天正妖戦記

  十蔵の剣

 

第二回 追う者と追われる者

 

 見渡すかぎり、炎の海だった。

 黒煙と火の粉が舞う空を流星のごとく駆け

るのは、無数の火矢である。それが突き立つ

たびに、荘厳な造りの建物が燃えていった。

 「焼けぃ、焼けぃ、焼き尽くせぃ!」

 狂ったように叫んでいるのは、一手を預か

る池田恒興(いけだつねおき)だ。信長の乳

兄弟として、幼少より仕えた側近中の側近で

ある。そんな彼でも、さすがに狂わねば出来

なかったのであろう。

 「大殿は何故、このようなことを…。建立

以来、王城の守護として朝廷の崇敬を受けて

きた聖地じゃぞ…」

 呆然とつぶやくのは、佐久間信盛(さくま

のぶもり)であり、彼もまた古参武将だ。信

心厚い彼は、この攻撃を何度もやめるように

諫言した。だが、それは信長には聞き入れら

れなかった。

 「逃がすな! 一人残らず、斬れ!」

 柴田勝家(しばたかついえ)が叫ぶ。

 「燃やせ! 何一つ残すな!」

 丹羽長秀(にわながひで)が怒号した。

 「火矢を放てぃ! もっと放てぃっっ!」

 かっては美濃の斉藤家で勇将と知られた遠

藤慶隆(えんどうよしたか)や遠藤胤基(え

んどうたねもと)らが兵をけしかける。

 どの武将の叫びも、常軌を逸したような響

きを伴っている。それに従う兵士たちの目も

狂気に染まっていた。誰もが狂わずにはいら

れなかったのである。

 「ギャアアアアッッッ!」

 「おのれ! 神仏を恐れぬ悪鬼どもめ!」

 「助けてくれえっっ!」

 逃げまどう僧が次々に槍で貫かれ、刀で斬

り捨てられていった。

 「おっ母ぁぁぁぁ!」

 「この子だけは…、この子だけはぁぁ!」

 懇願と哀訴の混じった声だ。

 「…かまわん、火をかけい!」

 「キャアアアアアッッッッ!」

 山に逃げてきていた女や子供は油を浴びせ

られ、焼き殺されていった。

 悲鳴と絶叫が山にこだまし、庶民の崇拝を

集めていた寺社が灰塵と化し、山は阿鼻叫喚

の地獄となっていた…。

 時に、一五七一年、九月十二日。

 信長はついに比叡山延暦寺に対する焼き討

ちを命じた。日本最大級の宗教的権威に対す

る攻撃は、配下武将の多くが反対し、諌める

者も少なくなかった。だが、それをはねつけ

た信長は、逆に徹底した殲滅戦を命じたので

あった。その時の信長の目はまさに狂気の炎

に彩られていたと、武将たちは記憶する。

 午前6時に法螺貝が鳴り響き、一斉に放火

が始まった。延暦寺僧従も必死に抵抗したも

のの、皆殺し作戦の前には無意味だった。

 炎は次々に長い風雪に耐えた寺を焼き、荘

厳な伽藍を灰にし、そびえる寺塔を焼き崩し

ていった。逃げまどう人々は残らず凶刃の餌

食となっていく。歴史の風雪に耐えてきた根

本中堂、山王二十一社、東塔、西塔、無動寺

以下の寺社はことごとく紅蓮の炎に沈み、無

数の屍と共に焼けていったのだった……。

 その地獄絵図の中………。

 本陣で燃える山を見つめる信長のもとに、

一人の武将が馳せ参じてきた。

 「大殿っっ!」

 一声叫ぶや、武将は信長の前に進み出る。

 「光秀か。いかがしたのじゃ…?」

 信長がジッと目を向ける。武将は、織田軍

団に智将と知られた明智光秀(あけちみつひ

で)であった。

 「はっ。すでに延暦寺の悪僧どもの抵抗は

終わりました。残るは女子供ばかりです」

 「それがどうした?」

 「はっ。もはや、これ以上の殺戮は無益と

思われます。ただちに停戦命令を…!」

 「わしは『山にいる者は皆殺しにせよ』と

命じたはずじゃ。その通りにせい」

 「で…、ですが。四〇〇〇人もの庶民を皆

殺しにするなど、戦の常道ではありませぬ」

 光秀は必死に訴える。無益な殺戮を好まな

い彼には、この地獄は直視できなかった。

 「ならぬ…。わしは約束を守る男じゃ」

 そう言って、信長はチラリと後ろに控えて

いる黒僧服の異国人を見る。

 「大殿…!」

 光秀は後ろの異国人を睨みつけつつ、再度

懇願するように信長に迫った。このオルガン

ティーノと呼ばれる異国人が来てから、信長

は急激に変わってしまったと言われる。

 「くどいぞ、光秀! わしが殺せと言った

ら、殺せ! 焼けと言ったら、焼くのだ!」

 信長が怒号する。それを見た光秀は、これ

以上の説得は無意味と判断し、一礼を残して

去っていった。

 「フハハハハハ…! 殺せ、殺せ、殺せ、

殺せ、殺せぇぇぇぇぇいっっっ!」

 不気味な笑いが、燃える山に響いた。

 声はエコーとなり、不気味な余韻と反響を

繰り返しながら、深い意識の底を揺さぶるよ

うに広がっていった……。そして……。

 

