天正妖戦記

  十蔵の剣

 

  第七回 迫り来る危機

 

 ポチャーン…と、遠くで水音が聞こえた。

 それ以外に音はない。妙にゆっくりと聞こ

える音であった。この世界の時間そのものが

遅く流れているような気がする。

 「………」

 楓が音のした方を見る。その視界は白い湯

気に霞み、何も見えはしなかった。

 「ま、いいか…」

 思わず、そんな言葉が口をつく。

 全身を包むお湯の温かい感覚と心地よい浮

遊感がそう思わせているのかもしれない。

 楓が身をゆだねているのは、大きな岩風呂

であった。茶褐色のゴツゴツした岩を白濁し

た湯水がチャプチャプと洗い、隙間を囲む白

い檜からは芳醇な木の香りが立ちのぼってい

た。豪華なだけではない。一度に多くの人間

が入っても、十分に体を伸ばせる広さだ。

 だが、今は楓一人であった。妙(たえ)が

気をきかせてくれたのだろうか、他には人が

入ってこないようになっている。

 「気持ちいい…」

 楓が大きく手を広げる。湯船に白い裸身が

ユラユラと揺れた。楓は着痩せするタイプら

しく、意外なほどに成熟した肢体だった。ほ

どよく盛り上がった乳房は若さゆえか、美し

く形を保っている。忍者として鍛えられた身

体に余分な脂肪はなく、スラリと引き締まっ

た感じだった。だが、丸みを帯びた辺りが少

女の面影を留めている。

 「フウ…」

 深く息をついて、ゆっくりと首を回す。

 華奢な首筋を水滴が玉となって伝い、ピン

と弾けた。肌に張りがある証拠だ。

 幸せだった。先日まで、血なまぐさい戦場

を駆け抜けてきたことを忘れてしまいそうに

なる幸福感だった。屍人兵に囲まれたことも

妖忍たちに襲われたことも、全てがかりそめ

の出来事だったかのように思える。

 だが、楓の白い裸身に見える幾つもの痣や

傷は現実のものだ。打ち身の痣はもちろんの

こと、刀傷や手裏剣が刺さった傷なども見え

る。若すぎる肢体に似つかわしくない傷痕が

楓が過ごしてきた歳月を物語っていた。

 ふと自分の裸に目を戻した時、否応なく現

実が見える。だからなのかもしれない…。

 楓は静かに目を閉じ、全身を包む温かい感

覚にまどろむのだった。

 山塞をここに建設することに決めた理由に

は、この温泉があったからだと聞く。元々は

浅井家の「隠し湯」の一つであり、傷ついた

一部の武将だけが利用できる場所だったそう

である。それがいつしか、浅井家残党の最後

の拠り所となっているのだった。

 そも「隠し湯」とは、戦国時代に多く設え

られた療養施設のようなものである。国の財

政基盤となる金山開発の途上で発見された温

泉が密かに隠され、大名同士の密会に使われ

たり、側室との逢い引きなどに利用されたり

してきた。最も「隠し湯」を好んだのは、甲

斐の武田信玄である。彼の「隠し湯」は今も

甲州路の温泉場として、多くの人々に憩いを

与えている。

 「………」

 心地よい湯船に身を遊ばせながら、楓はボ

ンヤリと夜空を見上げた。満天の星が宝石を

散りばめたように輝いていた。

 この時代は、まだ星を楽しめるだけの闇を

残している。数百年後に、星空の瞬きが人工

の光にかき消されてしまうなどとは、誰もが

予想だにしなかったであろう…。

 人は闇を恐れるあまり、文明という名の光

で地上を埋めていった。結果として、星空は

人類に美しき光を投げかけなくなった。ある

意味では、自然と離れていく人類そのものを

見放してしまったのかもしれない…。

 だが、星を楽しむことよりも、人は自分た

ちを脅かし続けてきた闇が駆逐される方を望

んだのであった。闇を恐れるが故に…。

 「あれは…?」

 星空を眺めていた楓の視線が、天の一角で

止まった。

 明らかに他の星とは違う輝きが、その部分

にはあった。禍々しい紅い光を四方に投げか

けながら、不気味な星が輝いている…。

 「紅い星…? いや、あれは赤星…!」

 反射的に楓は湯船から身を起こしていた。

 白い裸身を湯水が流れ落ち、湯気に煙る水

面は無数の波紋を広げた。

 「まさか…!」

 楓が短く叫ぶ。忍者が互いの連絡に用いる

赤星の合図は聞いたことがあった。特殊な薬

品と火薬に微妙な配合を施し、信じられない

時間を滞空させ得る赤星の存在を…!

 赤星の意味…。それは山塞の存在を四方に

知らしめるものであり、新たな魔の手を招き

寄せるものに他ならない。誰かが、この山塞

の場所を伝えようとしているに違いない。

 「万福丸さまっっ!」

 ザバッと湯船から楓が飛び出す。軽やかに

躍る肢体から、水滴が舞った…!

 

