天正妖戦記

  十蔵の剣

 

 第六回 紅き魔星

 

 天正元年。

 この天正という年号が使われるようになっ

たのは、一五七三年の七月からである。

 故に一五七三年という年は、それまで使わ

れていた「元亀」という年号と、新たな「天

正」という年号の時代を併せ持っている。

 一般に織田信長の覇王伝説を述べるに当た

り、天正という時代を欠くことはできない。

 それだけ、この年は信長の人生における大

きな意味を持っていたのだった。

 着実に領地を広げつつあった織田に対抗す

るために、時の室町幕府将軍である「足利義

昭(あしかがよしあき)」が反信長勢力を糾

合した包囲網…。その包囲網を完全撃破した

のが、この一五七三年だったのである。

 戦国最強と言われた「武田信玄(たけだし

んげん)」は、前年に三方ヶ原合戦で徳川と

織田連合軍を撃破。一気に織田本領へと迫ろ

うとしていた。だが、一五七三年四月に信玄

がその途上で病没してしまう。

 一方、信玄上洛に呼応するように蜂起した

足利義昭は宇治の槇島(まきしま)城に兵を

集めていた。だが、武田軍撤退を受けた信長

は大軍を差し向けて、足利義昭を撃破。ここ

に室町幕府は、ついに滅亡した…。それは信

長包囲網そのものの中核を破壊したことでも

あり、敵対勢力の一掃へとつながっていく。

 信長は室町幕府を滅亡させると、すぐに年

号を「元亀」から「天正」に改元した。それ

は信長が覇王への野望を明らかにした証拠で

もあり、決意の現れでもあった。

 実際に天正時代に入ってからは、越前の朝

倉と近江の浅井を相次いで攻略。その中で朝

倉義景(あさくらよしかげ)、かっての美濃

国主である斉藤龍興(さいとうたつおき)や

浅井長政(あさいながまさ)といった反信長

武将をことごとく討ち取り、その覇権を着実

なものとしつつあった。

 しかし、覇王たる信長に対し、なおも執拗

に抵抗を続ける者たちもいる。伊勢長島を拠

点とする一向一揆や本願寺勢力はその最右翼

となるが、滅ぼされた各大名の残党もまた復

讐の機会を虎視眈々と狙っていた…。

 