 「…ハッ!」

 薄暗い寝所の中で、信長は目を覚ました。

 着物をグッショリと寝汗が濡らしている。

 かなりうなされていたらしく、額を冷たい

汗がしたたり、脂で光っていた。

 「殿…。大丈夫でございますか?」

 暗い部屋の中に、澄んだ少年の声が聞こえ

た。信長の近習として仕える森蘭丸(もりら

んまる)の声であった。

 「お蘭か…」

 肩で息をつきながら、信長が答える。その

前にスルスルと蘭丸が寄ってくる。

 「だいぶ、うなされておいでのようでした

が…。何か、悪い夢でも…?」

 「燃える比叡山を見ておった…」

 「比叡山…で、ございますか?」

 「うむ…。焼き殺した四〇〇〇人の恨みが

取り憑いておるのかもしれんな…」

 「気のせいでございますよ…」

 蘭丸は信長に寄り添い、桜色の唇で信長の

浅黒い肌に浮かんだ汗を吸い取っていく。

 この時代は「衆道」と呼ばれ、美少年をは

べらせての男色は武将の常であった。蘭丸も

信長のそうした一人だった。

 「のう…、蘭よ」

 信長が不意につぶやく。

 「何でございましょう?」

 「わしはあれで良かったのだろうか?」

 決して、武将たちの前では見せない。見せ

てはならない、迷いの表情だった。

 「と、申しますと?」

 「この国の民のほとんどは仏の教えを信じ

ておる。寺を焼いたことは、多くの民を敵に

回したことであろうな…」

 「気に病んでおられるのですか?」

 蘭丸が意外そうな顔をする。魔王と恐れら

れた信長にも、こんな弱い一面があったのか

と驚いているようでもある。

 「この国の仏教を根絶やしにすることは、

オルガンティーノたちとの約束ゆえに守らね

ばならぬ。だが、それで民を敵に回したので

は、天下統一の意味がない…」

 ポツリとつぶやく信長に、蘭丸がピタリと

身体を寄せた。着物をはだけ、少年の指がそ

の内側へと入り込んでいく。

 「お蘭……」

 信長がその所作に身を任せる。

 「いずれは土地も民も、全てが信長さまの

モノとなる運命…」

 「むぅ…ぅ…」

 しなやかな、女性を思わせる指はせわしな

く動いて、悪夢の余韻で固まった信長の筋肉

をほぐし続けている。

 「そうなれば、民が信じるのはオルガンテ

ィーノ殿が崇めし神となりましょう」

 「地の底の神…か…」

 「第六天魔王。すなわち、信長さま自身の

ことでもございます」

 美しい唇をつり上げ、蘭丸は妖しい笑みを

刻んだ。上目遣いに信長を見る。

 「わ、わしじゃと…?」

 「左様でございます」

 「わしが神になると言うのか…?」

 「はい。そうなれば、民が崇めるのは信長

さまお一人。崇拝と畏怖の対象は、この世に

二つも要りませぬ…」

 「し、しかし…」

 「それに、天下を取られた信長さまに対し

て、誰が異を述べられると言うのです?」

 蘭丸はニコリと唇をほころばせた。

 「そ…、そうじゃ。こ、このわしが天下を

取れば、誰も邪魔は出来ぬ…!」

 信長の瞳に、狂気の炎が揺れた。蘭丸の言

葉に刺激され、内なる野望が燃え上がる。

 「将軍でもない、天皇でもない…。誰も成

しえなかった高みに昇るのじゃ…!」

 信長が口から泡を飛ばして、絶叫する。

 その狂乱の態を、蘭丸は見つめている。そ

の瞳に、妖しい光を宿して…。

 「蘭丸っっ!」

 信長がバッと立ち上がった。

 「はっっ!」

 「お前は、この信長についてくるか? こ

の第六天魔王の覇道を共に歩むかっ?」

 信長は蘭丸を見下ろし、全身に鬼気をたぎ

らせて叫ぶ。正に狂気に取り憑かれた魔人と

も言うべき姿であった。

 その様子に蘭丸は分かるか分からぬかの微

笑を唇の端に浮かべ、

 「御意…!」

 と、静かに平伏するのだった…。

 

