天正妖戦記

  十蔵の剣

 

     第四回 緋色の道

 

 山並みに篝火が連なっている。

 深山に巣くう妖狐が燃やす狐火のようにも

見える。炎は線となり、延々と伸びていた。

 だが、その炎の元にいるのは狐などではな

い。黒々とした甲冑を着けた武者であり、槍

を手にした足軽たちであった。

 近江の浅井氏を滅ぼした織田の軍勢は本領

の岐阜には戻らずに、そのまま畿内方面へと

転戦していた。すでに先鋒をつとめる柴田勝

家の精鋭部隊は六角氏の鯰江(なまずえ)城

に迫り、戦闘開始の合図を待っている頃だ。

 戦に次ぐ戦。織田軍団は貪欲なイナゴの群

れのように、諸国を席巻しつつあった…。

 闇に連なる炎を遠方に望んで、荒れ果てた

寺が建っている。かっては、百済寺(ひゃく

さいじ)と言われていた場所で、信長に焼き

尽くされた延暦寺に属する寺院だった。多く

の荒法師や僧兵を擁し、六角氏残党と共に信

長に抵抗を続けていたが、今はただの廃墟で

ある。堂塔伽藍は焼け落ち、山門も大きく崩

れている。桜も艶やかな四月に織田軍の総攻

撃を受け、ことごとく焼き払われたからだ。

 打ち続く戦乱は全てを容赦なく、灰塵に変

えていく。ここもその一例に過ぎない…。

 かっては人心を集め、仏の慈悲を広めてい

た寺院…。今、そこには不気味な妖気が濃密

に漂っていた。

 半分が焼け落ちた巨大な本堂の中に、無数

の蝋燭が揺らめいていた。炎に照らされて、

恐るべき光景が浮かび上がる。

 「エロイムエッサイム…、エロイムエッサ

イム…、エロイムエッサイム…」

 壊れたテープレコーダーのように単調に繰

り返される呪文。それを口にするのは、やは

り黙々と作業を繰り返す人々たちだった。そ

の目に生気はなく、白き蝋細工がごとき肌に

は血が通っていないようだ。あるいはミイラ

のような姿の者もいる。

 織田が擁する屍人兵たちであった。

 そして、彼らの前に累々と並べられている

のもまた死体であった。

 屍人兵の持つ小刀が死体の胸を切り開き、

心臓を抜き取る。抜き取られた心臓も切り開

かれ、黒い消し炭のようなものを埋め込まれ

た後に縫合されていく。その縫合された縫い

目の形は等しく「逆十字」であった。

 西洋では墓標に用いられ、死者の魂を慰め

るシンボルが「十字架」である。ならば、そ

れを逆さにした「逆十字」を刻まれた心臓は

死者に何をもたらすのであろうか…。

 「エロイムエッサイム…、エロイムエッサ

イム…、エロイムエッサイム……」

 陰々滅々とした言葉が続く…。

 逆十字の刻印を施された心臓が元の位置に

戻され、死体の胸もまた逆十字の縫い目も不

気味に縫合されていった。

 「………」

 やがて、死体がピクリと動いた。瞼が開い

て、濁った眼球が見えた。ムクリと起き上が

る死体たちが緩慢に首を巡らせる。

 新たな屍人兵の誕生であった。そこかしこ

で同じように死体たちが蘇っていく。

 「しかし…。何度見ても、気持ちのいいも

のではありませんね…」

 本堂の中にたちこめる血の匂いと死臭に鼻

を押さえながら、蘭丸が言った。彼は入口に

近い場所で屍人兵たちを見ていた。

 「クククク…、可哀相なことを申されます

な。死しても織田のために働こうとする可愛

い屍人兵たちですぞ」

 横にいるオルガンティーノが笑う。

 「それはそうですが…」

 「やはり、この国は素晴らしい。これほど

屍人兵が似合う国は他にありませぬ…」

 「長き戦国の世ゆえのことです」

 「いや、おかげで材料となる死体には事欠

きませぬ。戦が続けば続くほど、人が死ねば

死ぬほど、織田は強くなっていくのです」

 オルガンティーノはユラリユラリと蝋燭の

灯に浮かぶ屍人兵たちを見つつ、愉快でたま

らないといった感じに言った。

 「死ねば死ぬほど…ですか…」

 蘭丸はそうつぶやき、目を前に向けた。

 屍人兵が屍人兵を生んでいる…。

 死体が死体を弄び、報われぬ魂が新たな報

われぬ魂を生み出していく。それはまさに見

た者を永遠の奈落へと誘うような悪夢だ。

 陰惨な光景の中で屍人兵たちが生まれ、さ

らなる死体を生み出すために戦場に向かう。

 それは戦国の世が続く限り、消えることの

ない悪夢であった。

 「確かに織田は強くなるでしょう。この屍

人兵がある限り、天下は信長さまのもの…」

 蘭丸はそう言って、オルガンティーノの言

葉の正しさを認めた。

 「クククク…、左様でございます。さらに

我々には妖忍衆もおりまする」

 「妖忍衆ですか…。ところで、浅井の嫡子

と十蔵は始末できたのですか?」

 「ソルガティが追っておりまする。それに

妖忍が3人…。よもや失敗など…」

 オルガンティーノがそこまで言った時、同

じような宣教師の服を纏った若い男が慌てた

ように駆け寄ってきた。

 「ファーザー!」

 そう叫んだのは、蘭丸に勝るとも劣らない

美貌の少年であった。首回りを飾るビロウド

の襟が、少年の可愛らしさに華を添える。

 「フィリオ、そんなに慌てて…!」

 オルガンティーノが美少年をたしなめる。

 美少年は横にいる蘭丸に気づき、恐縮した

ように一礼した。

 「かまいません。どうしたのです?」

 蘭丸は優しく微笑み、促した。

 「は、はい…。こ、これが…!」

 美少年フィリオが差し出したのは、燃え焦

げたた一枚の紙片であった。それを見たオル

ガンティーノの顔が険しくなる。

 「うぬぅ…、おのれぇ…」

 苦渋とも取れる呻きが漏れた。

 鬼気立ちのぼらせるオルガンティーノに美

少年フィリオが怯えたように平伏する。

 「…どういうことです?」

 蘭丸がオルガンティーノを見る。

 「はい…。申し訳ありませんが…、またも

妖忍を失ったようにございます」

 「何ですって?」

 「この紙でございます…」

 驚く蘭丸に、オルガンティーノは燃えた紙

片をつまんで示す。

 「紙がどうかしたのですか?」

 「この紙は『アカシックペーパー』と申し

まして…。日本風に言えば、『運命符』とで

も申しましょうか…」

 「運命符?」

 「はい。この紙は特殊な力で、妖忍に埋め

込まれた呪心臓と結ばれておりまする」

 「で、では…、それが燃えれば…?」

 「………」

 オルガンティーノは黙って、手の中の紙を

握りつぶした。細かい灰となった紙がこぼれ

落ちて、風に散っていった。

 「フィリオ…」

 オルガンティーノが異国の美少年を見つめ

て、静かに問い掛ける。

 「燃えた紙には、何と書かれていた?」

 「確か、ムササビ道軒とありました。そし

て、もう一枚には…」

 「もう一枚? まだ燃えた紙があると?」

 オルガンティーノの顔に、今度こそハッキ

リと動揺の色が浮かんだ。

 「は、はい。それには確か…」

 フィリオが必死に記憶をたどる。その言葉

を待つオルガンティーノと蘭丸の顔には、激

しい困惑と動揺が混在していた…。

 

 ジュッジュジュウウウッッッ……!

 地面に白煙があがり、深く穿たれた。

 楓を溶かそうとする巨大なサンショウウオ

の妖忍、山椒太夫。その口が開き、恐るべき

溶解液である唾液が滴り落ちる。

 まさに絶対絶命。気丈な少女であり、甲賀

忍者である楓も、その運命を悟ったほどだ。

 その口が大きく開ききった瞬間!

 「ギャアアアアアアッッッ!」

 凄まじい絶叫が夜の山に響きわたった。

 楓が溶かされた!