 人里離れた近江の山岳地帯…。

 希代の名将と言われた海北綱親(かいほう

つなちか)を始めとする浅井の残党が潜伏し

ている山塞は賑やかな声に包まれていた。

 万福丸の無事を確認したことによって、盛

大な酒宴が開かれていたのである。

 「これで、浅井の家も安泰じゃ!」

 「おおよ。万福丸さまを総大将に、織田の

奴らを叩きつぶしてくれるわ」

 「亡き主君、長政さまも泉下で喜んでおら

れることじゃろうて…」

 口々に喜びを表しながら、兵も武将も酔い

つぶれている。それほどに万福丸の存在は、

彼らの希望となったのだった。

 その万福丸は海北綱親の横に並ばされ、山

アケビなどの果物を口に運んでいる。

 「万福丸さま、これはいかがです?」

 「うん、美味しい!」

 「それは重畳。甘菓子もありますぞ」

 「ムグ…あ…ありがとっ!」

 口いっぱいに頬張り、モゴモゴと答える。

 久々に美味い食べ物を口に出来たことで、

大喜びしているようだ。

 「楓どのも、さあ!」

 「は、はぁ…」

 万福丸の横に寄り添う楓が複雑な表情をし

ているのは、無骨な男たちの接待に閉口して

いるだけではない。当主に担ぎ上げようとし

ている海北綱親たちの思惑に賛同しかねてい

るからであろう。かっては同じ気持ちであっ

たとは言え、今の楓は違う。だが、今後の安

全という意味を考えれば、浅井旧臣が守って

いる山塞に落ちつくのも一つの道ではないか

と迷っていたのである。

 そして、十蔵は彼らとは離れた位置で酒を

チビチビと口に運んでいた。

 「十蔵どの、飲んでおられるか?」

 かなり酩酊した状態で、赤尾が酒を運んで

くる。十蔵は黙って、杯を受けた。

 「万福丸さまを守っていただいたこと、ま

ことにかたじけない。知らぬとは言え、谷で

の無礼はお許しくだされよ」

 「気になさるな…」

 十蔵は短く答え、杯をクイと傾ける。

 「さ、もう一献…!」

 新たに杯に酒を注ぐ赤尾の後ろで一人の男

が出ていくのを十蔵の目が捉える。確か、猪

飼野(いかいの)とか呼ばれていた神経質そ

うな顔をした武将だった。

 「赤尾どの、あの方は?」

 「うん? ああ、猪飼野昇貞(いかいのの

ぶさだ)どのだ」

 赤尾がツイと後ろを見て、そう答える。

 「もしや…、六角どのに仕えていた?」

 「そうだ。その猪飼野どのだ」

 「彼は織田に寝返ったはずでは?」

 十蔵が記憶をたぐりながら、言った。

 猪飼野昇貞は、六角氏に仕えていた武将の

一人である。だが、一五七一年の志賀攻防戦

で織田に寝返ったはずだった。

 「いかにも…。だが、織田の横暴に耐えら

れず、また我らに戻ってきたとのことだ」

 「…そんなことを信じたのか?」

 「フ…、ここだけの話だが。彼が配属され

た坂井政尚(さかいまさひさ)を我らが討ち

取ってしまったからだろうな」

 「確か、近江の陣でござったな…」

 「おおよ。大した軍功も上げられずに空し

く主将を死なせ、織田の中に居場所を失った

というのが本音だろうな」

 そう言って、赤尾が皮肉に笑う。所詮は裏

切り者という思いがあるようだ。

 「なるほど…」

 十蔵はそう答えると、立ち上がった。

 「どこへ行かれる?」

 「何、ちょっと厠にな…」

 「おお、では御案内しよう」

 「いや、結構でござる」

 そう答えて、十蔵は酒宴の席を出ていく。

 だが、その手には何故か胴太貫がしっかり

と握られていた。

 「十蔵…?」

 十蔵が出ていくのに、楓が気づく。

 そして、もう一人…。

 万福丸を挟んだ位置で海北綱親の目も十蔵

の動きを捉えていた。多くの戦場を踏んだ老

練な武将の表情は酒杯を重ねても、溢れる鋭

気を保ったままである。

 「………」

 杯に注がれた酒を口にしつつ、名軍師と呼

ばれた男の目がギラリと光を放った…。

 

 幾分冷たくなった夜風が、夏から秋への季

節の移り変わりを物語っている。

 ザクザクと土を踏みしめ、猪飼野昇貞は山

塞の外れへと向かっていた。

 普段なら見張りが立っている場所も、酒宴

に出払っているために誰もいない。かなり無

防備と言えるが、皆がそれだけ万福丸のこと

を喜んでいる証拠でもあった。

 誰もいないと分かっていても、猪飼野は辺

りを慎重に伺っている。まるで、自分の行動

を誰にも悟られたくないかのように。

 やがて、外れの崖っぷちに到達した所で猪

飼野がしゃがみこむ。何やらゴソゴソと手を

動かしているのが分かる。そして…。

 ビシュウウウウウ…ンンッッッ!

 花火のような音と共に、一条の炎が天空に

立ち昇った。長く尾を引く炎は、天空で深紅

に輝く星と華開いたのだった。

 「フフ…、これでよい」

 それは、まさに紅き魔星とも言うべきもの

であった。四方に禍々しい輝きを放ち、忌む

べき何かを呼び寄せる狼煙のようだった。

 「まさか、十蔵が現れるとは…。やや予定

が狂うが、それも仕方あるまい」

 猪飼野がフッと笑いを漏らす。

 「何の予定が狂うんだ…?」

 「な…!」

 不意に声をかけられ、猪飼野がビックリし

た様子で振り向く。

 そこに立っていたのは、十蔵だった。

 「じゅ…十蔵! …どの」

 猪飼野の狼狽ぶりは、見るのも哀れなほど

であった。必死に表情を取り繕っている。

 十蔵がゆっくりと歩み寄る。それは自然に

退路を絶つ形となっていた。

 「猪飼野どのは、面白い趣味をお持ちのよ

うだ。酒宴を離れ、こんな所で花火遊びに興

じておられるとはな…」

 「な、何でもござらぬ…」

 「何でもござらぬ…と? では、あれはい

かなる意味でござろう?」

 十蔵が頭上を指さす。

 天空に座す紅き魔星はなおもその輝きを失

わず、四方を血色に染め上げていた。これで

は、申し開きようがない。

 「き、貴殿には関係ないことだっ!」

 「そうもいかん…。誰への合図だったのか

を明らかにしてもらわねばな…」

 「無礼なっ! 私は猪飼野昇貞。六角家の

家臣にして、浅井の客将ぞ!」

 「同時に、織田に尻尾を振った裏切り者で

もござりまするな…」

 スラリと十蔵が胴太貫を抜く。照り返す白

刃の輝きに、猪飼野の顔が歪んだ。

 「じゅ、十蔵、気でも違ったのかっ?」

 「いたって、正気だが…」

 「か、刀を向けるな!」

 「あれは、忍びが使う赤星の狼煙。いい加

減にその正体を現したら、どうだ?」

 猪飼野の鼻先に白刃が突きつけられる。

 「正体だと…? 何を言っている?」

 「往生際の悪いことよ…」

 十蔵は刀を中段に構え直す。が、ピタリと

刃先は猪飼野を捉え、微動だにしない。

 「や、やめろ…。やめんか、十蔵っ!」

 激しく動揺を見せる猪飼野。だが、その目

の奥に殺意の輝きが宿ったことを、十蔵は見

逃しはしなかった。

 「見苦しいっっ!」

 十蔵が一気に刀を振り下ろす。

 ガキィッッ!