 「おい、起きろっ!」

 眠りこけている兵士の身体が、激しく揺さ

ぶられた。

 「にゃんだよぉ〜」

 起こされた兵士はまだ惚けているのか、不

満げな様子で応える。酒の匂いをプンプンさ

せているところを見ると、随分と酒杯を重ね

たようだ。

 「もう酒宴は終わりだ」

 「わかってるよぉ、もう呑めねえって…」

 フラフラと首をふる兵士。

 「馬鹿者っ! シャキッとせんかっ!」

 「…にゃ…? …こ、これは海北さま、失

礼いたしましたっっ!」

 相手が浅井家軍師の海北綱親(かいほうつ

なちか)であることに気づいた兵士が、弾か

れたように姿勢を正す。

 「皆を起こせ。緊急事態じゃ」

 「は…?」

 「さっさとせいっ!」

 「わ、わかりましたっっ!」

 慌てて、他の眠りこけている者たちへと兵

士が駆けていく。その途中で酒瓶を踏んづけ

てしまい、思いっきり転んでしまう。

 「何をやっておるのか…」

 ヨロヨロと起き上がり、兵士は仲間を起こ

しにかかっている。それを見ながら、海北は

フッとため息をつかずにはいられない。

 猪飼野との戦いを終えた海北と十蔵は山塞

本拠と戻ってきた。酒宴で酔いつぶれている

兵士たちを起こしながらである。盛大に開か

れた酒宴の状況から、戦時体制を直ぐに整え

るのは、さすがに難しい気がする。

 しかし、やるしかないのである…。

 「間に合うだろうか…」

 バタバタと急ぎ足で木造りの廊下を進みな

がら、海北はポツリと漏らす。

 「間に合わせるしかないでしょう」

 後ろをついていく十蔵が応えた。

 「そうだな…。もしもの時に備え、十分に

手当てをしてきたつもりだが…」

 「ここに来た時、備えに関しては感服いた

しました。敵を深く誘い込み、また一方で入

り込めぬように守りを固める造り…。さすが

は名軍師の海北どのにござる」

 「この山塞が縦深防御の構えを成している

ことに気づいていたのか?」

 「多少なりと…。山そのものを城郭に見立

てているのでございましょう?」

 「さすがは十蔵どの…」

 海北が感嘆の声を漏らすのを聞いて、何と

なく照れくさくなる十蔵だった。

 「では、一つ尋ねるが…」

 海北がピタリと足を止め、振り返る。

 「何でございましょう?」

 「守りきれると思うか…?」

 十蔵に問うておきたい肝心の部分だった。

 「…普通の軍勢ならば、そう易々と入って

はこれぬと思います」

 「普通の軍勢か…。では、妖忍衆なら?」

 「………」

 十蔵は答えない。が、それが答えだった。

 「………」

 海北もそれ以上は追求せず、再び廊下を歩

みはじめる。

 猪飼野昇貞を斃したものの、すでに合図の

赤星を上げられてしまっている。それを見た

織田が何らかの行動を起こすことは、疑いよ

うもなかった。あとは、いかにして、その魔

の手から万福丸を守りきるかである。

 「海北さまっ!」

 兵士の一人が駆け寄ってきた。最初の段階

で、海北に起こされた兵士だった。

 「おう、者どもは起きたか?」

 「はっ。西の兵舎にいる者は身支度を整え

ましてございます」

 「武器庫も開放したか?」

 「はい。武器庫にあった火縄銃や弓矢は全

て運び出すように指示しました」

 「よし、すぐに前線にある各砦に伝令を出

すのだ。不審なことがあれば、すぐに知らせ

るように伝えよ!」

 「かしこまりました!」

 伝令となった兵が西兵舎へ走り去る。

 ようやく酔いから覚めた兵士たちが、各所

で慌ただしく駆け回り始めていた。

 先程までの賑やかで楽しい酒宴のことが、

まるで幻であったかのようだ。

 「万福丸さまを迎え、これからという時に

何としたことか…」

 そう言わずにはいられない。自分が築き上

げてきた山塞に自負を持つ一方、妖忍という

存在に対する懸念を拭いされないのだ。

 もし、その懸念が現実のこととなれば…。

 待ち受けるは「死」あるのみならず、万福

丸の危機にもつながり、最終的に浅井家の完

全なる滅亡にもなるのである。

 焦る気持ちは、広間へ向かう海北の足を早

めていく。その背中を十蔵は黙って見つめな

がら、ついていくのだった…。

 

