天正妖戦記

  十蔵の剣

 

 第五回 山賊の谷

 

 近江の国、鯰江城。

 城内には無数の篝火が燃え、士気盛んの様

子であった。それを支えているのは、天台宗

の僧兵たちである。日本から仏教を払拭しよ

うとしている織田信長を仏敵と呼び、自分た

ちの権力を守るために集ってきたのだ。

 白い頭巾を被り、僧服には鉄甲や板を張り

つけている。手にした薙刀は、遠き源平争乱

の時代から僧兵の主武器として用いられてき

たものであった。

 城内にひしめく彼らは酒を呑み、城の周辺

から集まってきた信徒たちの中から若い女を

探してきては、色欲の宴を広げていた。

 「ワハハハ…。織田信長など、恐れるにた

らぬ。我等には仏の加護がある!」

 「いかにも! 天に仇なす仏敵には、必ず

や罰が下ろうぞっ!」

 「因果応報、怨敵伏滅! 悪しき第六天魔

王を名乗る者に未来などないわ!」

 「そうじゃ! そうじゃ!」

 僧兵たちは口々にわめき、酒と女の匂いを

プンプンさせながら、気勢を上げている。

 仏敵だの、仏の加護だのと言っているが、

所詮は自分たちの特権と権勢を保とうとする

欲望ゆえの行動である。それがこの国の信仰

を集める寺社の実態であった。

 この鯰江城に籠もる六角義治(ろっかくよ

しはる)はそんな僧兵の力を借りて、織田の

軍勢に対抗しようとしていたのである。

 織田軍の先鋒である柴田勝家の軍勢は、す

でに付近に達している。いつ総攻撃が始まっ

ても、おかしくはなかった。

 「いやに、ハエが多いのう…」

 酒樽や酒壺の回りを飛び交う小さな羽虫を

追い払いながら、一人の僧兵が言う。追い払

っても、追い払っても、小さな羽虫たちは酒

壺の周りに集まり、水面に微かな波紋を起こ

しては、手足をすり合わせるのだった。

 「なに、気にするな。織田の軍勢もハエ同

然、うるさいだけの烏合の衆よ」

 「それもそうじゃな」

 ワハハハハ…と笑う僧兵たち。

 その様子をジッと闇の奥で見つめている目

があった。妖しい色をたたえた瞳孔には、残

忍な光が宿っていた。

 「馬鹿どもめが…。貴様らの命、すでに尽

きていることも知らぬか…」

 誰にも聞こえぬつぶやきが、密かな笑いを

含んで響く。

 「さて…、他の連中の首尾はどうかな?」

 ブウウウンッと羽音を響かせ、闇に潜んで

いた影は夜空に飛び去っていった。

 

 鯰江城・本丸の最上層にあたる一室には、

総大将である六角義治がいた。

 「この気勢ならば、織田の軍勢も恐るるに

足らずじゃな」

 義治は酒を満たした杯を口に運びながら、

満足そうに笑った。

 「左様。それに織田軍は朝倉や浅井と一戦

を終えたばかりで、かなり疲弊しているもの

と思われます」

 「満足に闘えるはずもないと…?」

 「いかにも。それに我らには天台宗の僧兵

や甲賀の地侍も味方しておりまする」

 「我らの勝利は間違いなし…じゃな?」

 「御意…」

 そう応えたのは、鯰江城の城主である鯰江

貞景(なまずえさだかげ)である。

 二人は広く板間をはった一室で酒を酌み交

わし、織田軍に脅威を感じながらも自分たち

に勝利を言い聞かせていたのだった。

 「酒が切れたか…」

 酒徳利を傾けながら、義治がつぶやく。傾

けた徳利から、微かに雫が落ちた。

 「持ってこさせましょう」

 と、鯰江貞景が戸口に控える小姓を振り向

いた。小姓はうつむき加減に座っている。

 「おい、酒を持ってまいれ」

 だが、小姓は動かない。じっとうつむいた

ままの姿勢で、座っている。

 「どうした? 早くせんか!」

 鯰江貞景が怒鳴る。それでも、小姓は動か

なかった。

 「…?」

 義治と顔を見合わせた貞景が立ち上がり、

小姓の傍へと近づく。

 「何をしておるのだ?」

 そう言いながら、小姓の肩に手をかける。

 ゴトンッッ!