 鈍い音がし、その刀身は黒光りする鉄棒に

受け止められていた。恐らくは着物の内に隠

しておいたに違いない。だが、その行動は彼

の疑惑を立証したことにもなった。

 「うぬぅ…。これまでか…」

 鉄棒で十蔵の攻撃を防いだ猪飼野が歯をギ

リギリと噛みながら、悔しそうに言う。

 「ようやく、観念したか…!」

 ニヤリと笑い、十蔵が噛み合った刀に力を

込めていく。グイグイと刃は鉄棒を押し戻し

て、猪飼野の顔へと近づいていく。

 途端、ギラリと猪飼野の眼が光った。

 「エロイムエッサイム、エロイムエッサイ

ム…。甦れ、内なる魔獣の魂よ…!」

 口から流れる妖忍化身の呪文。その言葉を

身にまとって、猪飼野の姿が変化する。

 「やはり…、妖忍かっ!」

 「ブホオオッッ!」

 鼻息すさまじく、鉄棒が十蔵の刃を一気に

押し戻す。そのパワーは、逞しい十蔵の体躯

を軽々と跳ね飛ばしてしまった。

 「うおっ!」

 ヒラリと身を翻し、美しい飛燕の妙技で地

上へと降り立った十蔵。その目が異形の怪物

の姿を捉える。

 細かい毛に覆われた細長い顔は、醜く突き

出した鼻が特徴的だ。口許には短い牙がのぞ

き、白く泡立つ涎に濡れている。まさに猪そ

のものの頭を持った奇怪な怪人だった。

 「ブフォッ。私を化身に追い込んだからに

は、貴様の血で贖ってもらうぞ!」

 「猪飼野に化けていたのが、猪だったとは

面白い冗談だ。本当の猪飼野どのを殺し、す

り代わったのか?」

 十蔵の言葉に、猪飼野が皮肉に笑う。

 「ブフフフ…、私は正真正銘の猪飼野昇貞

よ。信長さまへの忠誠を示すためには、敢え

て化け物になることも辞さぬわい…」

 「六角家にその名を知られながらも、そこ

まで堕ちたか…。猪飼野どの…」

 「浅井の残党に入り込み、ゆっくりと内か

ら滅ぼしてやろうと思うたが…。かくなる上

は、一気に滅ぼすのも仕方あるまい」

 「卑怯な…。それでも武将か?」

 「強い者になびくのも、戦国の掟よ。すで

に滅び去った浅井、これから滅び去る六角に

加担する方が愚かなのだ」

 「義をわきまえず、目先の利欲に走るとは

所詮、小物の器か…」

 「ほざくなっっ!」

 猪の怪物と化した猪飼野昇貞が十蔵へと突

進する。鉄棒を握り、土煙を上げ、勇猛果敢

に突進する様は駆逐戦車のようだ。

 ギャキキィィィンッッ!

 火花が散り、空気が震える。強烈な破壊力

を持つ猪の突進をまともに受け止めるほど、

十蔵も馬鹿ではない。鉄棒と刃が噛み合った

瞬間に刀身を横滑りさせ、まるで闘牛士のよ

うに猪飼野の猛撃を受け流したのだった。

 しかし、意外にも猪飼野はそのままの体勢

で動きを転じる。

 「しまった!」

 彼の突進は攻撃のためではなく、逃げるた

めの布石だったのだ。

 道を空ける形になってしまった十蔵の横を

すり抜け、猪飼野が哄笑を放つ。

 「まだまだ若いな、十蔵っ!」

 「逃げるか、卑怯者っ!」

 追おうとするも、すでに彼我の距離はそれ

を許さないほどに広がっていた。

 恐るべきは、猪の脚力である。

 「ブフフフ…、次に会う時は浅井の残党も

ろとも、根絶やしにしてやる」

 そのように猪飼野が笑った時、フッと行く

手を人影が塞いだ。

 「な、何っっ?」

 猪は急に止まれない。という標語があるか

どうかは知らない。しかし、「猪突猛進」の

言葉通りに猪飼野はブレーキのきかない暴走

トラックのように突っ込んでいく。

 「わ! わ! わ!」

 慌てる猪飼野は、目前の人影がスラリと刀

を抜くのを見た。

 