  ……という訳ではない。

 絶叫を放ったのは山椒太夫の口であり、そ

こから放たれる筈だった溶解液は逆流した血

へと変わって、地面を紅く染めた。

 「グエエエエッッッ…!」

 血の泡を吹いて、山椒太夫が苦悶する。

 目の前で突如として苦しみ始めた山椒太夫

の様子に、楓はキョトンとしていた。何が起

こっているのか、分からなかったのだ。

 だが、その目が山椒太夫の左胸から生えて

いる刀の切っ先を捉える。

 「ま…、まさか…?」

 信じられない、といった顔つきで、楓は山

椒太夫の背後にいる小さな人影を見た。

 山椒太夫に必死に刀を食い込ませていたの

は、なんと万福丸であった。あどけない顔を

蒼白に染めている。渾身の力で押し込んでい

るのは、楓が落とした忍者刀だった。

 「コ…、コノ…コゾウ…」

 血を吐きながら、必死に山椒太夫が首を巡

らそうとした。吐血に混じる溶解液が地面に

爆ぜて、白く煙を噴いた。

 「万福丸さまっっ!」

 必死に身を起こしながら、楓が叫ぶ。

 だが、首の位置すら定かではないサンショ

ウウオの身体では、うまく首を回すこともま

まならなかった。

 「うわああああっっ!」

 山椒太夫の動きに驚怖した万福丸が、さら

に握った刀に力を込めた。切っ先はさらに食

い込み、分厚い肉を突き破って、さらに血に

濡れた刀身が胸から伸びる。

 「グエエエエエッッッ!」

 すさまじい絶叫が上がった。

 それと同時に万福丸が刀から手を離し、勢

い余って尻餅をついてしまう。

 だが、山椒太夫の命運はすでに尽きていた

のだった。万福丸の偶然の一刀に破られた呪

心臓から急速に黒い生命力が失われていく。

 万福丸に反撃することも叶わず、苦悶から

逃れるように水辺へ向かう。ベトリベトリと

いう足音もすでに弱々しい。

 「万福丸さまっっ!」

 全身の力を振り絞り、楓が万福丸に駆け寄

る。必死に抱きしめると、放心したような万

福丸の身体から震えが伝わってきた。無我夢

中だったのだろう。今になってよみがえる恐

怖に万福丸は硬直していた…。

 「万福丸さま…」

 楓は命の恩人となった小さな勇者の身体を

より強く抱きしめるしかなかった。そして、

ゆっくりと山椒太夫を見る。

 山椒太夫は水辺へと歩んでいた。だが、そ

の身体は白煙を噴き上げ、爛れた皮膚が崩れ

た肉と共に、流れ落ちていた。

 それでも、さらに一歩…。二歩…。

 そこが限界だった。巨大な山椒太夫の肉体

は自らの溶解液に溶かされたかのように、奇

怪な粘土のように崩れていった…。

 「………」

 夜の闇に静寂が戻った。

 何処からか、虫の声も聞こえはじめる。

 それが死闘の終わりを意味していた。

 「う…うっ…、ううっ…う…」

 小さく嗚咽が漏れ聞こえ始める。目から大

粒の涙を溢れさせながら、万福丸は小さな身

体を震わせて、泣いた…。

 「万福丸さま…、もう大丈夫ですよ」

 楓が言う。その一言がきっかけとなって、

嗚咽は号泣に変わった。体を震わせ、楓の胸

に顔を埋めるようにして、万福丸が泣く。

 楓の目にも涙が光っていた。

 やがて、楓も嗚咽を漏らすように泣き出し

てしまうのだった…。

 