 一五七三年、八月二十九日。

 信長に敵対した戦国大名「浅井長政(あさ

いながまさ)」の本拠地である「小谷(おだ

に)城」は、織田軍団の猛攻を受けていた。

 峻厳な山を利用した小谷城も、織田の大軍

の前には無力であった。

 完全包囲され、すでに昨日、長政の父であ

る「浅井久政(あさいひさまさ)」は自刃を

遂げている。本丸を除いた城の大部分は占領

され、織田の旗が翻っていた。

 さらに信長の妹である「市(いち)」も羽

柴秀吉(はしばひでよし)に救い出されてい

たために、もはや逡巡はなかった。

 本日の総攻撃は信長自身が指揮し、これま

で以上に容赦のない攻撃が行われている。

 森は焼かれ、岩は崩され、兵たちは次第に

本丸最上階に追い詰められていった。

 「屍人兵を繰り出せいっっ!」

 信長の下知が響き、虚ろな眼差しをした足

軽たちが本丸へと歩みはじめる。

 ザッザッザッザッザ……。

 整然とした歩みは、浅井勢が放つ矢の雨に

もひるまず、ただひたすらに本丸を目指して

いる。そして、その行く手に立ちはだかる者

には、死のみが与えられた…。

 「ギャアアアッッ!」

 「た、助けてくれえっっ!」

 悲鳴と絶叫が城の各所に沸き起こる。

 こうなっては、普通の織田勢の兵たちも傍

観者となるしかない。下手に入っていけば、

同じように殺されてしまうからだ。

 「………」

 誰もが息を殺したように、眼前の小谷城で

繰り広げられる地獄を見つめていた…。

 

 小谷城を間近に望む山の頂で、同じように

傍観者となっている一人の男がいた。

 ………十蔵である。

 織田軍団の最前線基地になっている虎御前

山(とらごぜやま)はすぐ近くであり、かな

り大胆な行動であると言えた。

 「愚かなことよ…」

 落城の刻を迎えつつある小谷城の煙を見つ

めながら、十蔵はつぶやく。自分が立ってい

る山は、まるで戦火とは程遠い情景を映し出

していたからである。

 夏の日差しを受け、山を鮮やかに緑が彩っ

ている。生を謳歌するセミの声が響き、夏の

暑さを倍増させている。しかし、そうした一

つ一つの小さな生命の営みが、山全体に躍動

感あふれた生命力を満たしていくのだ。

 それが生命の本来の姿であり、正しい営み

のはずである。

 だが、間近に見える山には幾条もの煙が立

ちのぼり、チラチラと炎が見えていた。そこ

では、こちらの山とは全く異なる愚行が繰り

返されている。幾多の人間が命を奪い合い、

お互いの生命を消し合っているのだ。

 それを「人間の業」と一言で言い切ってし

まうのはたやすい。だが、生命を持つ存在と

しては、虫にも劣る所業と言えた…。

 「だが…」

 十蔵は言葉をそう切って、目を伏せた。続

くべき言葉は「自分も同じ愚かな人間だ」と

なるのだろうか。妖忍を追い、ただ斬り殺す

だけの日々を送る自分も同じなのだ…。

 十蔵は口にこそしないが、そう言いたかっ

たのかもしれない。

 しかし、やめる訳にはいかない。この世に

凶々しい生を受けた悪鬼たちを滅ぼすまでは

自分も冥府魔道を歩むしかないのだ。

 呪わしき運命ゆえに。

 「わあ…ぁぁ…んん…わぁ……ん」

 ふと十蔵の耳が不可解な声を捉えた。

 子供の泣き声だった。戦乱の地、しかも人

里を離れた山の奥深くである。そんなところ

に子供が迷い込んでいるとは…。

 不可思議に思いながらも、十蔵は声がする

方へと歩きだしたのだった。

 

 森の中に子供の泣き声が響いていた。

 「わぁぁん! わぁぁん!」

 泣き叫ぶ子供を小わきに抱え、一人の女が

走っている。忍び装束から、クノイチの一人

であろうと推測できる。小わきにある子供は

四〜五歳の可愛らしい男の子だった。

 女は振り返り振り返り、走っている。どう

やら追われているらしい。

 「わぁぁん! わぁぁん!」

 子供は泣き続けている。その声ゆえに、ど

こに隠れても分かってしまうだろう。女は子

供を抱えて、走るしかなかった。

 その後方から、すさまじい速さで近づいて

くる影がある。木の梢を渡り、葉をなぎ払っ

て、女へと迫っていく。その速さは人間のも

のとは思えなかった。

 女が後方へと手を振るう。そこから放たれ

た幾筋もの黒い光。十字手裏剣だった。

 十字手裏剣は弧を描くような軌道で、後方

から迫り来る敵へと向かう。それぞれが別々

の軌道を描きながらも、同一の目標へと飛ん

でいく。恐るべき手練の技だった。

 だが…!