 その頃、薄暮に染まる山中を疾駆する影が

あった。妖神父ソルガティが佐久間信盛のと

ころから連れ出した妖忍衆の一人だ。

 「赤星が上がるとは、一体…?」

 風のように木々を走り抜けていく妖忍の横

に、フッと別の影が現れる。

 「おおっ、甚内(じんない)ではないか」

 「水蟷螂(みずかまきり)よ。お主も赤星

に気づいたようじゃな」

 後から現れた甚内なる妖忍は、水蟷螂と同

じスピードで走りながら言った。

 「うむ。赤星は、我ら妖忍が仲間を集める

時に用いる合図だ」

 「この方面で活動しているのは、我らだけ

のはずじゃが…?」

 甚内が首を傾げる。

 六角を攻略するのは、佐久間信盛の軍勢の

役目である。他の諸将は別行動中だ。

 すでに柴田勝家(しばたかついえ)は鯰江

城から伊勢方面へ転進し、丹羽長秀(にわな

がひで)は若狭に向かっている。出世頭の羽

柴秀吉(はしばひでよし)は浅井滅亡後の近

江の差配に奔走していた。彼には、近江を地

盤にしようという思惑があるようだ。

 そして、信長自身が直卒する精鋭部隊は伊

勢長島一向一揆を掃討するために長蛇の列を

組んで、伊勢路を南下中であった。

 妖忍衆たちは各軍団で暗殺や煽動、攪乱な

どの破壊工作に従事しており、それぞれの方

面で行動しているはずであった。

 「誰かはわからぬ。だが、あの赤星は十蔵

や浅井の小僧に関係あると思わぬか?」

 と、水蟷螂は冷たい微笑を刻んだ。

 「なるほど…。ならば、ソルガティどのが

我らを散開させたのは失敗じゃったな」

 「なに、それほどの誤差はあるまい。あの

赤星を見れば、他の者たちも追っつけ集まっ

てくるだろうさ」

 どうやら、ソルガティは手下の妖忍を散ら

したらしかった。本来、兵力の分散は邪道だ

が、一人で百人の兵に勝ると言われる妖忍な

らではの指示なのだろう。

 事実、ここにいる二人の妖忍の顔に焦りは

少しも見えない。

 「なるほど…。しかしな…」

 「何だ?」

 甚内の言葉に、水蟷螂が興味深げに問う。

 「我らの手で十蔵の首を取ってしまうのも

一興と思わんか?」

 そう答えて、甚内は殺意に歪んだ不気味な

笑いを浮かべた。

 「うむ、面白いな」

 と、水蟷螂もうなずく。

 これまでに多くの仲間を失っているだけに

十蔵への怨みは大きいはずだ。しかし、甚内

も水蟷螂も、表情に憎悪はない。むしろ、楽

しんでいるような雰囲気であった。

 「十蔵という奴、一度は手合わせしたいと

思うていたところじゃ」

 「我らの妖忍法にどこまで耐えうることが

できるか、楽しみというものよ…」

 仲間を斃された憎しみよりも、仲間を斃し

た強い敵と闘うことに喜びを見いだす。その

妄念とも言うべき、殺戮の飢えに縛られた存

在こそが「妖忍衆」なのかもしれない。

 「ククククク……」

 「フフフフフ……」

 不敵な笑い声だけを残し、二つの影は木々

の彼方へと消えていく。

 その行く手の空には、紅き魔星が不気味に

輝いていた…。

 