 バタバタと足音が響く。

 「万福丸さまっっ!」

 勢いよく襖を開け、楓が飛び込んでくる。

 「楓さん…!」

 万福丸を抱きかかえ、妙がシッと人指し指

を唇に当てた。その膝の上では、万福丸が小

さな蹴鞠を手に遊んでいる。周りの騒がしい

雰囲気に起きてしまったのだろう。

 「………」

 無言で妙が合図を送ってくる。すでに周囲

の尋常ならぬ雰囲気には気づいており、それ

を万福丸に悟らせまいとしていると分かる。

 怯えさせたくない。怖がらせたくない。

 そのような思いが妙にあるのだろう。楓は

妙に応えるようにうなずいた。

 「万福丸さま、ちょっと楓さんと話してき

てもよろしいですか?」

 妙が膝から降ろしながら、万福丸に言う。

 「妙、どうかしたのか?」

 「いいえ、何でもありませぬ。少しお話を

してくるだけですわ」

 「すぐに戻ってくる?」

 万福丸が不安げに妙を見上げる。短い時間

の間に、かなりなついているようだ。

 「もちろんですよ。万福丸を決して一人に

するものですか」

 妙の微笑は人を安心させる感じがする。

 「うん。じゃあ、待ってる」

 「ありがとうございます。さすが、万福丸

は強い男の子でございますわ」

 妙はそう応えると、楓を促すように部屋の

外へと出ていく。

 廊下に出て、静かに襖を閉めると、妙の顔

が緊張したものに変わる。いつもの優しい顔

だけでなく、凛たる武将の妻としての表情を

併せ持っている女であった。

 「楓さん、何が起きたのです?」

 「はい。どうやら、山塞の存在が敵に知ら

れてしまったようです」

 「まさか…!」

 「何者かが赤星を上げたのです」

 「赤星?」

 「忍者が合図に使う狼煙です。赤星を見れ

ば、すぐにも敵が攻めてくるはずです」

 「じゃあ、戦になると言うのですか?」

 「ええ。少なくとも、妖忍どもがあの赤星

を見逃すとは思えません」

 「な、何ということでしょう…」

 絶句してしまう妙。。

 無理もない。これまで、その存在を完全に

秘匿してきた山塞なのだから…。

 「すみません。私たちがここに来てしまっ

たばっかりに……」

 楓が頭を下げる。

 自分たちの存在が妖忍たちを招き寄せてい

ることを自覚せずにはいられない。それが浅

井残党が籠もる山塞を危機に導こうとしてい

るのだから、なおさらだった。

 「楓さん、どういうことです?」

 妙の声が不意に険しくなる。

 「私たちが来なければ、妖忍も追ってこな

かったし…。ここが知られることも…」

 「馬鹿なことを言うんじゃありません!」

 妙がピシャリと楓の頬を打った。

 「あなたがそんな弱気でどうするの!」

 「でも…、妖忍は恐ろしい敵です。襲って

くれば、妙さんたちまでもが…」

 言った途端、楓の頬がもう一度ピシャリと

鳴った。打った妙が険しい顔で睨む。

 「自分ひとりだけで万福丸さまを守ってい

るつもりなの?」

 「妙さん…」

 「私たちを見くびらないでちょうだい。万

福丸さまをお守りしようという思いは、あな

たと同じなのよ」

 「………」

 「いいこと。そんな馬鹿なことを考える暇

があるのなら、万福丸さまを守り抜くことだ

けを考えなさい」

 「…申し訳ございません」

 楓が頭を下げる。

 浅井家に仕えてきた彼女たちもまた楓と同

じように、いや、それ以上に万福丸の身を案

じていたのだ。それを他人事みたいに論じる

ことは失礼以外の何物でもなかった。

 「分かってもらえればいいのよ」

 妙がフッと表情を和らげる。

 「喧嘩しちゃ、ダメだよぉ」

 不意に後ろから、声がした。見ると、万福

丸が襖から覗いている。ついつい大きくなっ

た声を耳にして、心配したらしい。

 「アハハ、喧嘩なんかしてませんよ。万福

丸さまが心配なさることはありませんわ」

 「本当?」

 「本当ですとも。ねぇ、楓さん?」

 「も、もちろんですよ」

 妙に振られて、慌てて楓も笑顔を作る。

 「ふ〜ん…。じゃ、遊ぼうよ」

 納得したのか、しないのか。よく分からな

いが、万福丸が蹴鞠を差し出す。

 「ええ、ええ、いいですよ。じゃあ、妙と

一緒に遊びましょう」

 蹴鞠を受け取った妙は「それ!」と言いな

がら、蹴鞠を部屋に放る。万福丸が喜んで蹴

鞠を拾いに走っていく。

 「楓さん。とにかく万福丸さまを安全な場

所に匿いましょう」

 万福丸の動きを見て、妙が小声で囁く。

 「はい。でも…、何処に?」

 「いいところがあるわ。私と一緒に来てく

れるかしら?」

 「は、はい」

 楓が答えると、ちょうど万福丸が蹴鞠を手

に戻ってきた。

 「万福丸さま。ちょっとお部屋を移って、

向こうで遊びませんか?」

 「面白いところなのか?」

 妙の誘いに、万福丸は目を輝かす。

 「ええ、もっと面白いおもちゃもたくさん

用意してありますわ」

 「そっか、なら行く!」

 万福丸が妙の腕に飛びつく。小さな身体を

優しく抱きとめながら、妙が楓を促す。

 「楓さん…」

 チラと妙が動かした視線の先に、部屋の片

隅に置いてある薙刀が見えた。袋に入ってい

るために簡単に武器とは見えない。

 武家屋敷というものは、さりげなく部屋の

各所に武器が用意されているものなのだ。イ

ンテリアとしてではなく、暗殺者や侵入者を

撃退するために必要な生活必需品のようなも

のであった。常に生活の中に、戦いの匂いが

漂うのが戦国時代なのだ。

 「………」

 楓がさりげなく薙刀を取りに向かう。そう

妙が目で訴えていると感じたからだ。

 「さぁ、万福丸さま。参りましょう」

 妙が万福丸を手を引いていく。

 薙刀をしっかりと抱いた楓は周囲の様子に

気を配りながら、ついていくのだった。

 