 迫り来る敵の影に吸い込まれたと思った瞬

間、十字手裏剣は跳ね返された。

 「な…?」

 生い茂る木々の彼方に弾け飛んだ手裏剣を

見て、女の顔に驚愕が走る。

 「ケケケ…。そんな手裏剣ごときで、俺様

の『毛鎧(けよろい)』を貫けるものか」

 甲高く笑った追手の姿が木々の陰を抜けた

所で、明らかになる。

 狒々であった。人間と同じ大きさで、しか

も四肢は人間のようでもあり、狒々のようで

もあった。人間狒々と呼ぶのが相応しいよう

な異形の怪物であった。

 「キャアッッ!」

 追跡者の正体を目の当たりにした女が、さ

すがに悲鳴をあげる。無理もない。

 そして、その怪物に目を奪われた瞬間が致

命的なミスを生んだ。地面に張り出していた

木の根に足を取られ、女は転倒してしまった

のである。しかも、その際に大きく身体を傷

めてしまっていた。小わきに抱えた子供を庇

おうとして、無理な体勢に身体をひねったこ

とが原因であった。

 「ケーッケッケッケッケ…」

 木を渡ってくる波のような音と共に、甲高

い笑い声が聞こえてくる。

 ザザザザザザザッッッッ!

 人間狒々が近づいてくる。かなりの速さで

あり、もうそこまで来ている。

 「に、逃げなさいっ!」

 女は男の子を先に逃がそうとするが、男の

子は怯えたように身体をすくめ、動こうとし

ない。いくら背中を押しても、そこにしゃが

みこんでしまうばかりであった。

 「ついに捕まえたぞっっ!」

 バキバキと枝が折れる音がして、目の前に

人間狒々が舞い降りてくる。間近で見れば見

るほどに、醜怪な化け物であった。赤々とし

た顔には、動けなくなった獲物に対する残忍

な笑みがこびりついていた。

 「ケーッケッケッケッケ…。手間をかけさ

せてくれたな」

 「クッ!」

 女が胸に忍ばせていた小刀を投げる。それ

は狒々の顔へと真っ直ぐに飛んでいった。

 「無駄だ」

 にべもなく言って、狒々は腕の一振りで小

刀を弾き飛ばす。小刀はあさっての方向に飛

んで、カッと大木の幹に突き立った。

 狒々の爪は異様な鋭さと硬さを持ち、鋼鉄

のような黒光りを見せている。小刀ごときで

は通じなかったのも無理はない。

 必殺の一撃を外された女は、ガクリと絶望

に肩を落とした。その落胆した肢体は、妙に

色っぽさを感じさせた。

 「ケッケッケ…。どう料理してやろうかの

お…、特に女の方はな…」

 狒々の顔に、肉欲への飢えが宿る。顔は赤

みを増し、好色に醜く歪んだ。

 古来、狒々は人間の女に懸想すると言われ

ている。民間伝承の中にも、若い女をさらっ

たり、子を生ませたりする話が多い。この人

間狒々も例外ではなかったようだ。

 「えっ…えぐっ…えっ…」

 男の子は泣きじゃくっている。腰が抜けて

しまったかのように、その場にしゃがみこん

だままである。どことなく、温室で育てられ

たような弱々しさを感じさせた。

 「ええい…、うるさいガキだ!」

 狒々は苛立たしげに言いながらも、女の方

から目を離さずに近寄っていく。

 「楽しませてもらうぞ…!」

 鉄の爪を女の着物に当てる。ビビッと鋭い

爪が布地を裂き、白い肌が覗いた。より醜い

笑みを浮かべた狒々が、着物を一気に引き裂

こうとした瞬間だった。

 ヒュウウッッ!