 ズバアアッッ! と白刃が閃いた。

 猪飼野の胸板がバッと血を噴く。一閃した

刀が袈裟懸けに斬り裂いたのだ。

 「か、海北っっ?」

 自分を斬った男を見て、猪飼野が驚く。

 なんと! 彼に一撃を浴びせたのは、酒宴

の席にいるはずの海北綱親だったのだ。

 「猪飼野どの…、裏切り者は所詮、裏切り

者でしかないようだな」

 血刀を握りしめた海北がギラリと睨む。

 「ぬうう…、貴様、どうして…」

 「軍師とは、あらゆる仮定を考えておくも

の。一度心変わりした者が、二度といたさぬ

という保証はない…」

 「最初から、疑っていたというのか…。味

方である…、この私を…!」

 「それも軍師の務めだ」

 「おのれぇ…、ブフフォオッ!」

 怒りに震える猪飼野が高々と鉄棒を振りか

ざし、海北を睨みつけた。それに合わせるよ

うに海北も即座に刀を下段に構え直す。

 降り下ろす破壊の鉄槌に、振り上げる斬撃

の鋭峰で抗しようと言うのである。

 「海北どのっっ! 心臓だっっ!」

 たまらず、十蔵が叫んだ。

 限りなく不死身に近い肉体を持つ妖忍衆に

対し、有効な攻撃はその黒き生命の源である

呪心臓を突き破ることだけである。それを知

らなければ、与えた一刀は敵のダメージにな

らず、返される一撃が己の致命傷となること

は間違いない。

 「うむっ!」

 十蔵の警告に海北がうなずき、腕を反す。

 振り上げるはずの刀身は「突き」の構えへ

と変化し、猪飼野の胸板を鋭く貫いた。

 「グギャアアアアッッ!」

 最初に浴びせられた一刀が猪飼野の動きを

鈍らせていたのだろう。成す術もなく、その

呪心臓を破られた猪飼野は絶叫と血潮を振り

まきながら、ゆっくりと倒れていった。

 「海北どの、大丈夫か?」

 駆け寄った十蔵に微かにうなずき、海北は

フウと息を吐いた。そして、倒れた猪飼野を

静かに見下ろす。まだ息があるらしく、猪飼

野はピクピクと動いていた。

 「介錯が欲しいか…?」

 海北が尋ねる。死に臨んだ武将にかける言

葉として、礼を尽くしたのだ。

 「ググ…、こ、こんな所で…し、死ぬ訳に

はいかぬ…。せ、戦功を上げ…、一国一城の

だ、大名になるの…だ…」

 猪飼野が未練を漏らす。なおも栄光に執着

する妄念が哀れだった。

 「最期に臨みながらも、野望に身を焦がす

か…。やはり、戦国武将よな…」

 そうつぶやき、海北が介錯の一刀を猪飼野

へと突き刺す。微かな痙攣が刀身を通じ、柄

を握る海北の手に伝わり、そして消えた。

 猪飼野の身体が白い煙に包まれるように溶

けていく…。それは野望を燃やす戦国武将た

ちの多くが辿る末路のようにも見えた。

 「十蔵どの…」

 「何か?」

 「これが、妖忍でござるか?」

 白い粘塊と化した猪飼野の残骸を見下ろし

ながら、海北は尋ねた。実際に妖忍という存

在の実態を見たのは初めてだったのだ。

 「いかにも。伴天連妖術によって生み出さ

れた悪鬼どもでござる」

 「伴天連妖術…と?」

 「詳しいことは分かりませぬが、信長が庇

護しているオルガンティーノなる伴天連が持

ち込んだ西洋の邪法にござります」

 「それが、このように人を造り変えてしま

うと言うのか?」

 「伝え聞くところによれば、体力と資質に

優れた者に動植物を掛け合わせるそうです」

 「混血ということか?」

 「いえ…、もっと生き物の根源的な資質そ

のものを造り変えてしまうようなものだと聞

いておりまする」

 「馬鹿な…、信じられぬ…!」

 海北が困惑したように首を振った。

 容易に信じられる内容ではなかった。まし

てや、科学が十分に発達していない時代のこ

とである。例え、遺伝子操作のような最新技

術が存在していたとしても、科学は妖術とし

か理解されない。この時代の最先端技術はい

まだに魔術や妖術の類であり、それが医学に

受け継がれ、科学や機械技術にその座を受け

渡していくまでには、これからなお数百年の

月日が必要であった。

 「信じられぬのは、それがしとて同じ。で

すが、戦いに臨んで、目の前にある現実を見

ないわけにはいきませぬ」

 「…その通りだな。目を背けて、生き残れ

る訳がない。現実と向き合う者だけが、戦い

に生き残れるのだから…」

 「仰る通りです。さすがは軍師に名高い海

北どの、戦いの本質を見抜いておられる」

 傲慢ではなく、十蔵は海北を讃えた。

 情報を持たない無知こそが人に恐れを抱か

せ、迷わせ、破滅へと歩ませる。それはいつ

の時代も変わることのない戦場の掟だ。

 「だが、十蔵。奴らを確実に斃す方法はあ

るのか? 先程は心臓を狙えと言ったが?」

 「ええ。外道の術を施された呪心臓こそが

奴らの急所でござる」

 「呪心臓…?」

 聞き慣れない言葉に海北が顔をしかめる。

 「詳しいことは分かりませぬ。少なくとも

屍人兵を甦らせているのは、その呪心臓の働

きによるものと思われます」

 「ならば、屍人兵も無敵ではないと…?」

 海北の言葉に苦渋の響きが感じられた。

 彼の脳裏には、燃える小谷城を蹂躪する屍

人兵の足音が聞こえているに違いない。その

足音は耳を離れず、後悔を抱く彼を苦しめ続

けてきたのだろう。

 「ええ。このことが広く知られれば、少し

は織田の蹂躪を食い止めることにもなるので

しょうが…」

 と、十蔵は目を伏せる。海北の気持ちを分

からないわけではない。

 人間とは、「あの時、あれがわかっていれ

ば」と過去を振り返る生き物である。海北の

心に「十蔵が屍人兵の弱点を教えてくれてい

れば」という思いが起こっても、それは仕方

のないことであろう。だが…。

 「小谷のことは気遣い無用じゃ…。過ぎた

ことを悔やんでも始まらぬ」

 と、海北は寂しげに笑ったのだった。

 「………」

 十蔵は言葉を返さなかった。

 当時の十蔵に伝える意思はなかったし、伝

えたとしても、それを信じる意思は浅井家に

はなかったであろう。

 落城寸前のピリピリとした緊迫した状況の

中では、織田が情報攪乱のために送りこんで

きた間者として、逆に抹殺されるのがオチで

あろう。そのことは海北自身も容易に想像で

きたに違いない。

 「しかし…、鉄砲だけでなく、そのような

邪法まで生み出すとは…。南蛮人とは、つく

づく戦に努力を惜しまぬ人種らしいな」

 海北が話題をそらすようにつぶやく。

 「それを喜んで利用する日本人も、あまり

人のことは言えませんな」

 「もっともだ…」

 そう言って、海北がプッと吹き出す。

 合わせるように十蔵が笑い、いつしか二人

は大声で笑い合っていた。

 「それはそれとして…」

 ひとしきり笑ったところで、海北は真顔に

戻り、やや険しい表情で空を見上げた。

 「あの赤い星を上げられてしまったからに

は、この山塞の存在は知られてしまったと考

えていいだろうな」

 「確かに…。伊勢に軍勢を動かしている織

田が転進するとは思えませぬが、何かしらの

手を打ってくるでしょう」

 「一部の兵を割くか、別の妖忍どもを送り

こんでくるか…」

 「いずれにせよ、想像以上の苦難が待ち受

けているに相違ござらん」

 「万福丸さまを迎えて、これからという時

に難儀なことだ…」

 と、深いため息を漏らす海北。

 「そうですな…」