 ブォンッと槍が唸った。

 「うわあああっっっ!」

 二本の角を思わせる穂先が兵士の身体を貫

き、背中へと突き出した。

 「弱い、弱すぎるぞっ!」

 鍬形源心(くわがたげんしん)が嘆き、兵

士の身体から槍を引き抜く。血に濡れた双角

槍(そうかくそう)がギラリと光った。

 最南端の砦を陥落させた妖忍、鍬形源心は

すでに南側の第二関所に取りついていた。

 ここの砦も警報が間に合わず、奇襲を受け

た形で窮地に陥っていた。抵抗しようとする

兵士たちは次々に双角槍の餌食となり、哀れ

な躯を晒すこととなった。

 「矢を放てっっ!」

 関所を預かる浅井家臣、渡辺八右衛門(わ

たなべはちえもん)が叫んだ。渡辺は槍の使

い手として、浅井家でも信頼されている武士

の一人であった。

 シュババババッッッ!

 兵士たちが放つ矢が風を切り裂く。

 「そんなヘナチョコ矢で、この源心を討ち

取れるものか!」

 鍬形源心が双角槍を水車のごとく回転させ

た。矢はその渦に巻き込まれ、呆気なく弾き

飛ばされてしまう。

 「くっ…! 何としても討ち取れ!」

 渡辺の命令で、兵たちが刀や槍を手に飛び

出していく。だが、鍬形源心の相手になるも

のではなかった。

 「ぐわああっ!」

 喉を刺された兵がのけぞる。

 「痛ええっ。おっ母ぁっ!」

 若い兵士が内臓を突き破られ、血を吐きな

がら救いを求めた。

 そして、等しく死を与えられていく…。

 「この化け物め、俺が相手だ!」

 渡辺が愛用の槍を構えて、鍬形源心の前に

立ちふさがった。手で槍をしごき、ピタリと

穂先を源心に向ける。

 「ほほお、少しは出来るようだな」

 「姉川で織田方の侍武将を討ち取った自慢

の槍よ…。いかな妖忍と言えども、この穂先

からは逃れられぬ」

 「いいぞ、いいぞ。そのように楽しませて

くれる奴を待っておったのだ」

 鍬形源心が嬉しそうに言う。手強い敵と戦

うことが、彼の幸福であった。

 「愚弄するかっっ!」

 渡辺が槍を繰り出す。さすがに自慢するだ

けあって、その動きは速い。

 ガキンッッ! ギイィィンッッ!