 たった一つの目が怒気に歪んだ。

 「信じられぬ…」

 漏らした言葉に、目の前に平伏した紫色の

巨蝶は恐縮したように身を震わせた。

 「式部よ…。それは本当なのか?」

 「はい…。すでにムササビ道軒は斃されて

おり、わらわの美しい顔までもが…」

 紫の羽を震わせ、妖忍・紫式部は白い布を

巻いた顔に手を当てた。白い布は痛々しく血

に染まり、美しい顔を台無しにしている。わ

ずかに覗く瞳が憎悪に燃えていた。

 「ううむ…。山椒太夫の気も途絶えておる

し、まさか二人も失ったと言うのか…」

 隻眼の妖神父ソルガティは唸った。

 自らが放った三人の妖忍とは、テレパシー

にも似た伝心術で気配をトレースしていた。

 その内、ムササビ道軒と山椒太夫の気が途

絶えた。困惑していたところに、紫式部が重

傷を負って、逃げ帰ってきたのである。その

様子から、すでに気配が途絶えた二人の妖忍

は斃されたと見てよかった。

 「おのれ、十蔵…」

 歯ぎしりするソルガティ。自信たっぷりに

放った妖忍を失ったことが、彼の自尊心を痛

く傷つけていた。

 「式部よ…」

 ソルガティが言う。

 「はい。責めはいかようにも…」

 紫式部が平伏した。任務を果たせなかった

以上は、粛清も免れぬと覚悟している。しか

し、十蔵に復讐も出来ずに果てることだけは

無念でならなかった。

 「………」

 「………」

 両者の間に沈黙が落ちる。

 「…十蔵への怨み、薄れてはいないな?」

 「忘れようと思うても、忘れられませぬ」

 「では、十蔵を斃せるか?」

 「無論…。わらわの顔を傷つけたことを永

遠に後悔させてごらんにいれまする」

 紫式部の目に、すさまじい光が宿る。復讐

のみを求める妄執の炎であった。

 「よかろう…。貴様の命はしばらく預けて

おく。見事、復讐を果たしてみよ」

 「ありがたきお言葉…」

 紫式部が妖艶な微笑を浮かべた。復讐の機

会を与えられたことが、彼女の心をさらにど

す黒く塗り立てていった。

 「だが、傷を負った貴様だけで斃せる相手

とも思えん。わしも甘く見すぎていた」

 「申し訳ありませぬ…」

 「しかし…、オルガンティーノ様に援軍を

求めるわけにもいかん。このソルガティにも

プライドというものがある」

 「では…?」

 紫式部が顔を上げ、隻眼の妖神父を見る。

 しばし、考えて、

 「わしの子飼いを集めるしかないな…」

 「ソルガティさまの? この近くに…?」

 「うむ…。佐久間信盛の軍勢が来ていたは

ずだ。彼奴に配されている妖忍は、わしが仕

立てた者どもよ…」

 「佐久間どのの…?」

 「そうだ、三人か、四人はいたはず…」

 ソルガティは記憶を辿って、言った。

 この頃、鯰江城攻略に向かっている柴田勝

家軍とは別に、佐久間隊も動いている。目標

は近江国甲賀の石部(いしべ)城である。

 石部城には、鯰江城に籠もる六角義治(ろ

っかくよしはる)の父、六角義賢(ろっかく

よしかた)が入っている。従う武将も石部家

清(いしべいえきよ)、三雲成持(みくもし

げもち)、山中長俊(やまなかながとし)と

いった六角譜代の勇将が揃っていた。さらに

は楓と同門にあたる甲賀の地侍や忍者たちも

加担しており、その攻略のために妖忍たちが

配されているはずであった。

 「佐久間の陣に赴くぞ。奴らを集め、必ず

や十蔵と浅井の小伜を仕留める…!」

 「かしこまりました!」

 凛と答え、紫式部が闇の中に消える。

 気配が遠ざかると、ソルガティの残された

独眼が異様な光を帯びた。

 「わしの影を使うのも、やむを得んか…」

 誰に言うでもなく、独り言ちた後、

 「地虫民部(じむしみんぶ)…」

 誰もいない空間に呼びかけた。当然、そこ

には何も見えない。しかし…。

 「控えておりまする…」

 姿も見えないのに、声だけが返ってきた。

 不意に気配が生まれ、陰々とした声が何も

見えない空間に響いた。

 「十蔵たちの足を止める必要がある。屍人

兵を使い、時を稼ぐのだ」

 「……足を止めるだけでよろしいのか?」

 声には明らかに不満の気配がある。

 「浅井の小伜には十蔵がついている。お前

一人では万一ということもあろう…」

 「…この民部を侮りなさるのか?」

 「そうではない。出来るならば、斃してし

まいたいところだが…」

 「…斃してもよろしいのだな?」

 声が期待している。自分の能力を持って、

敵を斃すことの喜びに飢えていた。

 「出来ればの話だ…。浅井の小伜に逃げら

れては、元も子もない」

 「分かっておりまする」

 「では、行け。失敗は許さん」

 「承知……」

 短く答え、気配が遠ざかる。やがて、その

微かな気配も闇に溶けるように消えた。