 十蔵は敢えて曖昧に答えた。万福丸を当主

に擁して、海北ら浅井残党が決起しようとす

る気持ちは分かる。だが、分別もつかない幼

い子供を戦に巻き込むことには、どうしても

喜べなかったのである。

 「よし…、酒宴が一区切りついたら、わし

から皆に戦の準備をするように言おう」

 「ならば、私も力を貸しましょう」

 「かたじけない。十蔵どのが加われば、鬼

に金棒でござる」

 海北は頭を深々と下げると、山塞の方へと

歩きだした。

 「ところで…」

 ふと行きかけて、海北が振り向く。

 「何でしょう?」

 「十蔵どの…。貴殿もまた、人間ではござ

りませぬな」

 「!」

 さりげなく放たれた言葉に十蔵がハッとす

る。二人の間の空気がピンと凍りついた。

 「……」

 無言で対峙する名軍師と孤高の剣士…。

 とんでもない一言だが、海北は真剣な表情

である。とても冗談を言ったようには見えな

い。そして、それを受けた十蔵の表情もまた

険しいものに変わっていた。

 「海北どの…、何を一体…」

 「誤魔化さずとも、わしには分かっており

まする。貴殿の気配はあの妖忍どもと同じよ

うに、普通の人間のものではない」

 「ハハハ…、何を言われるかと思えば。こ

のような時に戯れ言など…」

 「戯れ言のつもりはない。このような時だ

からこそ、口にしたまで」

 「海北どの…」

 「敵を知りたいと思う以上に、味方を知る

ということは大切じゃ」

 「………」

 十蔵の顔がさらに険しくなる。どう答えて

いいのかを思案しているようにも見えた。

 それを見て、海北がフッと笑う。

 「心配なさるな…。誰も貴殿を敵とは.思

うておりませぬ。ただ、これからの戦を前に

確認しておきたかっただけじゃ」

 「確認して、どうなさる?」

 「別に何も…」

 「海北どの…?」

 十蔵が怪訝に目を細める。

 「ハハハ…、貴殿の澄んだ瞳は信じられる

と思うたまで。これでも、この海北綱親は名

軍師と呼ばれた男。多少なりとも、人を見る

目は持っているつもりにござる」

 「………」

 「差し支えなければ、教えていただきたい

と思う。強制はしないが、話すことでより理

解しあえると思うのだが…?」

 海北の問い掛けに、十蔵は顔を逸らした。

 うつむき加減に悩む姿に、十蔵の苦悩のよ

うなものが滲み出ていた。

 本当に十蔵は人間ではないのだろうか?

 人間でないとは、どういうことなのか?

 普通の会話とは思えない滑稽さと不気味さ

が一つになって、不思議な雰囲気を二人の間

に作りだしている。

 しかし、冗談と笑い飛ばせないような緊張

感が、そこには漂っていた。

 「十蔵どの…」

 促すように、もう一度海北が呼びかける。

 十蔵はようやく顔を上げ、ゆっくりとうな

ずくのだった…。

 

 いつしか、月が出ていた。その蒼茫とした

輝きを見上げ、楓はフウと息をついた。

 「困ったものね…」

 そう呟くと、楓は障子を閉めた。

 部屋の中を振り返ると、すでに万福丸は静

かな寝息をたてていた。久々に布団で眠れた

せいか、その寝付きも早かった。美味い食事

にお腹をふくらませたせいもあるだろう。

 「困ったなぁ…」

 もう一度、楓がつぶやく。忍者の耳でなく

とも、広間の方から響く賑やかな声は聞こえ

ていた。いまだに酒宴は続き、赤尾たちは騒

いでいる様子だった。

 さすがに万福丸が疲れたようだったので、

屋敷内に部屋をあてがってもらい、ようやく

酒宴を抜け出してきたのだった。

 『これで、浅井の家も安泰じゃ』

 『万福丸さまを盛り立て、織田の息の根を

とめてくれようぞ』

 『我ら一命を賭して、万福丸さまに御奉公

たてまつりまする』

 赤尾や月ヶ瀬をはじめとする浅井残党たち

の言葉が、楓の脳裏から離れない。これが本

当に正しいことなのか、それとも間違ってい

るのか。…楓には答えが出せない。

 分かっているのは、万福丸を戦乱の犠牲に

してはならないということだけだ。

 「十蔵はどこ行っちゃったのよ!」

 しょうがないから、十蔵に不満をぶつけて

しまう。酒宴の途中で姿が見えなくなり、そ

のまま戻ってくる様子はない。しかも、浅井

残党の中で一番しっかりしている海北綱親ま

でもがいなくなってしまった。おかげで酒宴

はエスカレートの一途を辿り、ついに乱痴気

騒ぎと化してしまっていたのだ。

 そんな中に取り残された楓の不満も、『ご

もっとも』と言えるかもしれない。

 「誰っっ?」

 不意に気配を感じて、楓が叫んだ。

 廊下につながる襖がスッと開き、三〇前ぐ

らいの女性が平伏するのが見えた。

 「お休みのところ、失礼いたします」

 「あなたは?」

 「お二人のお世話を仰せつかまつりました

妙(たえ)と申します」

 そう言って、妙は顔を上げた。優しそうな

感じのする女性である。

 「それは、どうも…。大きな声を出してし

まって、ゴメンなさい」

 「いえ。そうやって、万福丸さまをお守り

してきたのですね。有り難うございます」

 と、妙は深々と頭を下げる。

 「ま、まぁ…」

 ちょっと照れくさくなって、楓は頭をポリ

ポリとかいた。

 「万福丸さまは、もうお休みに?」

 「ええ。ちょっと疲れたみたいで…」

 「湯殿の支度が整いましたので、お使いに

なられてはと言いに来たのですが…」

 「ええと…。でも、起こすのも可哀相だか

ら、明日の朝でもいいかしら?」

 万福丸の寝顔を見て、楓が答える。

 「わかりました。では、楓さまだけでもお

使いになられませんか?」

 「私…?」

 楓の顔がちょっと明るくなる。小谷城から

逃げ出して以来、お風呂に入りたかったこと

は間違いない。

 「旅の疲れもございましょう。ゆっくりと

お湯につかるのもいかが?」

 「う〜ん。でも、万福丸さまのそばを離れ

るわけにはいきませんし…」

 「ここは安全ですわ。万福丸さまをお慕い

している者ばかりですし、こんな辺鄙な所で

は織田も気づかないでしょう」

 「そうかしら…」

 楓の気持ちがちょっと揺らぐ。

 やはり女の子だけに、旅の汚れが気になっ

ていた。今更ながらに自分が臭いかもしれな

いと鼻を鳴らしてしまう。

 「私が万福丸さまについていますわ。楓さ

まはゆっくりなさってください」

 「大丈夫かしら?」

 「こう見えても、私は武将の妻です。少し

ぐらいの武芸は身につけていますわ」

 「妻?」

 「夫の赤尾清隆が迷惑をかけましたね。少

し酒が入り過ぎたようですわ」

 「赤尾さまの…。し、知らずに大変失礼い

たしました!」

 「いいのよ。武将の妻なんて、腰元みたい

なものなんだから」

 慌てる楓を見て、妙がコロコロと笑う。そ

の屈託のない笑顔も魅力的であった。

 楓はいつしか、妙という人物に好感を抱き

はじめていた。どことなく人に安堵を与える

ような雰囲気があった。

 「どう? 少しは気を休めては?」

 「そうですね…でも…」

 「気が張り詰めたままでは、いざという時

に万福丸さまを守れなくなるわよ。気を抜く

ことも、生き残るコツよ」

 妙がそっと楓の肩に手を添える。

 「ありがとうございます…」

 伝わる温かい温もりを感じながら、楓はコ

クリとうなずいたのだった。

 

