ」

 「放送室にもう一台あったんじゃない?」

 「あることはあるけど、あれはタイプが古

いやつなんだよな」

 「この際、そんなことは言ってられないわ

よ。さっさと取ってきてよ」

 「…わかった。ちょっと、待ってて」

 面倒くさいな、という表情をしながら、裕

一は部屋を出ていった。鳴美はそれを見送っ

て、ため息をつく。

 「なんかこう…、手際が悪いんだから!」

 そう言いながら、鳴美はイスに座った。裕

一が帰ってくるまでは何もできないので、足

をブラブラとさせながら、窓の外をながめて

いた。外はいい天気であった。

 ボーッとしている鳴美の背後で、小さな変

化が起こりはじめていた。裕一が出ていった

ドアは半開きになっていたのだが、それがゆ

っくりと閉まり始めたのだ。

 まるで見えない手で動かされているかのよ

うに、そして鳴美に気づかれないように、ド

アは静かにゆっくりと閉まっていく。

 そして、カチャリという音がした。

 ドアのカギがひとりでにロックされたので

あった。その音に、鳴美が振り向く。

 「何の音?」

 まだ、ドアのカギが閉められてしまったこ

とに鳴美は気づいていなかった。ただ、何か

が変わりつつあった。

 「何?どうしたの?」

 何か様子がおかしいことに気づいた鳴美が

イスから立ち上がった。理科室の中に不思議

な気配がただよいはじめている…。

 「なんか、寒くなってきたわね…」

 鳴美の手足に鳥肌がたっていた。急に気温

が下がりはじめていた。どこからともなく冷

たい風が入り込んできている。まるで、冬の

それを思わせる冷たい空気だった。

 カタカタカタカタ…。小さな音が聞こえて

きた。ガラスの触れ合うような音…。

 「何?」

 見ると、ビーカーや試験管を入れたガラス

棚が揺れている。その中でカチャカチャとガ

ラスが触れ合って、音をたてていた。

 「地震かしら…?」

 しばらくすると、ピタリと揺れは収まって

しまった。シーンと静まりかえる室内。

 「何だ、ずいぶんと小さな地震ね」

 そう言った途端、ガシャーンッッという大

きな音が響いて、鳴美はとびあがった。

 見ると、床にビーカーが落ちて、砕け散っ

ている。どうやら、さっきの揺れでガラス棚

の外に置いてあったものが落ちたらしい。

 「もう、面倒くさいなぁ…」

 鳴美は小さくボヤくと、掃除用具入れから

チリ取りとホウキを取り出して、砕けたガラ

ス片を片付けはじめるのだった。

 そして、その様子をジッと見つめる目があ

る。人体模型の目であった…。

 ブツブツと文句を言いながら片づけている

鳴美の背後で、今度は置かれているビデオカ

メラが動きはじめた。スウと回転して、ファ

インダーの中に、鳴美の姿をとらえる。

 ポッと赤いランプが灯った。録画を知らせ

る赤いランプであった。おかしい。さっきは

裕一がいくらいじっても動かないはずではな

かったのか。それに誰が録画ボタンを押した

というのか…。いや、それよりも誰が鳴美を

撮っていると言うのだろうか…。

 そんなことが後ろで起こっているなど、鳴

美はまったく気づいていなかった。

 「それにしても、飯島は遅いわねぇ」

 裕一が帰ってこないのをボヤく鳴美は、ま

た別の音を耳でとらえていた。

 パチャパチャと水のはねる音である。

 「ちょっと、また地震なのぉ?」

 振り向いた鳴美の目は、その振り向いたま

まの姿勢でかたまってしまう。驚きと恐怖の

入り混じった目が、大きく見開かれた。

 見つめる先には、円柱型のガラス瓶が並ん

でいた。中にはグロテスクなものが見えてい

る。ホルマリンに漬けられた生物標本だ。

 パシャ…、パチャパチャ…、パチャッ。

 生物標本が動いていた。お腹を開かれたカ

エルの標本がピクピクと動き、白く色の変わ

ったヘビが体をのたうたせ、よく分からない

動物がうごめいている。水音は、それらの生

物標本が動くたびにホルマリンがたてている