 繰り出した渡辺の槍を、鍬形源心の双角槍

が受け止める。穂先が火花を散らし、槍の柄

が大きくしなった。

 「なかなか、良い腕だ。しかし、この源心

を楽しませるには、まだまだだな」

 「何をちょこざいなっ!」

 渡辺が大きく槍を振るった。源心の持つ双

角槍を叩き折ろうとしたのだった。

 「甘い…」

 鍬形源心はつぶやき、ガツンと渡辺の槍を

受け止めてしまう。しかも片手だった。

 「そ、そんな馬鹿な…」

 「槍法の基本は『突き』と『払い』の二つ

しかない。『叩く』は邪道だな」

 「こ、この化け物め…」

 渾身の力を込めても、受け止められた槍は

ビクともしない。渡辺のこめかみを冷たい汗

が滑り落ちていった。

 「これが、『払い』だ!」

 鍬形源心が叫ぶ。渡辺の槍が弾かれ、同時

に足元を双角槍がなぎ払った。

 「うわああっ」

 踏ん張った両足が一気にバランスを崩す。

 槍法の基本形の一つ、『払い』は相手の攻

撃を払いのける防御の意味が大きいが、相手

の姿勢を崩して、攻撃のタイミングを生み出

すという意味も持っている。

 「し、しまった!」

 渡辺はゴロンと地面に転がり、自慢の槍が

空しく地面を叩いた。

 「そして、これが『突き』だ」

 「ぐわっっ!」

 繰り出される電光石火の『突き』は、槍の

最も基本的な攻撃方法である。習練を積めば

どんな武芸の達人をも一撃で仕留めることが

可能になると言われている。

 腹部中央を貫く双角槍…。内臓を突き破ら

れた渡辺の口から血塊があふれる。

 「惜しい男よ…。もう少し鍛練を積めば、

良き武将になったものを…」

 槍に伝わる断末魔を感じながら、鍬形源心

が残念そうにつぶやく。

 「お、お春…。三太…」

 郷里に残してきた妻子の名であろうか。死

を迎える渡辺がつぶやく。すでに鍬形源心の

声は届いていないようであった。光を失って

いく目から、スウ…と涙が流れる。

 「さらばだ…」

 そう言って、双角槍がグッと押される。

 「グ…!」

 小さな呻きを漏らし、渡辺の瞳孔が大きく

開いた。そして、光を失う。

 南側第二砦が陥落した瞬間であった…。

 

