キーン、コーン、カーン、コーン…。

　下校を告げるチャイムが鳴った。時計の針

は例によって、午後４時半を指している。

　「さよーならー」

　「バイバーイ。また明日ねぇー」

　クラブや遊びを終えた生徒たちが、口々に

明日の再会を約しながら、別れていく。

　美貴は一人、放送室の窓からその光景をな

がめていた。明日の再会が約束できるかどう

かは、これからにかかっていた。美貴にとっ

てそれを約す相手は、今もこの校舎のどこか

で美貴を待っているのだから。

　「必ず、助け出してあげるからね…」

　美貴の口から、決意の言葉がもれる。それ

は自分自身に対する覚悟の言葉でもある。

　窓から射し込む夕陽は黄金色に輝きながら

も、その角度を徐々に変えつつあった。

　太陽が西に傾くにつれて、夕闇はその色を

濃くしていく。真紅と黄金に彩られた美しい

世界から、群青色と暗黒に塗りつぶされた忌

まわしい世界への変貌。

　すなわち、それは夜の訪れを意味した。

　そして、夜と昼とでは学校が変わる。

　別に教室の形が変わってしまうとか、校舎

の外見そのものが変わってしまうというわけ

ではない。むしろ、見た目には少しも変わっ

ていないのだろう。

　だが、確かに変わっているのである。

　例えば、下校時刻を過ぎてなお、こうして

美貴は残っているわけだが、恐らく先生に怒

られることはない。と言うよりは、先生には

美貴が見えないのであろう。

　美貴は今までの体験から、そう推理してい

た。子供しか狙わない「夜の王様」が住むと

いう「夜の学校」は、子供にしか見えず、子

供しか入れないのだろう。

　つまり、ある時間から「夜の学校」になっ

た瞬間、その学校は別の世界と化すのだ。

　そして、その「夜の学校」に理恵や裕一は

捕まっているのだ。

　例え同じ校舎の中にいても、彼女らの助け

を求める声は届かず、授業を受けている生徒

たちの目に触れることすらない。

　その孤独、その恐怖は想像するだに恐ろし

い。そばにいるのに助けてもらえない、その

声すら届かないと分かった時の絶望感を想像

してみればいい。その怖さに、誰が耐えられ

ると言うのだろうか？

　だからこそ、助けなければならない！

　美貴は心に誓うのであった…！

　夕闇は、闇へと化しつつあった…。

　時刻は午後５時をとっくに過ぎ、校舎の中

は黒いベールに閉ざされつつあった。

　学校の中に人の気配は途絶え、先生たちも

すでに学校を出てしまったのかもしれない。

　例え、いたとしても意味はないが…。

　「さて、行きますか…！」

　そう言って、美貴はついに放送室を出た。

　放送室のドアを出た途端に、ヒンヤリとし

た空気が肌に感じられた。ただの外気の冷た

さではなかった。心に直接しみ入ってくるよ

うな寒さであり、魂を凍らせるような寒さで

あった。

　「すでに夜…、ということなのね」

　その言葉が美貴の覚悟の現れとも言えた。

　それはすでに闘いは始まっているのだ、と

いう美貴自身への確認の言葉でもあった。

　周囲に気を配りながら、美貴は階段を下っ

ていく。階段もやはり暗い…。

　いつもならタタッと駆け下ってしまってい

る階段だが、美貴は慎重に一歩一歩進んでい

た。まるで、地雷の埋まっている平原を歩い

ているような雰囲気である。

　美貴は試しに、壁にある電気のスイッチを

入れてみた。カチッと音がした。

　だが、思ったとおり、点かなかった。

　「やっぱりね」

　故障ではない。誰かが故意に点けさせまい

としているに違いない。

　その誰かとは、「夜の王様」以外にありえ

ない。そう美貴は確信していた。

　階段を下りた美貴は、そのまま中庭の方へ

と向かった。20分休みに隠しておいた竹刀を

取りにいくためである。