 同時に小姓の首が落ちた。

 「うわあああああっっ!」

 鯰江貞景が転げるように尻餅をつく。

 「な、何としたことじゃっっ!」

 さすがに六角義治も立ち上がっていた。

  手にした杯が落ちて、床に砕ける。

 「ククククク…」

 不意に天井から声がして、義治はハッと見

上げる。そこには天井の梁から、逆さまにぶ

ら下がった奇怪な人影があった。

 「く、曲者じゃ! 出会えいっっ!」

 床の間に飾ってあった太刀を手に取りなが

ら、義治が叫ぶ。しかし、すぐに駆けつける

はずの武者たちは現れない。義治の身辺を密

かに守っているはずの甲賀忍者たちも姿を見

せようとはしなかった…。

 「ど、どうしたのじゃ?」

 うろたえる義治に代わり、ようやく起き上

がった貞景が戸口へと駆ける。

 「者ども、出会え! 出会えぇい!」

 声を限りに叫ぶ貞景。鯰江城主として、本

丸にも多くの兵を置いていた筈だった。

 戸口へと駆け寄った貞景がガラリと戸を開

けた途端、バシュッと鈍い音が聞こえた。

 ゴトンッッ…、ゴロン…ゴロン…。

 板間をはずむ重い音。それを響かせつつ、

義治の前に転がってきたのは、驚愕に目を見

開いた鯰江貞景の首だった。

 「ひゃああああっっ!」

 絶叫して、腰を抜かしてしまう義治。

 その醜態を見ながら、戸口から入ってきた

のは両手から血を滴らせた怪人だった。その

両手は巨大な鎌となっており、ギロリと巨大

な目を巡らせる姿はカマキリそのものだ。

 「もはや、誰も生きておらぬわ…」

 カマキリ人間が笑いを含んで、言う。

 その後方にも、山犬のような姿をした怪人

や見たこともない獣の姿があった。

 「クククク…」

 バサバサと翼を広げて、天井の異形が舞い

降りてくる。こちらは明らかにコウモリの姿

をした怪物であった。

 「六角義治どのですな…」

 太刀を手にするものの、抜けてしまった腰

をひきずる義治にコウモリ男が話しかける。

 「…き、貴様ら…?」

 「この城、我ら妖忍衆が貰い受ける…」

 「な…!」

 そう叫びかけた義治の首が宙に舞った。

  血の帯をなびかせながら、首は遠い床の上

に弾み、転がっていった。

 「ククククククク……」

 「ヒヒヒヒヒヒヒ……」

 「ケヒャヒャヒャ……」

 血の匂いに満ちた本丸に、不気味な笑いが

こだまする。城主と総大将を失った城に、も

はや明日という日付はない…。

 眼下に広がる城内にも、死の匂いが満ちて

いる。酒色の宴を繰り広げていた僧兵たちは

全身に青黒い斑点が無数に浮かべ、無残に倒

れていた。誰もがだらしなく涎を垂れ流し、

口許に苦悶の様を刻みつけている。

 地面に転がった杯を這い回っていた小さな

羽虫たちが、死臭にひかれるように僧兵たち

へと飛んでいく。それ以外に動く物はない。

 死をも省みずに徹底抗戦を叫ぶ彼らを失っ

た以上、この城に戦闘を継続する力も意思も

なくなったと言ってよかった…。

 史実に残る記録では、鯰江城は九月四日に

始まった柴田軍の総攻撃に対し、不自然きわ

まりない無抵抗降伏したと伝えられる。

 その数日前までは激しい気勢を上げ、天台

宗僧兵や甲賀の地侍を糾合した一大戦力が少

しの抵抗もせずに降伏したことは、現代でも

歴史のミステリーとして、伝えられている。

 何故、鯰江城は落ちたのか…と。

 歴史に妖忍の影は記されていない。

 だが、連戦に次ぐ連戦を重ねる織田軍団の

電撃的侵攻作戦の陰には、こうした妖忍衆の

暗躍があったことは間違いない。

 誰にも知られず、誰も気づかぬままに…。

 静かに…、だが確実に妖忍たちの影は諸国

を浸食しつつあったのである。

 