 山塞・大広間。

 ガラリと扉を開けると、ムッとした酒の匂

いが立ち込め、床は酔いつぶれた男たちで埋

め尽くされている。幸せそうに高いびきをか

いている兵士たちの中には、赤尾清隆(あか

おきよたか)や月ヶ瀬忠長(つきがせただな

が)などの有力武将の姿もあった。

 「みんな、起きろっっ!」

 建物を揺るがすような大声が轟いた。

 「な…!」

 「うにゃ…?」

 酔いが浅かった者は飛び起き、酔いの深い

者は何が起こったのかも分からないように辺

りをキョロキョロと見回している。

 赤尾清隆などは酒瓶を枕に、ムニャムニャ

と寝言を漏らしたままであった。

 「赤尾、起きるんだ!」

 声と同時に、酒瓶が蹴り飛ばされる。当然

のことながら、それを枕にしていた赤尾の頭

は床に落ち、ゴツッと鈍い音を響かせた。

 「にゃ、にゃにをするっっ!」

 頭に手を当てながら、フラフラと起き上が

る赤尾。まだ寝ぼけ半分である。

 「赤尾、しっかりしろっ!」

 「うにゃ、海北どの…。こりゃ、一体何の

真似でござる?」

 幸せに酔いつぶれていたところを、いきな

り蹴り起こされたのだ。相手が軍師と言えど

も、さすがにムッとした感じは否めない。

 「頭をシャキッとさせるんだ。敵がここに

攻めてくるぞ!」

 「敵…? 何のことです?」

 まだ赤尾はボンヤリしているようだ。

 「この山塞の存在を敵が知った。今にも攻

めてくるに違いない。いや…、もう攻めてき

ているかも知れん」

 「ど、どういうことです?」

 「説明は後だ。すぐに兵たちを守りにつか

せるのだ!」

 「はぁ…」

 緊迫した様子の海北に比べ、赤尾はなおも

ボケッとした表情であった。

 「申し上げますっっ!」

 そこに慌ただしく伝令が駆け込んでくる。

 「何事だっ?」

 息を弾ませる伝令の様子は只事ではない。

 自然と、問い返す口調も厳しくなる。

 「はっ。山塞の最外縁にあたる砦の一部か

らの応答がございませぬ!」

 「何っっ?」

 海北の表情が一変する。

 「東側の最も外に位置する砦からの狼煙が

応えませぬっ。それに南側もっ!」

 「いかん! 間に合わなかったか!」

 叫びつつ、十蔵の顔を見る。十蔵は無言で

海北にうなずき返した。

 「第二の関所や砦の方はどうだ?」

 海北が兵士に確認する。

 「東側からは返っておりますが、南側の第

二砦は沈黙したままです」

 「南の敵は早いな…。道が険しいゆえに砦

を多く配置しなかったからか…」

 海北が後悔するように言う。南側は地勢が

険しいので、敵の軍勢も入り込める訳がない

と防御を薄くしていたのだ。地形効果に頼り

すぎた結果だった。

 しかし、一人で一軍に匹敵する妖忍による

襲撃を誰が予測できたと言うのか…。

 「援軍が必要だな…」

 「しかし、多くの兵を展開させるには地理

的条件が悪すぎます。第三砦ぐらいならば、

それなりの兵を置くこともできますが…」

 「そうだな…」

 海北が考え込む。南に兵を送っても、展開

させられる広い地勢がなければ、一対一の戦