　道場へとたどりついた美貴は、窓外の茂み

に手を突っ込むと、ガサガサと中を探った。

　手に固い感触を得て、引っ張りだす。

　その手にはちゃんと竹刀が握られていた。

　「よかった…。先に取られているかも、と

心配してたんだけど、夜の王様もさすがに気

づかなかったみたいね」

　美貴はそう言いながら、竹刀をビュンと振

り回した。風を切る音が、美貴の心にいくば

くかの安心感を与える。

　「よし、戦闘開始よ！」

　美貴はそう言って、校舎へと戻って行く。

　だが、もし美貴が道場の中をのぞいていれ

ば、不思議なことに気づいたはずである。

　道場の中には、美貴が選んだ以外の竹刀が

たてかけられていたはずである。だが、今の

道場の中には、一本も残っていなかった。全

部がきれいに消え失せていたのである。

　校舎へ戻っていく美貴を、何者かの目が見

つめていた。

　『あの子が、竹刀を手にしたよ…』

　闇の中から、細く声が聞こえた。

　『じゃあ、準備ができたんだね…』

　別の声が、闇の中に響いた。

　『ゲームを始めようか…？』

　『ゲームを始めるよ』

　『ゲームを始めるよ』

　『ゲームを始めるよ』

　いくつもの声が、不気味にささやき合う。

　クスクスクスクスクス…。

　闇の中に忍び笑いが聞こえ始める。

　これから始まるゲームを期待するかのよう

に、それはいつまでも続いていた。

　美貴は渡り廊下を通って、第１校舎へと向

かっていた。

　「とりあえずどこに行こうかな？」

　美貴はスカートのポケットから、小さなメ

モ帳を取り出した。パラパラとめくって、あ

るページを開く。そこにはビッシリと書き込

まれていた。

　「そうね…。理科室の笑うガイコツと、音

楽室にある誰もいないのに鳴るピアノは、前

に行っているから…」

　美貴のメモには、この緑ヶ丘小学校の７不

思議についてのことが書かれていた。今日の

お昼休みに、クラス全員はもちろん、他のク

ラスにまで行って調べ上げた７不思議に関す

る完全メモなのだ。

　理恵や裕一が捕まっている場所は、この７

不思議に関する場所のどこかに違いない。

　美貴はそう考え、このメモを作ったのであ

る。この取材力と推理力が、美貴の本領発揮

とも言えるものだった。

　「よし、ここからなら図工室が近いわね」

　そう言って、美貴はメモを閉じた。

　図工室は第１校舎の２階にあった。

　そここそは、緑ヶ丘小学校７不思議の一つ

にあげられる「手首のはいまわる図工室」で

あった。

　それは、この小学校が出来て間もない頃に

あったと言われる事件が元になっている。

　昔はコピー機も、印刷機もなく、版画によ

く似たガリ版刷りという印刷方法が行われて

いた。そして、今の図工室に昔はその機械が

置かれていたのであった。

　ある時、一人の先生がそこで学級通信を印

刷していた。インクまみれになって、それを

動かしていた彼は、テストの採点も重なって

いたために徹夜が続いていたらしい。そのた

めにかなり疲れていたそうだ。

　そして、誤って裁断器という紙を切る器械

で、自分の手首を切り落としてしまったと言

うのである。その先生はすぐに病院に運ばれ

たものの、出血が多くて助からなかった。

　だが、問題はその後である。切り落として

しまった手首がどこかに消えてしまったので

ある。他の先生たちが一生懸命探したが結局

見つからなかったのだった。

　それからというもの。夜になると、図工室

から男の苦しむうめき声が聞こえ、手首がは

いまわる音がすると言われていた。

　その曰く付きの部屋に向かって、美貴は向

かっている。はっきり言って、図工室の怪談

は作り話だろうと思っていた。だが、それと

は別に今回は「夜の王様」が相手なのだ。

　廊下だろうと、階段であろうと、油断はで