 九月の空には、まだ夏の名残がある。

 彼方に見える入道雲からは、微かに遠雷の

響きが伝わってきていた。

 「何処へ向かうんだ?」

 落葉が目立ちはじめた山道を歩みながら、

十蔵が楓に尋ねる。

 小谷城を離れた十蔵、楓、万福丸の三人は

すでに近江六角領に到達していた。妖忍たち

の追撃を振り切ったものの、まだまだ織田の

勢力範囲だけに油断は出来ない。

 「甲賀よ」

 「近江の甲賀郡一帯は、すでに織田の軍勢

に蹂躪されているはずだが…?」

 十蔵が畿内の情勢を思い出しながら言う。

 これまでに観音寺城や箕作城などの諸城は

織田に陥落させられ、いまだに抵抗を続けて

いるのはわずかな拠点でしかない。

 「まあね…。でも、完全に織田の手に落ち

たわけじゃないわ」

 「落ちるのは時間の問題だ。敢えて、敵の

真っ只中に向かうことはなかろう」

 「私が向かうのは、甲賀卍谷よ」

 「卍谷…? 甲賀の隠れ里と言われる…」

 十蔵が不思議そうに首を傾げる。

 「ええ。甲賀忍び発祥の地と言われる卍谷

なら、この子も安全と思うわ」

 「実在していたのか…?」

 「まあね。いくら信長でも、幻の谷と言わ

れた場所までは攻められないはずよ」

 「噂だけのものと思っていたが…」

 「そりゃそうよ。みんなが知ってたら、隠

れ里にならないでしょ?」

 町娘の恰好をした楓がクスリと笑う。伊勢

神宮参詣の途中という感じだ。信長は商業発

展を奨励しているので、勢力範囲では商人姿

の方が無難だからだった。隣にいる万福丸も

商家の子供らしく、装っている。

 妖忍たちの襲撃が途絶えたので、二人にも

少しゆとりが出てきたように見える。

 「あと、どれぐらいかかるんだ?」

 「そうね…。二日ぐらいかしら」

 「なにぃっ? あと二日も、織田の領内を

ウロウロする気なのか?」

 驚く十蔵に、楓はケロッとしたものだ。

 「だから、用心棒を雇ってるんでしょ。私

と弟をしっかり守ってちょうだいね」

 「くっ……!」

 十蔵が苦虫を噛みつぶしたように唸る。ど

うやら、伊勢参詣に向かう商家の姉弟とその

護衛の従者という役回りのようだ。

 (こんな小娘に振り回されるとはな…)

 十蔵が心の中で愚痴る。とは言え、自分の

意思で決めたことであった。

 数日前…。

 必死に屍人兵から万福丸を守り抜いた楓の

姿を見た十蔵は、知らず心を動かされた。

 何よりも、掟とは無関係に万福丸を守ろう

とする楓の心が新鮮だったのである。

 妖忍を殲滅することだけを目的としている

十蔵の旅は「死」しか生み出さない。それは

たまらなく十蔵の心を痛めつけ、苦しい重圧

を与えてきた…。だが、その旅路に少しでも

救いをもたらすものがあるとすれば、この幼

い命を守ることなのかもしれない…。

 同じ妖忍と闘う旅でも、そこには多少なり

とも「人間らしい」目的を見い出せるのでは

ないか…。十蔵はそう考えたのである。

 だからと言って、本心をそのままに楓たち

に明かす十蔵ではない。

 「お前たちと行動を共にすれば、勝手に妖

忍たちの方が集まってくるからな」

 憎まれ口と知りながら、十蔵は同道する理

由をそのように述べたのだった。

 もちろん、楓もその言葉を額面通りに受け

取ったわけではない。だが、あえて真意を問

いただす必要もなかった。

 「じゃあ、十蔵に負い目を感じる必要はな

いわね。お互いさまだもの!」

 心の中で感謝しつつも、楓はあっけらかん

と応えたのだった…。

 こうして出来上がった不自然な組み合わせ

は今、織田が次なる戦場としている甲賀の地

を目指しているのだった…。

 

 六角領である近江南部は、峻厳な山が連な

る要衝の地である。当然、そこに築かれた山

も天然の要害を利用した堅牢なものだ。

 六角義賢(ろっかくよしかた)が籠城して

いる石部(いしべ)城を攻略しようとしてい

る佐久間信盛(さくまのぶもり)の軍勢も、

かなり攻めあぐんでいた。

 「柴田は、すでに鯰江城を落としたと言う

ではないか。我らも遅れてはならん!」

 机の上に広げられた石部城一帯の絵図面を

見ながら、佐久間信盛が怒鳴った。

 「しかし、鯰江城は自落でございます。実

際に柴田殿が攻め落とした訳では…」

 側近武将の一人、佐久間盛政(さくまもり

まさ)が答える。織田軍の中でも猛将として

知られている存在だ。ちなみに「自落」とは

戦わずに無条件降伏することである。

 「どのように落ちたかなど、問題ではない

わ。早々にこの石部城を落とさねば、わしの

面目がたたぬ!」

 「それは承知しておりますが、鯰江と違っ

て、この城はなかなかに手強く…」

 「ごたくはいい。さっさと総攻撃の陣触れ

を出すのじゃ!」

 信盛はそう叫ぶと、手にした軍扇で机を力

一杯に叩いた。焦るのも無理はない。結果が

全てである織田軍において、他の者が戦果を

上げてしまうことは自分の失墜につながる。

 それが織田信長の軍団経営であった。

 ヒステリックになっている信盛を、周りの

武将たちは眉をひそめて見ている。

 副将である佐久間盛政の横に並ぶは永田景

弘(ながたかげひろ)、長原重康(ながはら

しげやす)、進藤賢盛(しんどうかたもり)