いになってしまう。侵入者が妖忍であったと

すれば、普通の兵士に太刀打ちできるもので

はない。

 「考えても、仕方あるまい。直ちに東側と

南側に増援を送るのだ。今のままでは、突破

されるのは時間の問題じゃ」

 「東はともかく、南側はいかがなされます

か? あちらは地勢が…」

 「数は少なくてもよい。だが、弓隊と鉄砲

隊を中心とし、接近戦にならぬように指示を

徹底させるのじゃ」

 「弓隊と鉄砲隊でござりますか?」

 「そうじゃ。まずは東側に兵を集め、そち

らからの侵入を食い止める。南はそれまでの

時間稼ぎが出来ればよい」

 「かしこまりました!」

 伝令が慌ただしく駆けていった。

 海北はさらに近くにいた兵を呼ぶ。。

 「西や北にも警報を出せ! 敵が攻めてく

るのは、二方向だけではないはずだ」

 「はっ、ただちにっ!」

 指示を受けた兵が狼煙台に向かう。

 だが、兵たちの動きを見ている海北の顔に

は苦渋と焦燥の色が濃かった。

 「海北どの…」

 十蔵が不意に声をかけた。

 「何でござろう?」

 「南には、それがしが参ろうと思う」

 「十蔵どのがか?」

 「うむ…。南側の状況を考えれば、それが

しが出向くのが一番と思うのだが…」

 「しかし…」

 海北が難色を示す。ここで十蔵を失うよう

なことがあってはならなかった。

 「海北どの…。相手が妖忍であれば、普通

の兵たちでは相手にならぬ」

 「斃せるのは、お主だけだと…?」

 「驕りではない。敵の能力を冷静に判断す

るのが、軍師の役目と心得るが…?」

 「………」

 十蔵の言葉に海北が考え込む。確かに南は

砦の数も少なく、兵を多く置ける場所ではな

い。となれば、個人の力量が勝敗の鍵を握る

と言っても、過言ではない。まして、相手が

妖忍ともなれば、対抗できるのは十蔵ぐらい

のものであった。迷う暇はない…。

 「……わかり申した。お願いする」

 海北は十蔵に深々と頭を下げた。

 「いや、生意気なことを申しました」

 十蔵が慌てて、手を振る。

 「いいや、十蔵どのが言われていることは

正しい。しかし…、一言よろしいか?」

 「何でございましょう?」

 「今は死ぬべき時ではない…」

 「………」

 「貴殿には万福丸さまを守り抜くという大

事な使命がある…。そのことだけは忘れずに

いてもらいたい」

 海北が十蔵をジッと見つめる。

 猪飼野との戦いの後、十蔵と海北綱親の間

にどのような会話があったのだろうか。

 そのことが海北の脳裏にあったことは間違

いない。だが、あえて海北はその詳細を口に

しようとはしなかった…。

 「だから、死に急ぐなと…?」

 十蔵が問い返す。

 「………」

 海北綱親は答えなかった。

 だが、言わんとしていることは分かってい

る。死に場所を探し続けている十蔵の生き方

を否定しないまでも、生きる意味が残されて

いる以上は「生き続けなければならない」と

訴えているのだ…。

 「因果なものだな…」

 それだけを答え、十蔵は南の砦へと向か

うのだった。

 