  それと共に、いつしか妖神父ソルガティの

姿もなくなっていた……。

 

 渓流が流れる山間。中流域の巨岩が連なる

一角に、細々と焚き火が燃えていた。

 「まさか…、その子がな…」

 十蔵はため息まじりにつぶやいた。

 その視線の先では、楓の膝を枕にして眠る

万福丸の姿がある。張り詰めていた糸が切れ

たかのように、昏々と眠り続けている。こん

な子供が恐るべき妖忍を斃したとは、驚きを

通り越した衝撃だった。だが、それは疑いよ

うのない現実に間違いなかった。

 「ええ…。でも、この子が戦ってくれなけ

れば、二人とも今頃は…」

 「だが…。この目で見ても、なかなか信じ

られることではない…」

 十蔵はもう一度、深くため息をつく。

 二人の妖忍との死闘を終えた十蔵がようや

く追いついた時、彼が見たものは抱き合った

ままで泣いている楓と万福丸の姿だった。山

椒太夫との闘いから、およそ四半刻ほどの時

間が経過しており、すでに妖忍の躯は小さな

粘塊に変わり果てていた。その妖忍を斃した

のが万福丸だと分かっても、十蔵にはにわか

に信じられなかったのである。

 「でも…、さすがは武士の子ね」

 楓が嬉しそうに万福丸の頭を撫でた。

 その言葉にピクリと十蔵が反応した。それ

に気づかず、楓は言葉を続ける。

 「この歳で…、もう闘うことを覚えてくれ

た。この子はきっと、良い武将になるわ」

 「…喜ぶべきことなのか?」

 十蔵が言葉を挟む。棘のある一言だった。

 「どういうこと?」

 「幼い手を血に染めるには早過ぎるような

気がしたのでね…」

 「今は乱世よ。武将の子に生まれた以上、

いずれは学ばねばならないことだわ」

 「学ばねばならないのではなく、学ばされ

るのだろう。否応なくな…」

 十蔵が楓を見つめる。楓も見返した。

 にらみ合う二人の視線はぶつかりあい、無

言の火花と散った。

 「この子は自分で刀を手にしたのよ」

 「無我夢中だった。お前を守るために…」

 「でも、妖忍を斃したのは事実よ!」

 「偶然に呪心臓を貫いたからだ。そうでな

ければ、死んでいたのは万福丸の方だ」

 「…ぐ、偶然でも…。そ、そうよ、運だっ

て、武将の器の一つよ!」

 「武将になるために、この子は無謀とも言

える命のやり取りをしたのか?」

 楓がムッとする。しかし、「そうだ」と単

純に答えてはいけないようにも思えた。

 「い、生き抜くためによっっ!」

 「生き続けるためには、修羅の道に落ちる

こともやむを得ないということか…?」

 「………」

 グッ…と楓が黙り込む。十蔵はゆっくりと

万福丸に目を向けた。

 「剣を取ったのは、まだこの子の意思とは

言えまい。しかし…」

 「しかし?」

 「それを周囲が望むのなら、この子が行く

道は血に染まるだろう」

 「殺すな…とでも言うの? そんな甘いこ

とでは生き残れないわ…!」

 「ならば、死ねばいい」

 「何ですって?」

 「それも一つの選択だ」

 「……」

 「最も不幸なことは、自分の意思と関係な

く道を歩まされることだ」

 十蔵の言葉に、楓は言葉を詰まらせる。そ

して、膝に眠る万福丸に目を落とした。万福

丸は安らかな寝息をたてている。

 「生き抜く…ということは、理由にはなら

ないのかしら?」

 「問題は、何のために生きるかだ」

 「万福丸さまが生き残ることによって、浅

井の家が再興できるのよ」

 「それは彼の都合ではなかろう」

 「え…?」

 あっさりと言われて、楓が戸惑う。

 「家臣たちが仕える家を保つために、彼の

命を必要としているに過ぎない」

 「そ…、そんなこと…」

 「彼の他に男子がいれば、彼が生き抜く必

要はなくなる。別の者が家を興せば、彼の命

は逆に邪魔となる。そうだろう…?」

 「………」

 楓は答えなかった。答えられなかった。

 十蔵の言うことは当たっている。この戦国

時代において、当主の存在は家臣たちにとっ

てのシンボルでしかない。別に仕える道があ

れば、それは平気で捨てられるものだ。

 だからこそ、裏切りがある。

 家臣が主君を討つ下克上が起きる。

 謀略と策略が張りめぐらされた糸の上にか

ろうじてバランスを保っているのが、この時

代に生きる戦国大名の現実であった。

 「私は…、この子を…」

 楓がポツリとつぶやく。

 忍者とは、命令されたことを実行するのみ

である。そこに疑問を挟む余地はなく、また

疑問を持ってはならない。ただ命令されたこ

とを黙々と実行し、そのためには己の命すら

も簡単に捨てることが要求される。

 それが忍者であった。それが楓の生きてき

た道であり、生きていく道であった。

 「私は…、この子を守って…」

 (どうするのだろう?)