といった面々である。永田たち三人は、いず

れも六角氏に仕えていた者たちだ。五年前の

観音寺城攻防戦において、織田へと寝返った

過去を持つ。ゆえにいかに下克上の世とは言

え、かっての主人を討つことに多少なりとも

躊躇いを覚えていた。

 「そうじゃ、盛政!」

 不意に信盛が手を打った。

 「…何でござりましょう?」

 「ちょっと耳を貸せ」

 「……?」

 佐久間盛政が怪訝な顔で近づく。信盛はニ

ヤリと笑うと、声をひそめた。

 「妖忍じゃ。妖忍を城内に潜入させ、敵将

を討ち取ってしまうのじゃ」

 「しかし…、それでは他の武将たちが手柄

を取る機会を失ってしまいまする」

 盛政が慌てる。この時代、敵の首を取るこ

とが唯一、恩賞を得る道だからだ。そのこと

で武将たちは出世し、一国一城の主を目指す

望みを持つことが出来る。

 「そんなことはどうでもよい。柴田の奴も

鯰江の攻略には妖忍を使ったと聞く」

 「それは柴田さまの本意ではなかったよう

で…。かなり憤激しておられ、配下の妖忍た

ちを全て放逐したとも聞きまする」

 「うるさい! ともかく妖忍を放て!」

 「…そのことですが、ソルガティと名乗る

宣教師が参っております」

 「何…? ソルガティが…?」

 信盛の表情が変わる。妖しげな術を操る宣

教師の一人であると記憶していた。

 「いかがいたしましょう?」

 「…うむ。とにかく会ってみよう」

 やや考えて、信盛が答える。

 「では、軍議はあらためてと…?」

 盛政が聞く。無理な城攻めを行いたくない

ので、慎重になっている。猛将と呼ばれてい

ても、無謀さとイコールではない。正確に状

況を見極められてこその武将なのだ。

 「む…、そ、そうじゃな…」

 信盛が渋々ながら承知する。名将が揃う織

田軍団にあって、佐久間信盛の武将能力は圧

倒的に低い。むしろ、副将の盛政の方が武将

としての器を備えていると言えた。

 「おのおの方、軍議は中断いたす。別命あ

るまで、各自の陣にて待機なされよ」

 盛政の言葉に、永田たちが解散する。

 それと入れ代わりに、黒きローブを身に着

けた妖気漂う人物が入ってくる。隻眼の妖神

父と言われたソルガティであった。背後には

美しい紫の着物を纏った女が従っている。だ

が、その顔は布地に隠されていた。

 「お忙しいところ、恐れいりまする…」

 陰々とソルガティが一礼する。

 「ソ…ソルガティ、な、何用じゃ?」

 不気味な雰囲気に気押されながら、信盛が

精一杯に虚勢を張る。

 「手前に妖忍をお貸しいただきたく…」

 「妖忍を?」

 「はい。信長さまの特命にて、ある人物を

追っております。…が、いささか手こずって

おりまして…」

 「わしの妖忍を貸せと…?」

 「はい。そこに控えております四人を連れ

て参りたいと思っております」

 「なにっっ?」

 ハッと振り向く信盛と盛政。彼らの背後に

はいつしか四つの黒い影があった。

 「い、いつの間に…」

 盛政の声が上擦る。無理もない。さっきま

で、いや、今の今まで気配もなかったのだ。

 まさに恐るべきは、妖忍…!

 「そこの四人…。いずれも私が手塩にかけ

た妖忍にて、ぜひお返しいただきたい」

 「そ、それは困る。こちらもこれより、石

部の城を落とすのに必要なのじゃ」

 「そこを曲げて、お願い申し上げる…」

 「いや、ならぬ。石部城を落とせずに信長

さまに叱責を受けるは我らじゃ…!」

 佐久間信盛が慌てて首を振る。四人と言え

ば、佐久間が抱える妖忍全てである。それを

取られては、城攻めにも使えない。

 「我らとて、信長さまの命で動いておりま

する。重ねてお願い申し上げる…」

 「ならんと言ったら、ならん!」

 「どうあっても、お聞きいただけぬと?」

 ソルガティの隻眼が異様な光を帯びる。

 「くどい…!」

 「いたしかたありませんな…」

 ソルガティの眼が紅く染まった。染まった

だけではない、それは紅の光を帯びて、不気

味に輝きはじめたのである。

 「な、何を…?」

 そう言いかけた信盛の声がかすれた。その

目がトロンと寝ぼけたように濁る。横にいる

佐久間盛政も同様であった。

 「お聞き入れくださいますな…?」

 朦朧とした脳裏に、ソルガティの声だけが

はっきりと聞こえた。

 「わかった…」

 茫洋と答える信盛。と同時に、ソルガティ

の眼から輝きが消えていった。

 「では、四人を貰い受けまする」

 そう言うと、ソルガティと女は一礼を残し

て、本陣を去っていった。

 「………」

 まだ夢幻の中から抜けきらぬ様子で、信盛

と盛政が自分の背後を振り返る。

 そこに妖忍たちの姿はなかった…。

 