 風を切るような音が響く。反射的に振り向

いた狒々に向かって、銀色の光が一閃する。

 狒々は咄嗟に鉄の爪を振るい、飛んできた

光を弾き飛ばした。その一事だけでも、人間

狒々は恐るべき反射神経の持ち主と言えた。

 それは、先程に弾いたはずの小刀だった。

 大木に刺さったはずの小刀が何故に飛んで

きたのか…、今頃になって…。

 「誰だあっ?」

 人間狒々が咆哮し、小刀が飛来した方を見

る。その視線が、一人の男を捉えた。

 「き、貴様は…、十蔵っっ!」

 木々の間に十蔵が立っていた。そして、静

かに腰の胴太貫を抜き放つ。

 「妖忍め…。身も心も、獣になりさがると

は嘆かわしい限りだな…」

 冷たく、水を打ったような声だった。

 地面に横たわったまま、女が目を見開く。

 子供すらもが、不意に泣き止んだ。

 緊張と沈黙の中、ゆっくりと十蔵が歩んで

くる。その動きには、一分の隙もない。

 人間狒々はそれに対するように、女の側か

ら離れた。と同時に、跳ねるように起き上が

った女は慌てて、子供を抱き寄せる。

 そんなことは目に入らぬかのように、対峙

する十蔵と人間狒々。

 「ケケッ。ここで貴様に会えるとは、願っ

てもないことよ」

 人間狒々が、鉄の爪をペロリと舐める。白

く泡立った唾液が、鉄の爪を濡らした。

 「お互いさまさ…」

 十蔵もまた、胴太貫を中段に構えた。

 「俺の名は狒々翁(ひひおう)。十蔵、貴

様の首は貰ったぞっ!」

 妖忍・狒々翁が跳躍する。3メートルの高

さに達した狒々翁は鉄の爪に陽光を照り返し

ながら、十蔵の頭上へと舞い降りた。

 「死ねぇぇぇいっっ!」

 死を呼ぶ爪が振り下ろされる。その一撃に

十蔵は胴太貫を直角に振り上げた。研ぎ澄ま

された爪と、叩き鍛えられた刀身が火花を散

らした。鉄と鉄が弾け合う。

 「いぇぇいっっ!」

 十蔵は跳ね返るよりも早く、二の太刀を送

り出していた。それは狒々翁の胸板を切り裂

いて、血の華を咲かせた。

 「ギャアアッッ!」

 空中をクルクルと回転しつつ、狒々翁は十

蔵の刃から逃れた。それでも、胸からはドク

ドクと血が滴っている。

 「な、何故だ。何故、刀をも通さぬ毛鎧を

切り裂くことが出来るっ?」

 絶対の自信を持っていただけに、狒々翁の

動揺は激しかった。

 刀に残った血を振り払いつつ、十蔵はあら

ためて刀を構える。そして、言った。

 「神陰(しんかげ)流、『斬鬼剣』。あら

ゆる魔を断ち切る秘剣の前に、魔の力を借り

た貴様らが逃れる術はない…」

 十蔵の刀に青白い闘気が立ちのぼる。それ

は妖しい鬼火のようでもあり、闇に咲く青い

花弁のようでもあった。

 「神陰流だと…? そんな世迷い言を、こ

の狒々翁が信じると思うのかっっ!」

 「信じるかどうかは、斬られてから考えて

みるんだな…」

 神陰流…。後に柳生新陰流などに受け継が

れていく日本剣法の源流である。剣聖と呼ば

れた上泉信綱に創始された必殺剣として、多

くの剣術家に羨望された。しかし、日本最強

の名を欲しいままにしつつも、その秘剣ゆえ

に真に伝承できる者が少なく、ついには消え

てしまったとされる幻の剣法であった。

 失われた史上最強の剣……。

 十蔵は、その「失われた伝承者」であると

言うのであろうか。だが、その全身から立ち

のぼる闘気は本物であった…!

 「来い、狒々翁…!」

 十蔵が誘った。

 「ガアアアアッッ!」

 狒々翁が咆哮し、鉄の爪を振りかざしなが

ら、十蔵に突進する。それを迎え撃つかのよ

うに、十蔵も狒々翁へと走った。

 「いやあぁぁぁっっ!」

 「グオオオオオッッ!」

 殺気を孕んで、二つの影が突き進む。

 その様子を見ている女と子供も、固唾を呑

むばかりであった。

 鋼鉄の爪が引き裂くのが、先なのか…?

 幻の秘剣が斬り倒すのが、先なのか…?

 駆け寄る二つの影が重なり合う!

 バシュウウウウッッ…ンンン……!