 初めて疑問を抱く機会を与えられた時、楓

の心は千々に乱された。忍者らしからぬと言

われるかもしれない。だが、忍者とは言いな

がらも、楓の心は少女のままであった。

 万福丸の命を道具にするのかと問われた時

に、鉄の規律と掟をたたき込まれたはずの忍

びの心に微かな迷いが生まれたのだった。

 「………」

 楓が沈黙した。今、何を言っても、それが

嘘になってしまうような気がしたのだ。

 それを見た十蔵がフッと微笑する。

 「生きるために闘うことは否定せん。それ

が、この子の意思であるばらばな…」

 「十蔵…」

 「余計なことだったな…。だが、俺は運命

とか宿命とかいう言葉が嫌いでね…」

 十蔵はそう言うと、立ち上がった。

 その動きを目で追いながら、

 「十蔵…」

 楓は呼びかけた。

 「いずれ…、歩む道は彼が決めることだ」

 「………」

 楓が万福丸を見る。安らかな寝顔だった。

 「周りを見回ってくる…」

 声に楓が顔を上げると、すでに十蔵は闇の

中に歩み去ろうとしていた。

 「待って、十蔵!」

 楓は思わず叫んでいた。十蔵は背を向けた

ままで、ピタリと歩みを止める。

 「何だ?」

 「十蔵は…。十蔵は…、何のために妖忍衆

と闘っているの?」

 「………」

 「………」

 「……人として、死ぬためにだ」

 振り向きもせずに言うと、十蔵は再び歩き

出す。その背中が闇に溶けていくのを、楓は

黙って見送るしかなかった…。

 

 サラサラと川のせせらぎが聞こえている。

 雲間から顔を覗かせた月の淡い光が水面を

銀の砂州に変え、美しく映えていた。

 その川べりを十蔵が歩いていく。心なしか

足取りが苛ついているようでもある。

 「俺らしくもない…」

 十蔵が吐き捨てるようにつぶやく。

 他人など関係ない。いや、むしろ関わって

はならないのだ。そのことをずっと自分に課

してきたはずだった…。なのに…。

 楓に妙につっかかってしまった自分を十蔵

は後悔していた。というよりは、理解できず

にいたのである。

 何故、あんなに気にしてしまったのか?

 (気にする必要など、なかったはずだ)

 あの子の境遇に同情したと言うのか?

 (所詮は他人ではないか…!)

 自分に他人をかまう余裕があるのか?

 (いや、その資格すらないはずだ…)

 そうさ、お前は人ではないからな…!

 (ああ、俺は人ではないからな…)

 頭の中で交錯する様々な問いと思い…。

 もつれあった心の糸をほぐしつつ、十蔵の

脳裏に一つの問いが浮かび上がる。

 ………あの子は一体、お前の何なんだ?

 ……は、お前の何なんだ?

 …お前の何なんだ?

 何なんだ?

 …。

 「あの子は俺なのだ…」

 十蔵が自嘲めいた口調でつぶやいた。

 そして、ピタリと足を止める。

 月光を照り返す水面を背景に、いくつもの

黒い影が目の前に立ちはだかっていた。

 「キシャアアアアッッッ!」

 耳障りな声が上がる。手にした刀の刃がき

らめき、槍の穂先が輝いていた。

 「屍人兵…か…」

 十蔵が刀の柄に手をかけ、スラリと抜き放

つ。引き抜いた。幾多の戦場を駆け抜けてき

た胴太貫が、闘いを前に冷めた光を放つ。

 「そして…、今の俺は…」

 十蔵はゆっくりと胴太貫を構える。

 「キシャアアッ!」

 足軽の姿をした屍人兵たちが動いた。

 ザムザムと夜露に濡れた草を踏み荒らし、

十蔵へと凶刃を集めてくる。

 ギイィィンッッ!

 最初の一人が突きかけてきた槍を弾き、十

蔵の一刀が屍人兵を袈裟掛けに斬り払う。

 「そう…。今の俺は…」

 斜めに屍人兵の上半身が落ちていく。その

向こうに、血刃を閃かせた十蔵の姿…!