 山塞へ通じる山道の途中には、いくつもの

関所を兼ねた砦がある。そこには警備の兵士

たちが在番し、山塞へ侵入しようとする者に

目を光らせている。

 東側の砦にも、兵士たちがつめていた。

 「まことにめでたいのぉ」

 「ほんに、万福丸さまが生きておられたと

は喜ばしいかぎりじゃ」

 「うむうむ…。酒もまた格別じゃい」

 警備をしている5〜6人の兵士たちが酒を

呑みながら、歓談にふけっている。警備の目

を休めるわけにはいかないが、祝いの日だけ

に酒が運び込まれていた。

 「う〜む、よい気分じゃ」

 すでに床には徳利がゴロゴロと転がり、兵

士たちの顔もかなり赤らんでいた。山塞の酒

宴には及ばないまでも、兵士たちはかなり盛

り上がっているようだ。

 その小屋の外。窓から漏れる明かりの影に

紛れるようにして、妖しい気配が忍び寄りつ

つあった。黒くわだかまるような影は音もた

てずに窓辺に進み、中を伺っている。

 「ケケケケケ……」

 誰にも聞こえない声で影が笑った。降り乱

れる髪が不気味だった。

 「ゆけ…、かわいい子供たちよ…」

 そう呟き、髪をゆする。その髪からフケの

ような粉末がパラパラとこぼれた。その粉は

意思を持った何かのごとく、兵士たちのいる

部屋の中へと侵入していった。

 そして、数十秒…。部屋に異変のようなも

のが起こりはじめていた。

 「な、何かに刺されたぞ?」

 一人の不審そうな声が上がった。

 「かゆいな、何かいるのか?」

 もう一人の怪訝な声が応える。

 「グワッ! た、助けてくれ!」

 「ヒイイッ! か、かゆいっっ!」

 たちまちパニックが起こった。酒の酔いは

一瞬にして吹っ飛び、男たちは全身を掻きむ

しりながら、床を転げ回る。

 「ケケケケケ…」

 男たちが苦しみ出すのを見ると同時に、影

も部屋の中へ入っていく。

 「な、何だ? 貴様はっっ!」

 気づいた兵士の一人が刀を握ろうとし、腕

を貫く疼痛にポロリと落としてしまう。

 「ケケケケケ…」

 振り乱した髪もすさまじく、影は部屋の中

央に進んでいく。しかし、兵士たちは止める

ことも出来ずにのたうっている。

 「貴様っ、何者だっ!」

 「妖忍…」

 簡潔にして、明瞭な答えだ。

 「な、何だとっっ?」

 「エロイムエッサイム、エロイムエッサイ

ム。甦れ、内なる魔獣の魂よ…」

 不気味な呪文の詠唱と共に、侵入者の姿が

変化していく。いや、変身だった。やがて、

そこには人間ではない怪物の姿が現れる。

 ズングリとした体格の不気味な姿に、警備

の兵士たちが息を呑むのが伝わってくる。

 「ば、化け物じゃっっ!」

 「ヒイイッ、斬れ! 斬るんじゃっ!」

 そう叫ぶものの、兵士たちは全身を襲う痒

みに苦しめられ、まともに刀を握ることすら

出来ない状態にあった。すさまじい痒みに掻

きむしる爪は自らの皮膚を破り、血を滲ませ

ながらも、なおも掻き続ける。

 「ケケケケ…、痒いか、苦しいか?」

 苦しみを揶揄するような笑いが漏れた。相

手が苦しむのを、心底楽しむ声だった。

 「グワアアアア…!」

 「ギャアアアッッ!」

 兵士たちが次々に悶絶していく。その顔は

苦悶に歪み、妙に青白い。血色そのものを失

ったかのようだった。

 「ケケケ…、お腹一杯になったかい?」

 そう呟く怪人のもとに、粉のような何かが

集まってくる。先程の部屋に侵入した時より

は、明らかに大きくなっている。しかも、そ

の色が赤みを増しているようだった。

 怪人の体に戻っていく小さな粉末たち。そ

れと同時に怪人の体も赤らんでいく。粉末た

ちが持ちかえったモノを吸収したのだ。

 「ケケケ…、やはり血は美味いの…」

 そう笑った怪人の姿は、蚤そのものだ。

 人間と等身大の巨大な蚤が笑っている…。

 「赤星に馳せ参じたのは、この蚤髑髏(の

みどくろ)が最初みたいだな。では、たっぷ

りと血を味合わせてもらおうか…」

 ピョンと跳びながら、蚤髑髏が笑う。

 その背に浮かんだ紋様は虚ろな眼窩を開い

た髑髏のように見えた。名は態を表すと言う

ものだが、まさにこの妖忍はネーミングその

ものの奇怪な怪物であった。

 ピョーン! ピョーン!