 山道は狭隘な谷間に続いていた。道の両側

は険しい崖であり、ゴツゴツとした岩肌を見

せている。

 「おい…、この道でいいのか?」

 十蔵が周囲を見回しながら、尋ねる。どう

見ても、まともな道ではない。

 「大丈夫、任せてよ」

 先頭を進む楓が答える。

 「…ここはどう見ても街道じゃないぞ」

 「そりゃそうよ。山を回り込む間道を進ん

でるんだもの」

 「何で、そんなところを…?」

 「織田の軍勢がひしめいているところを通

りたいの? ここなら見つからないわ」

 楓が呆れたように言う。

 「それはそうだが…」

 十蔵は納得しかけて、ハタと気づく。

 「おい…。だったら、こんな商人を装う意

味がないじゃないか?」

 「……そうとも言うわね」

 「おい…! ちょっと待て!」

 「男が細かいことを気にしないの!」

 かまわず、楓はズンズンと歩いていってし

まう。なんかペテンにかけられたような気分

になって、十蔵はムウ…と顔をしかめた。

 どうも、ついつい楓のペ−スに乗せられて

しまう十蔵であった。

 楓の言葉はもっともながら、道はさらに狭

くなり、崖は垂直に近くなっていく。

 「おい…」

 十蔵がもう一度、呼びかけた。

 「何なのよ、一体?」

 楓が振り返る。

 「こんな所で襲われたら、ひとたまりもな

いんじゃないか?」

 「……?」

 楓が周囲を見回す。

 「狭い山間の道、左右を塞ぐ断崖…。昔か

ら待ち伏せには恰好の場所と思うがな…」

 「………」

 そう言われれば、見事に地形は条件を満た

している。かって三国志において、諸葛亮孔

明なる軍師が十万の大軍を寡兵で破ったのも

このような地形だったと聞く。

 「な、何言ってるのよ。こ、こんな山道で

誰が待ち伏せるって、言うのよ!」

 楓が強がるように言った途端、その足元に

ザクッと矢が突き立った!

 「キャッ!」

 悲鳴を上げて、楓が飛びすさる。

 「ほら、言った通りじゃないか」

 「な、何なのよ! これ?」

 「矢だ。見て、分からないのか?」

 「分かってるわよ、馬鹿っっ! 落ちつい

ている場合じゃないでしょっっ!」

 十蔵に怒鳴り返す楓の耳にまたも風を切る

矢羽根の音が聞こえる。

 「あぶないっ!」

 咄嗟に万福丸を抱えるように逃れる楓。そ

の後を追うように、さらに二本、三本と矢が

地面に突き刺さっていく。

 「十蔵っっ!」

 万福丸を抱いた楓が叫んだ。

 「…ったく、世話のやける…!」

 太刀を抜き放った十蔵が駆け寄り、次々に

飛来する矢を切り落とす。

 だが、それで終わりのわけがない。

 ザアアアアッッ!

 谷間に降り注ぐ矢の雨。雨垂れの代わりに

鏃が輝き、雨音の代わりに風を切る唸りが谷

間に響きわたる。

 ビシッ! ビシッ! ビシッ!

 バシッ! バシッ! バシッ!