 「キッシャアッッ!」

 屍人兵たちが一斉に襲いかかった。

 「貴様らを斃すためだけに生きる鬼だ!」

 十蔵が叫び、その逞しい身体が跳んだ。

 

 パチパチ…と焚き火が爆ぜる。

 その炎を見つめ、楓はジッと考えていた。

 (問題は何のために生きるか…だ)

 十蔵の言葉が頭に残る。その言葉は万福丸

の安らかな寝顔と重なって、楓の心に棘のよ

うに突き刺さっていた。

 「私は……」

 楓がつぶやく。

 任務に情を挟むことは禁物、という忍者と

して育てられた楓の心…。

 万福丸の命を道具にしたくない、という人

としての楓の心…。それは母性本能のような

ものだったのかもしれない。

 だが、現実にその二つの心は楓の中でぶつ

かりあい、激しい葛藤となっていた。

 「……わからない…」

 楓がつぶやく。

 十六年という歳月を忍者として育てられて

きた楓である。その歳月を否定することは出

来はしない。だから…。

 つぶやくしかなかった。それが素直な気持

ちであり、偽りなき真意であった…。

 忍びとは、常にそうした矛盾の中で生きて

いるのかもしれない。それが陰に生きる者の

宿命と言うなら、それは不幸以外の何物でも

ないのではなかろうか…?

 ならば、万福丸はどうだ?

 この子もまた、「戦国大名の子」という宿

命に縛られているのではないか?

 何も知らないままに宿命を背負い、その宿

命に生かされている存在…。

 「生きるって、何だろ…?」

 楓は万福丸の寝顔を見つめながら、大きく

ため息をつくのだった…。

 その時!

 「キシャアアアッッ!」

 突如として響いた奇怪な叫びが、苦悩する

楓の鼓膜を揺さぶった。

 「な、何…?」

 ハッと身構える楓。いつしか、周囲を妖気

漂う異形の群れが取り巻いていた。

 「し、屍人兵!」

 慌てて立ち上がって、刀を抜く楓。その膝

枕で寝ていた万福丸は当然ながら、地面に頭

を打ちつけてしまう。

 「んん…、何んなのぉ…」

 目が覚めた万福丸は、寝ぼけたように瞼を

こする。まだ、状況に気づいていない。

 「万福丸さま…!」

 楓は刀を屍人兵に向けたまま、視線だけを

万福丸に送る。だが、寝ぼけたままの万福丸

はムニャムニャと惚けていた。

 「……!」

 あどけなく寝ぼける万福丸。

 凶刃を手に迫り来る屍人兵。

 万福丸、屍人兵、万福丸、屍人兵……!

 その両者が楓の視界に交互に入り、鮮烈な

フラッシュとなって、その脳裏に瞬いた。

 「私は……」

 楓の瞳が万福丸を捉える。

 「私は…!」

 グッと手の中の忍者刀を握りしめた。

 「この子を…!」

 視界の中に屍人兵が忍び寄ってくる。

 「私はこの子を…!」

 忍者刀を手にしていない左手が、懐の内へ

と入り込んだ。

 「どんなことがあっても、守るっっ!」

 楓が叫び、抜き放った左手から十字手裏剣

が屍人兵に向かって飛んだ!

 

 シュバアアアッッッ!

 走り抜ける白刃に、屍人兵たちのシルエッ

トが次々に二つに分かれる。群れなす魔形の

影が倒れ、血飛沫が煙る。

 川辺に累々と屍人兵の残骸が横たわり、三

途の川のほとりを連想させた。

 「キシャッッ!」

 短く叫んで、残った二体の屍人兵が突っ込

んでくる。刀は上段に構えられ、左右から挟

撃に切り倒す作戦のようだ。

 「無駄だっ!」

 十蔵の体が柳の葉のように揺れ、クルリと

ターンする。手にした白刃の軌跡が、美しい

半月を描くように一閃した。

 ザシャアアッッ…!

 斬りかかった二体の屍人兵が真っ二つにな

り、血の噴水を噴き上げた。

 「地の底へ帰るがいい…」

 と言ったその途端、

 「キシャアアアッッ…!」

 不気味な叫びが響き、地面がボコリボコリ

と盛り上がる。土の中からノソリと腕が這い

出し、陣笠を被ったミイラのような顔が現れ

る。地の底から甦る不気味な死者たち…。

 ……新たな屍人兵たちであった。

 「おいおい…、またか…?」

 突進してくる新手の屍人兵たちを、十蔵の

胴太貫が迎え撃つ。激しく飛び散る火花と血

飛沫の中で屍人兵が倒れ、呪心臓から黒い生

命を噴き上げた。

 「ハァ…ハァ…ハァ…」

 血刀をひっさげた十蔵の周りを累々と埋め

つくす屍人兵の残骸…。さすがに十蔵自身も

肩で荒く息をついていた。

 「ハァ…ハァ…、どうせなら、疲れない身

体に作って欲しかったぜ…」

 思わずボヤく十蔵。十数人にも達する屍人

兵を一人で斃したのだから、その疲労はかな

りのものであると思われた。

 通常、人を一人斬るだけでもかなりの体力

を消耗すると言われている。暴れるのが好き

な将軍や、殉職しても死体を拾ってもらえな

い某同心のようにバッタバッタと相手を斬り

倒すのは、常人では考えられないのだ。

 だが…!

 「キシャアアアッッッ!」

 またもボコリボコリと大地が盛り上がり始

める。ノソリと腕が這い出し、新たな屍人兵

たちが土の中から現れたのである!

 ジリジリと輪を狭めるように十蔵を囲んで

いく屍人兵たち。それは、明らかに十蔵の行

く手を妨げる陣形を取っていた。

 「こいつは…?」

 さすがに十蔵もおかしいと気づく。

 斃しても斃しても現れる屍人兵たちの狂騒

に、「十蔵を仕留める」という目的以上の何

かを感じたのであった。

 「まさか…、楓たちを…!」

 十蔵が叫ぶ。自分を引きつけておく目的が

あるとすれば、それは万福丸に違いない。

 「図られたかっ!」

 目の前に立ちふさがる屍人兵たちを一刀に

斬り捨て、慌てて十蔵は踵を返した。

 「十蔵、逃がしはせぬっ!」

 突然の声と共に、地面が弾けた!