 鈍い余韻を残すような響きが聞こえた。す

れ違った二つの魔影は数メートルを行き過ぎ

て、背中合わせに静止した。両者ともに動か

ない。彫像と化したかのように…。

 「ケケケケケ……」

 不意に狒々翁が笑いだす。笑いながら、そ

の右肩からピッと鮮血が噴いた。血は線とな

り、右肩から左胸へと延びていく。

 左胸は、妖忍の急所となる心臓の位置だ。

 「ケケケ…ケケ…ケ…ケ……」

 ゆっくりと血の線に沿って、上半身がズレ

ていった。支えを失ったように、ゆっくりと

滑り落ちていく…。やがて、二つに分かれた

狒々翁の身体がドサリと倒れた…。

 白っぽい煙を発しながら、狒々翁の身体が

溶けていく。異臭と共に、その身体は粘土の

ようなドロドロの塊と化していった…。

 「………」

 狒々翁の最期を見届けながら、十蔵は血に

濡れた刀を一振りした。クルリと刃峰を翻し

て、鞘の中へとチンと収める。

 十蔵は子供を庇うようにしている女の方へ

と目を向けた。女はその目から警戒心を消す

ことなく、十蔵を見つめていた。

 十蔵は今になって、女の風貌を知った。忍

者であることは間違いないが、そのしなやか

な肢体に乗った顔は可愛らしく、いまだ少女

の面影を留めている。歳の頃は十六、七ぐら

いであろうか…。忍びとして、命のやり取り

をするには若すぎる感じだった。

 十蔵がゆっくりと女忍者に近づいていく。

 「……!」

 不意に女がハッと身を固くした。十蔵が女

の腰に触れてきたからである。

 「心配するな」

 「グッ……!」

 傷めた腰を押されて、女が苦鳴を漏らす。

 十蔵は手を当てるように、痛みの具合を推

し量っていた。やがて…、

 「それほどの怪我ではない。少し休めば、

楽になるだろう」

 腰から手を離し、十蔵が立ち上がる。

 男の子が心配するように女を覗き込む。女

は「心配しないで」と微笑で答えた。

 そんな様子を見つつ、十蔵が言う。

 「少し休んだら、早々に此処を離れること

だ…。死にたくなければな…」

 「……。どういう…こと…?」

 女が怪訝そうに尋ね返す。十蔵の様子から

只事ではないとは感じているようだ。

 「間もなく、落武者狩りが始まる」

 そう言って、十蔵は燃える小谷城の方角に

目を転じた。遠く勝鬨が聞こえている。見慣

れた落城の光景であった。

 いく筋もの煙が天に吸い込まれていく。そ

の煙と共に、幾つの命が天に昇っていったの

であろうか…。いや…、その幾つかは天に召

されることも許されなかった筈だ…。

 「これで、浅井も滅んだ。信長の覇道はさ

らに一歩を進めたということだな…」

 誰に言うでもない。それは十蔵が自身に語

りかけている言葉のようだった。

 信長が覇権を広げるほど、妖忍衆を滅ぼす

という十蔵の悲願達成は難しくなる。十蔵の

闘いとはすなわち、信長の天下取りとの秒読

みの闘いでもあるのだ。

 「…?」

 不意に変わった気配を感じて、十蔵は女を

振り返った。

 女は小さく肩を震わせていた。押し殺した

ように、声にならない嗚咽が漏れる。

 「浅井の者だったのか…」

 十蔵は女の様子から、そう判断する。落城

を知った女の思いは察することができた。

 だが、他人と関わり合っている暇はない。

 十蔵はクルリと踵を返し、女と子供から離

れるように立ち去ろうとした。その途端、

 「待ってくださいっっ!」

 女の声が十蔵の足を止めた。

 「……?」

 十蔵が女を振り返る。女は痛む身体を起こ

して、平伏するように正座していた。

 女は少し躊躇いの表情を見せた後、心を固

めたようにバッと頭を下げた。

 「…無理を承知でお願い致します」

 「……?」

 「わ…、私たちを守っていただけませんで

しょうか?」

 女はそう言って、地面に平伏した。

 一瞬、困惑したような表情を浮かべたもの

の、すぐに十蔵は冷たい眼差しに変わる。

 「断る。俺には、他人を守ってやれるほど

の余裕はない」

 にべもない言い方であった。しかし、女の

方は引き下がれないといった様子だ。

 「お願いでございます。あのような化け物

相手では、私はこの方を守りきる自信がござ

いません…。お願いでございます!」

 「……」

 化け物、という言葉に十蔵はフッと哀しげ

に笑った。寂しげにも見えた。

 女はそんな様子にも気づかず、そばでキョ

トンとしている男の子を抱き寄せる。

 「お願いでございます。この方を、この幼

い命を救ってくださいまし…!」

 「一つ尋ねるが…。何故、お前たちは妖忍

衆に追われているのだ?」

 「……」

 女は言葉を呑み込んでしまう。

 「素性も分からぬ者を助けてやるほど、俺

は酔狂ではないぞ」

 十蔵は静かな眼差しを男の子に向けた。

 女はしばし、十蔵と男の子を交互に見つめ

ながら、思案しているようだった。だが、や

がて意を決したように、うなずく。

 女はキチンと身なりを正し、男の子を傍ら

に座らせると、十蔵に向き直った。

 「申し遅れましたが、私は浅井家に仕える

甲賀忍群の一人で『楓(かえで)』と言いま

す…。そして、この方は…」

 楓と名乗った女は、男の子を見て、

 「主君、浅井長政が嫡男。万福丸(まんぷ

くまる)さまにございます!」

 楓は一気に言い放ち、十蔵を見つめた。

 