 右に、左に、胴太貫の刃が閃くたびに矢が

真っ二つになり、足元に散らばる。

 「……!」

 矢の雨を見事に防ぎながら、十蔵の目が断

崖上の敵を捉える。人数は十数人といったと

ころであろうか、一列に並んでいた。

 その中央にいる男と目が合う。他の連中が

野武士然としているのに対し、男はキチンと

した甲冑を身に着けていた。

 「………」

 「………」

 矢を切り払いながら、十蔵はその男から目

をそらさずにいる。男もまた、ジッと十蔵の

眼差しを受け止めていた。そして…。

 「者共、やめいっっ!」

 谷間に声が響いた。

 途端にピタリと射撃が止まる。かなり訓練

された連中のようだった。

 「………」

 背後に楓と万福丸を庇うように、十蔵が刀

を構える。その動きに無駄も隙もない。

 「見事な腕だ…。その方たち、どうやら織

田の間者ではなさそうだな…」

 矢止めの指示を出した中央の男が列から進

み出るようにして呼びかけてきた。

 「だったら、何なんだ?」

 十蔵が問い返す。

 「命を取るまでもない。おとなしく投降す

れば、悪いようにはせぬ…」

 「いきなり弓矢を射かけておきながら、悪

いようにはしないだと…?」

 十蔵が皮肉めいた苦笑を漏らす。

 「お主たちの命は、我らが握っている。そ

れをこちらから譲歩しているのだぞ?」

 「有り難い話だな。断れば…?」

 十蔵が言うと同時に、指揮官が手を振り上

げた。ザッと配下が一斉に弓矢を構える。

 手が降り下ろされれば、矢の雨が降り注ぐ

ことになる。しかも一斉射撃だけに、その全

てを切り落とすのは不可能だ。

 「…わかった」

 十蔵はチンと刀を鞘に収めた。

 「ちょ、ちょっと本気なの?」

 慌てたのは楓である。織田のの妖忍や屍人

兵を振り切っておきながら、こんな山賊風情

に捕らわれる訳にはいかなかった。

 「もちろん、本気だ」

 「じょ、冗談じゃないわ。何とか血路を切

り開けば、逃げられるわよ!」

 「…そいつは、無理な相談だな」

 「無理でも、やるのよ!」

 「こんな所で死にたいのか?」

 「そ、それは…」

 見上げる楓の目に、無数の鏃の光が映る。

 「…わかったわよ」

 仕方なく、楓も刀を下ろす。十蔵の正しさ

を認めない訳にはいかない。

 「さあ、どうするのっ?」

 楓が崖上の男に向かって叫びながら、忍者

刀をパチンと鞘に収める。同時に、谷の両側

から野武士風の男たちがバラバラと現れ、十

蔵たち三人を取り囲む。

 「殊勝なり…。では、我らに同道していた

だこうか」

 そう言って、指揮官はニヤリと笑った。

 

 十蔵たちが連れて行かれたのは、彼らが根

城としている山塞であった。

 曲がりくねった険しい山道の要所要所には

張出型の砦が築かれ、弓矢や槍を構えた野武

士たちが警戒を行っている。その頭上には、

落石計(らくせきけい)や落木計(らくぼく

けい)のために仕掛けられた岩や丸太が見え

た。道を囲む藪には警戒用の鳴子(なるこ)

や、痺れ薬を塗った針を吊るした蚊幕(かま

く)なども張られているようだ。

 いずれの配置も理にかなっており、山賊の

アジトと言うよりは、堅牢堅固な山城を思わ

せる。この山塞を築いた者は、かなりの軍事

的手腕を有していると思われた。

 「ただの山賊じゃなさそうだな…」

 辺りを見回しながら、十蔵がつぶやく。

 「そう? ただの食い詰め者たちが、野武

士になってるだけじゃないの?」

 「単なる野武士にしては、統率がとれ過ぎ

ている。こいつらを束ねているのは、かなり

デキるヤツに違いない…」

 「そうかなぁ…?」

 楓はまだ半信半疑のようである。

 この時代、主家を滅ぼされた者や戦場から

脱走した者たちが増えていた。新たな大名や

武将に再仕官できた者はともかく、多くは野

武士や山賊となり、各地に跳梁していたので

ある。彼らは農村や街道を旅する人たちを襲

撃しては、金品や食料、若い女などの強奪を

繰り返していた。

 恐らく、そうした野盗の類であろうと楓が

考えたのも無理はなかった。

 「こっちだ…!」

 谷での襲撃隊を指揮していた男が、かなり

立派な建物の方へと案内する。板と丸太を組

み合わせた荒い造りだが、山城のしっかりと

した本丸を思わせるような建物だった。

 「お頭! ただいま戻りました」

 そう言って、指揮官は建物の中へと入って

いく。十蔵や楓たちも手下にこづかれるよう

にして、中へと連れていかれる。

 中は二十畳ぐらいの板間になっており、そ

こには身なりの立派な武将然とした三人の男

たちが待っていた。特に中央に座ってる初老

の男は眼光鋭く、ただ者ではない。

 「下郎、頭が高いっっ!」

 赤尾が小さく叫び、十蔵たちの頭を床板へ

とこすりつけるように押さえる。

 「赤尾どの…、ご苦労であった」

 威厳ある声で初老の男が言う。

 「はっ。谷で怪しいヤツラを引っ捕らえま

したので、連れてまいりました」

 赤尾がキビキビとした口調で答える。

 「織田の間者かっ?」

 左隣に座る男が顔色を変えた。ヒョロとし

た顔だちは官僚的な雰囲気だ。

 「いや、月ヶ瀬(つきがせ)どの。どうや

ら、織田の間者ではなさそうです」

 「そ、そうか…」

 ホッとしたように月ヶ瀬が腰を戻す。オド

オドした様子は、かなりの小心者らしい。

 一方で十蔵は疑問を抱いていた。

 (赤尾に、月ヶ瀬だと…?)