 ビュルルルルルッッッッ!

 地面を突き破って無数に伸びる白い縄が十

蔵の身体へと巻きついた。腕に絡み、足を捕

らえ、胴を締めつけてくる。たちまち、十蔵

は幾重もの白き縄に捕らえられていた。

 「な、何っっ?」

 手に巻きついた縄を見た十蔵が驚く。

 それは縄ではなかった。蛇腹のように刻ま

れた節くれとヌメヌメとした感触…。十蔵の

四肢に絡みついているのは、不気味な蛇のよ

うな虫だったのである。

 「ククク…、妖忍法『地虫縛』。我が分身

の束縛から逃れた者はおらぬ」

 陰々とした声が笑った。

 一般に「根切り虫」とも「線虫」とも言わ

れる地虫だが、地中における生態はよく知ら

れていない。分かっているのは、植物の根や

地中のバクテリアなどを食しているぐらいの

ことである。人間が発生する以前、恐竜が闊

歩していた時代にはすでに存在していたこと

が化石などの研究から判明しており、その頃

には十数メートルに達したものもいたようで

ある。単純な生体構造をしているがゆえに、

ある種の地虫は一定の条件さえ整えば、限り

なく成長するだろうと推察されている。

 果して今、十蔵の身体に絡みついている地

虫は確かに常識では考えられないような長さ

であった。しかも、相手の自由を奪うように

確実に四肢の関節を捕らえている。

 「うぐぐ…、よ、妖忍だな!」

 身体を締め上げる苦痛に耐えながら、十蔵

は地面へ眼を走らせた。

 「拙者は地虫民部。ソルガティさまに影と

してお仕えしておる…」

 声はすれども、姿は見えず。地面から伸び

る不気味な地虫以外には何者も見えない。

 「ソルガティ? あのソルガティか?」

 「呼び捨てとは、聞き捨てならんな…」

 ギリリ…と十蔵を締める力が強まる。

 「うぐぐぐ…!」

 「我らに歯向かう愚か者が…。その首をソ

ルガティさまの前に晒してくれる」

 「何処にいる? 姿を現せっ!」

 「ククク…。実体を見せぬのが、影と生き

る者の神髄と知るがいい…」

 「グッ…、ひ、卑怯者め!」

 「卑怯者とは、心地よい響き。影ならば、

その言葉は褒め言葉というもの…」

 声の内容とは裏腹に、十蔵を締めつける力

がさらに強まる。ギリギリと食い込む地虫に

十蔵の手首に血が滲んだ。

 「ククク…、身動きできまい。これから、

その身体を締め切ってくれる」

 ギリリリリ……!

 締めつける音がさらに大きくなる。

 敵の地虫民部の姿も見えぬまま、十蔵はや

られてしまうと言うのだろうか?

 「お、おのれ…」

 苦悶する十蔵の手から、ポロリと胴太貫が

地面に落ちる。それは垂直に地面に突き立っ

て、あたかも墓標のごとし…。

 「ククク…、いよいよ最期だな。その首を

ひと思いにねじ切ってやろう」

 十蔵の様子に勝利を確信したのか、地虫民

部の声が余裕の笑いを含んだ。それと同時に

今まで感じられなかった気配が地面の一角に

浮かび上がる。心に余裕を抱いた瞬間、民部

の隠行術に乱れが生じたのだ。

 「そこか、地虫民部!」

 十蔵の眼がギラリと光る。その手がゴキリ

と鈍い音がたてた。

 「な、何っっ?」

 地虫民部が驚いたのも無理はない。決して

逃れられないはずの地虫縛から、十蔵が右手

を抜き取ったのである。なんと、十蔵は自ら

の関節を外したのだった。

 「うおおっ!」

 十蔵は右手を地面に叩きつけた。またもゴ

キリという鈍い音がする。しかし、今度のそ

れは関節をはめ戻した音だ。

 そして、地面に突き刺さった胴太貫を握り

しめる。垂直に落としたのは、拾い直すため

の布石だったのだ。

 「おのれ、十蔵。こうなれば、一気に勝負

をつけてくれようぞ!」

 新たに地面から飛び出した触手のような地

虫が十蔵の首に伸びる。

 「それはこっちも同じだ!」

 刀を握った十蔵の手が、視界の中でフワリ

とボヤけた。いや、ブレたように見えた。

 キィィンと刀が不気味に共鳴音を放つ。

 「十蔵、死ねえええっっっ!」

 グネグネとうねり、ビュルルウとしなりな

がら、奇怪な地虫のロープが迫る。

 それが届く寸前、十蔵が叫んだ!

 「神陰流秘奥義、『地雷震』!」

 地面に突き刺さった刀の切っ先から、さざ

波のような波紋が地面を走った。

 ブウウウウウウ……ゥゥゥンンン…!

 地面は液体ではない。だが、確かに固い大

地にゆるやかな波紋が広がっていく。

 「グギャアアアアッッ!」

 この世のものとも思えぬ絶叫が上がった。

 十蔵へと伸びた地虫の群れがピタリと空中

で静止する。そして、急に狂ったようにのた

うち、苦悶に痙攣し始めた…!