きない。そう思うと、竹刀を握る手にも自然

と力がこもってしまう。

　「しっかりしなくちゃ！」

　そう自分に言いながら、階段を登る美貴を

見つめながら、声がささやいていた。

　『あの子、図工室に向かってるね』

　『図工室だね…』

　『図工室だね…』

　『図工室だね…』

　『歓迎の用意はできてるかい？』

　『もちろんさ…』

　『もちろんさ…』

　『もちろんさ…』

　重なり合う声に、さらに忍び笑いが重なっ

て、階段に響いていた。

　だが、美貴はそれに気づくこともなく、２

階へとやってきてしまっていた。

　真っ直ぐに伸びる廊下の途中に、問題の図

工室がある。廊下は暗く、突き当たりにある

はずの理科室のドアは闇に溶けてしまってい

る。まるで、その先が無限に続いてしまって

いるようにも感じられた。

　「よし、行くわよ。美貴！」

　美貴は自分に掛け声をかけて、廊下を進ん

でいった。

　図工室の前まで来ると、窓ガラスの向こう

に部屋の様子が見える。緑ヶ丘小学校の中で

は普通教室と音楽室、それに家庭科室だけが

曇りガラスになっていて、他の教室は普通の

窓ガラスなのである。

　恐る恐る窓をのぞいてみると、中は真っ暗

で細かい所まではよく見えなかった。

　美貴はドアに手をかけたが、そこにはしっ

かりとカギがかかっていた。

　「やっぱり、開かないかぁ…」

　美貴があきらめて、別の部屋へ行こうと歩

きかけた時だった。

　ペタ…、ペタ…、ペタ…。

　小さな音が美貴の耳に聞こえてきた。

　「誰？」

　誰かの足音かと思って、振り向いた美貴だ

ったが、廊下には誰もいなかった。

　「あれ、おかしいな？」

　首をかしげる美貴の耳に、まだ例の音が聞

こえている。

　ペタ…、ペタ…、ペタ…。

　どことなくネバネバとした感じのイヤな音

だった。

　ふと、美貴は図工室の方を見た。

　「キャアアアアッッ」

　それを見た瞬間、美貴の口から悲鳴がほと

ばしった。

　ペタ…、ペタ…、ペタ…。

　不気味な音をたてて、窓ガラスを白い汚れ

が埋めていく。いや、それは汚れではなく、

不気味な人の手形だったのである。

　よく小さな子供が車の窓ガラスなどに手を

ついて遊ぶ様子を思い出してもらえばいい。

　窓ガラスに残ってしまうあの白い手形のこ

とである。あれと同じような手形が、次々と

図工室の窓を埋めていくのであった。

　ペタ…、ペタ…、ペタ…。

　単調に、ただ手形だけが増えていく…。

　だが、それをつけている人はどこにも見え

ない。ただ手形だけが何もない空間から生み

出されていく光景は、美貴の心を凍らせるの

に十分であった。

　「いやあぁぁぁっ」

　美貴は悲鳴をあげて、竹刀を目茶苦茶に振

るった。その切っ先が窓ガラスに当たり、派

手な音をたてて砕いた。

　パリンパリンと音をたてて、廊下へとガラ

スが落ちて割れる。見ると、それには手形も

何もついていなかった。ただの透き通ったガ

ラスだったのである。

　「こ、これは…」

　美貴が驚いて窓を見ると、そこにはいつも

と同じ窓ガラスがあった。白い手形など、ど

こにもついていなかった。

　「ま、幻でも見たのかしら…」

　割ってしまった窓を見ながら、美貴がつぶ

やいた。だが、次の瞬間、その目は室内にク

ギづけになってしまう。

　割れた窓の向こうに見える図工室のテーブ

ルの上で、何かがうごめいていた。目をこら

すと、それが粘土の固まりだと分かる。普通

の授業で使われる粘土だった。

　それが動いている。いや、何かの形へと変

化しつつあるのだ。

　「キャアアッ」

　その形が何なのかを分かった時、再び美貴

は悲鳴を上げていた。

　それは人の手首の形だったのである。

　粘土から生み出された手首は、まるでリハ