 心の中で、男たちの呼ばれている名前を反

芻しつつ、記憶と照合していく。

 赤尾と言えば、浅井家で勇将と知られた赤

尾清綱(あかおきよつな)が思い浮かぶ。だ

が、彼は小谷落城の際に織田に捕らえられ、

斬首されたはずである。一方の月ヶ瀬という

名も、月ヶ瀬忠清(つきがせただきよ)とい

う浅井家臣がいる。こちらもすでに討ち死に

を遂げているはずであった。それに二人とも

年齢がかなり若すぎる。

 (どういうことだ…?)

 屍人兵か…とも考えたが、二人からはそん

な気配は感じられない。

 「では、何者なのだ?」

 上座の初老の男が問いかける。

 「商家の者だと申しておりますが、どうも

腑に落ちぬ部分が多すぎます」

 「ほう…?」

 「はっ、特にこの男です。剣の腕が並々な

らぬゆえに素性を問いただしましたが…」

 「答えぬのか…?」

 「はっ。ひどく強情なヤツです」

 そう答えて、赤尾は十蔵を睨む。

 「この谷に素性の知れない者を入れる訳に

はいかぬ。すぐに斬ってしまえ!」

 右隣の神経質そうな男が甲高く叫んだ。

 「まあ、猪飼野(いかいの)どの…」

 初老の男が片手で制する。

 「し、しかし…」

 「そう急ぐこともあるまい」

 「はぁ…」

 猪飼野と呼ばれた神経質そうな男は渋々と

いった表情でうなずき、座りなおす。

 「見れば、子供も一緒ではないか。ともか

く、三人とも顔をよく見せよ」

 声に促されるように、十蔵たちが顔を上げ

る。楓と万福丸は恐る恐るといった感じだ。

 「ふむ…。男はまだしも、残る二人はまだ

子供ではないか…」

 目を細めるようにして、初老の男が楓と万

福丸の顔を順にながめていく。その眼差しが

万福丸の所でピタリと止まった。

 十蔵と楓がハッと顔を見合わせる。

 「む……?」

 ふと考え込んだような仕種の後、その目が

驚愕に彩られ、カッと見開いた。

 「ま…、まさか…?」

 ワナワナと震えだす初老の男。

 「海北(かいほう)どの?」

 月ヶ瀬がビックリしたように言う。だが、

そんな言葉は耳に入らぬかのように、海北と

呼ばれた初老の男は万福丸を見つめる。

 「いかがなされたっっ?」

 今度は赤尾の方が尋ねる。

 「こ、この子は…、いや、この方は…」

 「海北どの?」

 「ま、万福丸さま…」

 ようやく海北の口から、言葉が漏れる。

 「…!」

 いきなり言い当てられて、楓と十蔵の間に

緊張が走った。すでに十蔵の胴太貫も楓の忍

者刀も取り上げられているが、何としても万

福丸を守らねばならないという無言の会話が

瞬時に交わされた。十蔵の目が背後の手下が

持つ刀を捉え、動作に移る準備に入る。

 だが、他の者は「それどころではない」と

いった様子だった。

 「な、何ですとっっ?」

 「な…、何と申されました…?」

 赤尾、月ヶ瀬などが一様に声を高め、チョ

コンと座っている万福丸を見る。

 「し、信じられぬ…。だ、だが、この御方

は確かに万福丸さまじゃ…!」

 海北があわてて上座を降りて、万福丸の前

へと駆け寄っていった。

 「…!」

 その動きに十蔵が動きかける。…が、海北

は万福丸に対し、いきなり平伏した。

 「知らなかったとは言え、ご無礼をいたし

ました。私は浅井家家臣にて、海北綱親(か

いほうつなちか)でござりまする!」

 「海北綱親っっ?」

 今度は十蔵たちが驚く番だった。

 海北綱親と言えば、浅井家の軍事面を支え

てきた名軍師である。先の合戦では、織田の

羽柴秀吉を撃破。戦上手の秀吉に「我が兵法

の師である」とまで言わせたほどの軍略と能

力を有した名将だ。事実、この海北綱親が近

江の大大名である浅井を守り抜いてきたのだ

と言っても、過言ではない。

 「馬鹿な…、彼は小谷で…」

 楓がつぶやくのも当然だ。

 名将・海北綱親は小谷城攻防戦の最中に討

ち死にしたはずだからである。

 「そう、死ぬはずだった…。だが、死ねな

かったのだ」

 海北はそう答え、襟元をはだけた。胸に血

を滲ませた白いサラシが巻かれていた。