 「グエエエエッッッ!」

 辺りに響きわたる苦悶の声。

 と同時に、四肢に絡みついていた地虫が解

けていく。自由を取り戻した十蔵が筋肉をほ

ぐすように、両の肩を揉む。そして、地面に

刺さっていた胴太貫を引き抜いた。

 ズワァァアァァ…ッッッ!

 土煙が上がり、地面に亀裂が走った。

 大地の割れ目から現れる巨大な白い怪物。

 手も足もない…。節くれだった腹とヌメヌ

メと光る胴体…。その先端には、苦悶に歪む

人間の顔が付いている。グネグネと蠢く人間

の顔を持った巨大な地虫……。

 それこそが、妖忍・地虫民部だった。

 「じゅ…、十蔵…、き、貴様っっ?」

 「どうだ? 少しは効いたか?」

 「な…、何を…グボッ…!」

 民部が、ゴボリと血の塊を吐き散らす。こ

れといった外傷がないところを見ると、内臓

をやられているのだろう。

 「き、貴様の刃など…、届いてもいないの

に…、な、何故だ…?」

 「天を震わせ、地を震わせる…。神陰流の

剣は、ただ斬るのみにあらず…!」

 十蔵が冷やかに言い放った。

 神陰流秘奥義、地雷震。

 十蔵の言葉を解釈すれば、それは強力な震

動波を使った破砕の技に違いない。目にも止

まらぬ速さで手首を動かし、刀身そのものを

微細に震動させる。鉄の刃を伝わる共鳴の波

動は次第に増幅し、ついには大地を経て、相

手の肉体を内部から破壊してしまうのだ。人

が大地に足をつけている限り、その破壊波か

ら逃れる術はない…。

 「おのれええっっ!」

 最後の力を振り絞って、地虫民部の巨体が

跳躍する。襲いかかる巨大な白亜の妖虫を迎

え撃つ十蔵の刀が最上段に振り上がった。

 「さらばだ…」

 短い送別の言葉を贈る十蔵。

 バシュッッ!

 振り下ろされた胴太貫は真っ向唐竹割りの

一刀となり、地虫民部の巨体を真っ二つに断

ち割ったのだった…。

 

 十字手裏剣が心臓の位置を貫いた。

 「キシャッ…!」

 短く叫んで、屍人兵が倒れた。微かな痙攣

を残して、その身体が動かなくなる。

 「あと一人…!」

 そう言った楓の息は荒い。すでに八人もの

屍人兵を斃しているのだから、無理もないこ

とではある。しかも、万福丸をかばいながら

の闘いだから、なおさらだった。

 不死と噂される屍人兵の急所が呪心臓であ

ることは、十蔵の話から分かっている。しか

し、闘いの中で心臓のみを狙うのは至難の技

と言えた。ようやく八人を斃したものの、同

時に楓の十字手裏剣もまた尽きていた…。

 「か、楓ぇ…」

 おののく万福丸を背にかばいながら、楓が

最後の屍人兵に刀を構える。

 だが、屍人兵の持つ刀は二尺五寸を数える

大刀であり、対する楓の刀は女性用の短い忍

者刀である。圧倒的に不利は否めない。

 「キシャッ!」

 横殴りに襲う屍人兵の大刀。それを受け止

めた楓の刀が弾き飛ばされる。

 「しまった…!」

 愕然とする楓の目に、屍人兵の振り上げる

大刀の刃が映る。逃げられない!

 楓が万福丸を抱き込むようにかばい、そし

て殺戮の刃に目をつぶった。

 ドシュッッ!

 肉を貫く鈍い音。しかし、痛みはない。

 「……?」

 恐る恐る目を開けた楓の前で、胸から刀の

切っ先を生やした屍人兵が倒れていく。視線

を巡らせると、そこには必殺の一刀を投げつ

けた十蔵の姿があった。

 「十蔵っっ!」

 「間一髪だったな…」

 歓喜に溢れる楓の叫びに、十蔵が答えた。

 「助けに来てくれたのね…」

 近寄ってくる十蔵に、楓が声をかける。

 「お前もよく、万福丸を守ったな…」

 「………」

 「どうした?」

 「問題は…、何のために生きるか…よね」

 「…それが?」

 「この子を守る…。それが私の道…」

 「………」

 「大名の子供だからとか…、御家再興のた

めだとか…。理由なんか、いらない…。この

子を絶対に殺させやしない…!」

 「………」

 十蔵がジッと楓を見つめる。心なしか、そ

の瞳は穏やかだった。

 「私…、間違ってる?」

 「ああ…、忍者としてはな…」

 「そう…」

 楓が哀しそうにうつむく。

 「だが、人としては間違っていない」

 その言葉にハッと楓が顔を上げる。そこに

は十蔵の優しい笑顔があった。

 「…十蔵」

 「……?」

 「あなたの笑顔…、初めて見た…」

 「そうか…?」

 困ったように笑う十蔵。

 それにつられて、楓も笑顔になる。

 クスクスと笑い始める二人を万福丸が不思

議そうに見つめていた。

 優しく三人を照らす月明かり…。

 それは束の間の平和な一時であった…。

 

                                                 つづく