 蚤髑髏は小屋を離れ、暗い山道を次の砦へ

と向かっていく。さらなる血を求めて…。

 

 一方、南側でも異変が起こっていた。

 こちらにも同じように兵士たちが詰めてい

る砦があった。南の砦は東側よりも真面目な

人間が揃っていたらしく、それほど羽目を外

してはいなかった。

 ここを異形の怪人が襲ったのは、東側の砦

が襲撃されたのと同時刻だった。

 「あ、あれは!」

 砦に通じる山道に目を配っていた一人が近

づいてくる異形に気づいたのだった。

 それは最初から人の姿をしていなかった。

 二本の角のようなものが頭から突き出てい

た。それはU字型に湾曲し、ギザギザな面を

内側に反り返っている。固い甲殻に包まれた

頭部には黒いビー玉のような眼がある。

 まさに昆虫のノコギリクワガタと呼ぶに相

応しい怪人であった。

 「何者だっ?」

 「俺の名は鍬形源心(くわがたげんしん)

と言う。紅き魔星に導かれ、この地に死と災

いをもたらしに参った!」

 堂々とした名乗りである。その言葉は相応

の自信に裏付けられたものなのだろう。

 そして、兵士たちは鍬形源心の言葉によっ

て、初めて自分たちの頭上に輝く紅き魔星の

存在に気づいたのだった。

 「おのれ、化け物めっ!」

 「浅井の兵をなめるなっ!」

 血気にはやる幾人かが槍や刀を手に鍬形源

心に突っ込んでいく。突撃の雄叫びと踏みな

らす足音が暗い山間に響いた。

 「愚か者どもめが…」

 鍬形源心が槍を手にする。いや、槍のよう

で槍ではない。江戸時代の捕り方が使うよう

なサスマタのような武器だ。鋭い穂先の代わ

りに、彼の頭部と同じような二本の角に似た

突起が装着されている。それは双角槍(そう

かくそう)と呼ばれる武器だった。

 「とあああっっ!」

 槍を突き出した浅井兵が突っ込む。

 だが、それよりも早く繰り出された鍬形源

心の双角槍が兵士の腹部を貫いた。

 「おのれっ!」

 味方を貫いた双角槍が使えなくなった一瞬

を狙って、もう一人が刀を振りかざす。

 「甘いわっ!」

 鍬形源心が頭を突き出す。彼の頭部そのも

のが武器であった。刀を振りかぶった兵士を

貫き、そのまま後方にはじき飛ばす。

 よくカブト虫とクワガタ虫がクヌギの樹液

を吸うポジション争いをするシーンがテレビ

などで放映される。互いの角を組み合わせた

両者は基本的に力比べとなるのだが、決め手

となる必殺技は相手をそのまま持ち上げ、後

方に投げ飛ばしてしまうことである。普通は

体の大きいカブト虫にクワガタ虫が放り投げ

られてしまうのだが、それを無念に思わぬク

ワガタ虫ではない。その証拠に体の大きなノ

コギリクワガタなどは、小型のカブト虫を同

じ方法で投げ飛ばしてしまうことがある。

 まさに鍬形源心はクワガタ虫の無念を晴ら

すがごとく、その必殺技を人間に対してやっ

てのけたのであった!

 「さあ、かかってくるがいい!」

 昆虫界を代表する一方の雄に相応しく、鍬

形源心は浅井兵たちを堂々と誘う。

 「くそおおっ!」

 残った浅井兵たちが突っ込んでいく。

 キィィン!

 振り下ろした刀が鍬形源心の肌で弾き返さ

れる。固い音が響いた。

 「な…?」

 「弱すぎる。そのような振りでは、俺の体

に掠り傷もつけられぬわ」

 そう言うが、角で兵を貫いてしまう。

 「グワアアアッ!」

 同時に斬りかかっていた別の兵士を双角槍

が貫き、背中に槍先が突き出る。

 「弱い、弱い、弱いぃぃぃ! 俺と渡り合

えるような男はおらんのかぁぁぁ!」

 鍬形源心が叫ぶ。妖忍にしては、どうやら

正々堂々とした武人の心を持った男のようで

ある。己の技と腕、それに自慢と誇りを抱い

ているようなフシがあった。

 「だ、駄目じゃあっ!」

 「た、助けてくれえっ!」

 抗せぬと判断した浅井兵たちが我先にと逃

げはじめる。賢明と言えるだろうが、それを

許す鍬形源心ではなかった。

 「逃げるか、腰抜けどもがっ!」

 怒りに震える双角槍が躍った。

 「ギャアアアアッッ!」

 「ひいいいいい!」

 悲鳴と絶叫が次々と聞こえ、浅井兵たちは

血に染まり、投げ飛ばされていく。

 南砦もこうして落とされたのだった…。

 

 もちろん、甚内や水蟷螂も山塞を目指して

いる。誰もが「自分こそが十蔵たちの首を取

る」という功名心と野望に燃えていた。

 協調性よりも独善性、連帯感よりも自尊心

こそが妖忍にとって、何よりも大切なもので

あった。己の技で敵を斃すことだけに全てを

賭けているのである。

 天空に輝く紅き魔星はソルガティの放った

妖忍たちを導き、浅井残党が立てこもる山塞

を同じような紅き血色に染めるべく、禍々し

い光を四方に放ち続けていた…。

 

                          つづく