音なのであった。

 「ヒ…、ヒ…!」

 さすがの鳴美も、声にならない。普通でさ

え気味の悪い物なのに、それがピクピクと動

いているのだから、その不気味さは例えよう

もないのだった。

 鳴美はガラス棚に背中を押しつけるように

して、後じさった。ジリジリとドアの方へと

逃げようとしているのだが、恐怖のために体

はうまく動かない。そして、なおも目は生物

標本から外せないでいた。

 「な…何なのよ…何なのよぉ、これぇ!」

 ようやく出した声は、半泣きである。それ

も無理はない。今、鳴美の前で起こっている

のは、常識では考えられない光景であった。

 そんな鳴美のおびえる様子をビデオカメラ

が無情に映しつづけている。そのファインダ

ーの中で、鳴美はようやくドアの近くへと近

づいていた。

 「あ、あれ…。あ、開かない?」

 ドアに手をかけた鳴美だったが、カギがか

かっていて、開かなかった。カギを開ければ

済むことだが、気の動転している鳴美はそん

なことに気づく余裕はなかった。

 やっと気づいて手を伸ばした瞬間、ビデオ

カメラの赤ランプがフッと消えた。

 ガシャァァァァン!

 ビデオカメラの赤ランプが消えるのが合図

だったのだろうか。一斉に戸棚のガラスが割

れて、砕け散った。

 「キャアアア!」

 鳴美が悲鳴をあげて、降り注ぐガラスから

顔を覆ってうずくまる。すると、彼女の周り

へと次々と棚から薬瓶が落ちてきた。

 「キャアアッ!」

 塩酸や硫酸といった危険な薬は棚の下の方

に置いてあるから良いようなものの、そんな

事はわからない鳴美にとっては、薬を浴びた

ら死んでしまうというような恐怖があった。

 だが、例え一つ一つでは無害な薬でも、目

茶苦茶に混ぜ合わせれば、思いがけないよう

な効果を生み出すこともある。床へと砕け散

った薬瓶からこぼれた液体は、次々と混ぜ合

わさり、変な臭いを放ちはじめていた。

 「な、何…、こ…この臭い…」

 何かの化学反応を起こしてしまったのだろ

うか。その異臭を鼻にかいだ途端、鳴美は目

の前がクラクラとするのを感じた。意識が急

に遠くなっていく。

 「た、助けて…」

 意識が消える瞬間、鳴美は確かに聞いた。

 ワハハハハハ…。ワハハハハ…。

 大きな声で誰かが笑っている。カタカタと

歯の触れ合うような音が聞こえる。

 鳴美の目はその笑い声のする方へとゆっく

りと向いた。

 ガイコツが笑っていた。全身を小刻みに震

わせ、カタカタという音を鳴らしながら、大

きく口を開けて、人骨標本が笑っていた。

 「う……う…そ…」

 鳴美がつぶやいた。そして、目がゆっくり

と閉じていった。

 ワハハハハハ…。ワハハハハハ…!

 気を失った鳴美をあざ笑うかのように、い

つまでもガイコツが笑っていた…。

 

 裕一が戻ってきた時、ドアにカギはかかっ

ていなかった。

 「後藤、待たせたな」

 そう言って、ドアを開けた裕一の目に飛び

込んできたのは、床中に散乱したガラスとそ

の中に倒れている鳴美の姿だった。そして、

微かに漂う変な臭い…。

 「ご、後藤!ど、どうしたんだ!」

 あわてて駆け寄って、抱き起こしたものの

鳴美に意識はない。青ざめた顔に、涙のあと

が痛々しい感じだった。ガラスの中に倒れて

いたわりには、別にこれといった傷も見られ

なかった。ただ、意識がない。

 「せ、先生を呼んでこなくっちゃ!」

 あわてて、駆けだしていく裕一。

 その時、裕一は気づきもしなかった。廊下

を駆けていく裕一を追いかけるように、微か

な笑い声がしていた事を。そして、それが理

科室の中に置かれていたガイコツからもれて

いたことを。

 それから、しばらくして遠くから救急車の

サイレンの音が聞こえ始めたのだった。

 

                                                           つづく