 ガラガラガラ…。

 時折、焼け焦げた柱が大きな音をたてなが

ら、崩れ落ちる。落城したばかりの小谷城は

いまだ黒煙を漂わせながら、殺戮と滅びの余

韻にむせんでいた…。

 まだ城の一部では掃討戦が続けられている

らしく、まれに喚声が聞こえてくる。

 「フハハハハハ……!」

 焼け焦げた死体の匂いが充満する城内で、

信長は満足げに笑っていた。

 ようやく念願の浅井征伐を成し遂げたのだ

から、それも無理ないことなのだろう。かっ

て、浅井・朝倉の連合軍に挟撃された金ヶ崎

撤退戦で味合わされた屈辱を忘れず、その怨

念を果たした解放感に浸っていた。

 「申し上げます!」

 信長の側に一人の武将が走り寄る。織田軍

団でも勇将で知られる「佐々成政(ささなり

まさ)」であった。

 「おお…、長政めはどうなった?」

 信長が急かすように尋ねる。

 「はっ。本丸近くの赤尾屋敷に入り、浅井

日向守の介錯にて、自刃いたしました」

 「自刃じゃと…! この手で首をはねてや

りたかったものを…」

 信長が目を怒らせる。それほどまでに浅井

に対する恨みは深かったのだ。

 「して…、奴の首はどうした?」

 信長が成政に問いただす。それは戦の勝敗

の上でも、重要なことであった。

 「本丸を攻めている不破光治(ふわみつは

る)殿が手に入れたとのこと。間もなく、こ

ちらに届けられるものと思われます」

 「そうか…。大儀であった」

 「ははぁっ!」

 佐々成政が平伏する。

 「勝家!」

 「はっ…!」

 信長に呼ばれた重臣の柴田勝家が応える。

 「市と、その娘たちはすでに保護してある

のだったな?」

 「はっ。すでに美濃方面へと避難され、明

日にも岐阜城に入られるでしょう」

 勝家がハキハキと答える。

 信長の妹である市姫と、その娘たちは落城

前に救出されていた。自分と同じ血が流れる

娘は後々に政略結婚に使えるからと、信長が

助命に同意したためである。だが、それはそ

れである。比類なき残虐性を持つ信長の本質

が変わった訳ではなかった。

 「戦後処理は任せる。浅井の一族郎党の首

は全てはねよ。女子供も容赦するな!」

 「嫡男の始末は、すでに妖忍を放っており

ます。側室などは捕らえておりますが…」

 「一人残らず、斬りすていっっ!」

 信長は叫ぶように言い放ち、次いで高らか

に笑いはじめる。

 「ハハハハハハ…。一人残らず、死に絶え

るがいい。それが第六天魔王に歯向かった愚

か者どもの末路じゃ!」

 さらに笑い声は大きくなる。トーンを外し

たように甲高くなる声は、居並ぶ武将たちの

心も凍らせるほどに禍々しかった…。

 