 「落城寸前、重傷を負った私は他の者たち

に城外へと連れだされた。おめおめと家臣だ

けが生き延びるなど…、不忠の極み…」

 そう言って、海北は落涙した。浅井家と共

に生きてきた彼にとって、生き延びてしまっ

たことが罪だった。何しろ、主君である浅井

長政は自害を遂げているのだから…。

 見れば、赤尾や月ヶ瀬といった面々もハラ

ハラと涙をこぼしている。

 「しかし…、こうして万福丸さまと対面で

きるとは。今はただ、嬉しい限りです」

 今一度、海北は万福丸に平伏した。

 「万福丸さま。拙者は赤尾清隆(あかおき

よたか)と申し、死んだ清綱とは遠縁に当た

る者にござりまする」

 「拙者は月ヶ瀬忠長(つきがせただなが)

でございまする。万福丸さまの御尊顔を拝謁

できたこと、まこと光栄の極み…」

 彼は討ち死にした月ヶ瀬忠清の甥に当たる

人物であった。感涙にむせぶ二人とも、小谷

落城時には別の場所を守っていたために生き

延びてしまった組であった。

 「………」

 いきなり、山賊と思っていた連中が浅井残

党だと知らされた楓は複雑な表情で十蔵と顔

を見合わせてしまう。どうしたものかと反応

に困るのは、十蔵も同じだった。

 しかし、彼らはそんなことはお構いなしに

狂喜乱舞している。手下たちが万福丸の存在

を伝えたがために、本営の周りには多くの兵

たちが集まり、喚声を上げていた。槍を振り

上げ、刀を振りかざし、口々に万福丸を讃え

る言葉を叫んでいる。まさにお祭騒ぎと言う

べき状況であった。

 そんな中で、状況の呑み込めない万福丸だ

けがキョトンとした表情だった。

 「万福丸さま…。ここには、浅井に忠誠を

誓いし者どもが集まっておりまする」

 海北が山塞を見渡すように言う。

 「おめおめと生き残ってしまった我らに残

された道は、亡き主君の仇を討つことだけだ

と思っておりました…」

 「なればこそ、このような山奥に身を隠し

ていたのです。例え、山賊になろうとも、織

田に一矢を報いんがために…」

 言葉を継いだ赤尾が唇を噛みしめる。

 「しかし、万福丸さまが御無事となれば、

御家再興の悲願が叶いまする!」

 「その通りじゃ!」

 月ヶ瀬の言葉に赤尾がうなずく。

 「万福丸さま。なにとぞ、我らの当主とな

ってくださいませ!」

 海北綱親が詰め寄るようにして、万福丸に

語りかける。

 「ちょ、ちょっと!」

 楓が口を挟もうとするが、すでに海北の耳

には届いていないようだ。

 「万福丸さま。共に、近江の守護たる浅井

家を再興させましょうぞっ!」

 その迫力に気押されたように、万福丸は微

かにコクンとうなずくような動きを見せてし

まった。当然、万福丸自身は何も考えていな

い上での行動である。

 だが、それがもたらしたものは、浅井残党

たちの強烈な感動と興奮だった。

 「万福丸さまっ! 我ら家臣、一命を賭し

て、忠勤に励みまするっっ!」

 海北、赤尾、月ヶ瀬の三人が一斉に頭を床

にこすりつけた。もう一人の猪飼野だけは複

雑な表情で、その様子を見ている。

 「オオオーッ!」

 中の様子が伝わったのか、外でも大きく歓

声が上がった。盛んに歓呼を繰り返す。

 「万福丸さま、万歳!」

 「万歳ーっっ! 万歳ーっっ!」

 声は鯨波となり、まるで山全体を揺るがさ

んばかりに轟いている。

 「十蔵…」

 楓が十蔵を見る。どうしたものか、と判断

を仰いでいるような目だった。

 彼らもまた、万福丸を御家再興の切り札と

してしか見ていない。それは、かっての楓の

考えと同じだった。と共に、あらためたはず

の考えでもあった。

 「………」

 十蔵は黙って、首を振った。

 楓と同じように、彼らを説得するのは不可

能に近い。それに、わずかな希望にすがろう

としている男たちの思いを即座に破壊してし

まうことを十蔵は躊躇ったのだった。

 「…万福丸さま」

 楓は万福丸を見る。いまだに自分の立場を

わかっていない万福丸は、やはりキョトンと

しているだけであった。

            つづく