ビリをするかのように、五本の指を閉じたり

開いたりしている。クネクネと動く指が、あ

まりにもグロテスクだった。

　やがて、十分に準備運動をしたとでも言う

のだろうか…。粘土の手たちは、一斉にテー

ブルの上を動きはじめた。

　五本の指が蜘蛛のように動いて、カサカサ

と音をたてながら移動してくる様子は、並の

ホラー映画よりも迫力があった。

　ボタッ、ボタッ。

　粘土の手はテーブルの端まで行くと、重た

い音をたてながら、床に落ちていった。

　だが、それだけで済まないのは、その後に

続いた音が物語っていた。

　カサカサカサカサ…。

　まだ動いている。いや…、移動しているの

だ。美貴のいる方に向かって…。

　「じょ、冗談やめてよ…」

　ジリジリと後ずさる美貴の耳には、手首た

ちが動く音が聞こえつづけている。

　余りの恐ろしさに美貴は、もとの来た方向

へと逃げはじめる。走りだしたい気持ちを抑

えて、図工室の窓から目を離さないようにジ

リジリと動く。少しでも、目を離したら、す

ぐに手が飛び掛かってくるような恐怖があっ

た。

　ついに手が姿を現した。まるで、カエルの

ようにピョンと割れた窓を飛び越えてくる。

　廊下へと落ちた手は、やはりカエルが着地

したような重たい音をたてた。元が粘土だか

ら、仕方ないのかもしれない。

　「たかが、粘土じゃないの…」

　そう思いなおした美貴は、廊下へと飛び下

りてくる粘土の手たちに向かって、竹刀をか

まえた。それに対し、粘土の手はまたも指を

くねらせて、蜘蛛のように動きはじめる。

　「や、やっぱ、ダメだぁ！」

　美貴はダッと逃げだした。だが、その途端

に足をつかまれて転倒してしまう。いつの間

にか、足元にまで手がはい寄ってきていたの

だった。

　「離しなさいよ、このぉ！」

　持っている竹刀で払うと、足首をつかんで

いた手が鈍い音と共に、吹っ飛んだ。

　ベシャと音をたてて、壁に当たった手がつ

ぶれる。さすがに粘土なので、ショックには

もろかったようである。

　「いける！」

　そう言って、美貴は竹刀を構えなおした。

　次々と襲いかかってくる粘土の手を、美貴

の竹刀が片っ端から打ち砕いた。

　壁や床に、粘土の残骸が散乱する。

　そして、ついに全部をやっつけてしまうの

だった。

　「どんなもんよ。もうお終いなの？」

　いい気になっている美貴だったが、すぐに

その顔が青ざめた。壁や床に散っている粘土

たちが、またも動きはじめたのだ。小さな固

まりが集まって、中くらいになり、中くらい

の固まりが集まって、大きな固まりとなる。

　美貴の目の前で、大きな固まりとなった粘

土が少しずつ形を変えていく。

　やがて、巨大な粘土の手が目の前に出現し

たのだった。

　「そ、そんなの反則でしょー！」

　ズズズと重い音をたてて、動きはじめる巨

大な手。それはもはや、一種の怪獣のような

ものだった。

　「キャアアア…！」

　必死に逃げる美貴は、ものすごい勢いで階

段へと走った。その後を巨大な粘土の手が追

いかけてくる。

　階段まで着いた美貴は、そのまま階段の方

へと曲がった。だが、粘土の手はうまく曲が

れなかったようで、そのまま正面の壁へとぶ

つかって、つぶれてしまう。五本の指だけで

は、真っ直ぐに進むことは出来ても、カーブ

することは難しかったようだ。

　「ラ、ラッキー！」

　美貴はモゴモゴとうごめいている粘土の固

まりを見て、喜びの声を上げた。

　「よし、今の内に」

　また再生するのを待っているほど、美貴は

お人好しではなかった。うごめいている粘土

を放って、一気に階段を駆け降りた。

　そして、一階へとたどりついたはずの美貴

は、そこで足を止めた。

　「な、何で？」

　美貴の顔が青ざめたのも無理はない。