 本陣の片隅…。

 武将ではない蘭丸は陣幕の外に控える形で

座っていた。

 「蘭丸さま…」

 不意に誰かに呼ばれ、蘭丸は振り向いた。

 黒い僧服を纏った異相の男がいる。

 「オルガンティーノ殿。如何なされた?」

 「ちと…、まずいことになりました」

 黒衣の妖僧、オルガンティーノが周囲を気

にしながら、声を潜める。

 「まずいこと…?」

 信長の禍々しい笑い声を耳にしながら、蘭

丸は静かに本陣を離れた。オルガンティーノ

と一緒に、兵たちのいない一角へと進む。

 「何か、あったのですか?」

 人のいないことを確かめ、尋ねる。

 「はい。どうやら、浅井の嫡男を追ってい

た狒々翁が斃されたようです」

 「何ですって…!」

 思わず大きくなりかけた声を、蘭丸は慌て

て抑えた。だが、その目は真剣だ。

 「しかも…。手を下したのは、どうやら十

蔵かと思われます」

 「十蔵が…!」

 蘭丸の美しい顔が歪む。またしても、とい

う気持ちが強い。

 「いかがいたしましょう?」

 オルガンティーノが尋ねる。あえて感情を

煽るかのような言い方だった。

 「おのれ…、どこまでも我等の邪魔をする

つもりか…!」

 蘭丸の声が怒りに震える。

 「オルガンティーノ殿!」

 「はい」

 「すぐに新たなる妖忍を放つのです。今度

こそ、失敗のないように…!」

 「お任せください…」

 そう言って、オルガンティーノがパチンと

指を鳴らす。その音に誘われるかのように、

一人の宣教師が現れた。二十代半ばの若い男

だが、右目がなかった。

 「その者は…?」

 「名はソルガティ。本陣を離れられぬ私に

代わり、必ずや御役目を果たすでしょう」

 オルガンティーノが不気味な笑みを刻みな

がら、新たなる宣教師を紹介する。

 「その者に、始末を任せると?」

 「はい。ソルガティ、蘭丸さまにご挨拶申

し上げるのだ」

 オルガンティーノに促され、ソルガティが

蘭丸の前に進み出る。

 「このソルガティ、信長さまの覇道を成し

遂げるために力を尽くしましょう」

 流暢な日本語を話す。だが、その声には陰

湿な響きが潜んでいた。

 「わかりました。このような失敗を信長さ

まの耳に入れる訳にいきません。必ず、十蔵

と浅井の嫡男を始末してください」

 「かしこまりました…」

 蘭丸の言葉にソルガティがうなずく。再び

上げた顔には、やはり陰湿な笑みが宿ってい

たのだった。

 

 同じ頃。

 小谷城を中心とする戦場を離れるかのよう

に、山中を進む三つの人影があった。

 先頭を歩いていくのは十蔵である。その後

方を少し離れた形でついていくのは、楓と万

福丸の二人だった。

 「ついてくるなと言ってるだろう…!」

 足を止めた十蔵が、振り向いて怒鳴る。

 「たまたま、進む方向が同じだけです」

 楓が悪びれた風もなく、答える。ツンと澄

ました顔が可愛くもあり、憎らしくもある。

 「おのれ…、斬るぞ!」

 十蔵が刀の柄に手をかける。

 「あぁら、驚いた。女子供を斬って、よく

武士を名乗ってられるわね」

 脅しと判っているだけに、楓も動じない。

 むしろ揶揄するように、十蔵の反応を楽し

んでいる雰囲気すらあった。

 「くっ!」

 十蔵が吐き捨てる。

 楓にしてみれば、妖忍と渡り合うことの出

来る十蔵を手放したくはない。それに、この

殺伐とした戦国時代に女子供を守ろうとした

十蔵の男気を見込んだこともあった。

 「………」

 十蔵が苦虫を噛みつぶしたような表情で歩

きはじめる。

 「さ、万福丸さま。行きましょう」

 寄り添う男の子の手を引いて、楓も後を追

いはじめる。この男の子こそが、浅井家の血

を伝える御曹司、「万福丸」なのだ。

 この幼き命を守ることこそ、楓が果たさね

ばならない使命であった。

 不協和音を鳴らしながら、奇妙な3人の道

連れは暮れかかった山路を進んでいく。

 

 戦後処理が進む小谷城。

 屍人兵に使えそうな死体を後方に移送する

作業や、落ち武者狩りを行う手筈が着々と進

められていた。五体が満足に残っている限り

は屍人兵に流用できる。だが、死体運びを続

けている織田の兵たちも、何かやりきれない

ような表情をしていた。

 それらを見下ろすように、三つの異形の影

が焼け落ちた城壁の上に立っていた。

 「ククク…。こうして、我等の悲願である

死人の国が出来上がって行く訳だな…」

 「長く続く戦国の世…。これこそ、わらわ

が望んでいた世界ぞ…」

 「人が人でなくなっていく世界。そこでこ

そ、わしらが生きられると言うもの…」

 3つの異形は、死臭に満ちた眼下の光景に

思い思いの言葉を漏らす。その声はたまらな

く楽しそうであった。

 「お主たち、出番だ!」

 不意に声がして、城壁に黒衣の僧侶が姿を

見せる。隻眼の妖神父、ソルガティだ。

 「おお…、待ちかねましたぞ!」

 異形が声をそろえる。

 妖神父ソルガティが、異形の者たちを順に

見渡していく。

 「ムササビ道軒(むささびどうけん)…」

 「はっ」

 痩せた感じの一人目が答える。

 「紫式部(むらさきしきぶ)…」

 「はい…」

 何とも人を食ったような名だが、呼ばれた

当人は妖艶な唇に死の匂いを漂わせている。

 「山椒太夫(さんしょうだゆう)…」

 これもおかしな名である。日本民話に知ら

れた「安寿と厨子王」に出てくる名だが、呼

ばれた方は民話の美少年とは程遠い醜怪な容

貌をした小太りの男であった。

 「よいか…。独角鬼や狒々翁を斃した相手

だ。くれぐれもぬかるな」

 「お任せあれ…」

 三人の妖忍が陰々と答える。

 「よし、行け!」

 ソルガティの言葉に、異形の影たちが山を

目指して、飛び去っていった。

 暮れかかった山は、夜の闇に包まれようと

している。それは、これからの時代を暗示す

るかのようだった。

      

                           つづく