 山塞を遠方に望む西の山間を影が走ってい

く。妖忍衆の一手である甚内(じんない)と

水蟷螂(みずかまきり)である。

 「東と南の空に戦気が漂っておる。我らよ

り先に仕掛けた者がおるようじゃな」

 甚内が言う。彼らの目には、大気中に渦巻

く戦場の気配が見えるらしい。

 「遅れをとったか…。しかし、まだ戦いは

始まったばかりのようだな」

 「ならば、我らにも機会は残されておると

見ていいじゃろう」

 「そういうことだ」

 ニヤリと笑った水蟷螂が跳躍しようとした

瞬間だった。

 「二人とも待て!」

 突然の言葉に二人の妖忍の動きが止まる。

 「誰だっ?」

 声に振り向くと、そこには黒い僧服に身を

包んだ男が立っていた。凄まじい妖気が全身

にまとわりついている。

 「これは…、ソルガティどの!」

 水蟷螂が驚く。

 声の主は、『隻眼の妖神父』と呼ばれる宣

教師、ソルガティだった。

 その背後には、妖艶な雰囲気の美女が寄り

添うように立っている。妖忍衆の一人、オオ

ムラサキの化身、紫式部(むらさきしきぶ)

だ。その顔の半分には、無残な傷痕が残され

ている。かって十蔵の抜刀術に斬り刻まれた

怨みの傷痕である。

 「どうして、ここに…?」

 思わず、水蟷螂が尋ねる。

 自分たちより、遙か後方にいたはずのソル

ガティが来ていることが信じられなかった。

 この妖神父は妖忍よりも速い足を持ってい

ると言うのであろうか…。

 水蟷螂は背筋を寒くした。

 妖忍衆を束ねる宣教師たちの実力は謎に包

まれている。妖忍衆ですら、彼らの本当の力

を見たことがない。しかし今、その魔力の一

端を垣間見たような気がして、二人の妖忍は

心に戦慄を覚えたのだった。

 「お前たち、何をしている?」

 ソルガティが陰々とした声で問うた。

 「な、何を…と言われましても…」

 水蟷螂が言い澱む。抜け駆けのことを問い

ただしているのだと気づいたからだ。

 「変わったことがあれば、すぐに知らせる

という決まりだったはずだ」

 「も、もちろん、ソルガティどのには知ら

せるつもりでした。しかし、その前に確認を

と思いましたので…」

 「確認か…。そのために自分たちだけで攻

め入ろうとしたのだな?」

 ギラリと光る隻眼に、甚内と水蟷螂がうろ

たえる。それだけの迫力を備えていた。

 「攻め入るとは心外な…。単に偵察を行お

うとしたまでのことじゃ」

 慌てて、抗弁する甚内。

 「そうか…。だが、偵察は無用だ」

 「どういうことじゃ?」

 「敵の実情は分かっている。すでに偵察は

済ませてあるのだ」

 「済ませてある?」

 水蟷螂が訝しげに問い返す。

 「うむ…。私の眼には、奴らの様子が手に

取るように鮮やかに映っているからな」

 ニヤリと笑うソルガティ。その笑いはゾッ

とさせるような雰囲気があった。

 「……?」

 水蟷螂と甚内が顔を見合わせる。

 眼に見えているとは…?

 片目の男が何を言っているのか…?

 そんな不可思議さが二人の妖忍を惑わせ、

困惑させていた。

 「まあ、よいではないか…。敵は浅井の残

党どもであることは教えておこう」

 二人の様子を見て、ソルガティが言う。

 「浅井の残党じゃと?」

 「こんな所に隠れていたのか?」

 「うむ。この一帯の山を利用した山塞に立

てこもり、兵士の数は三百強ぐらいか…」

 ソルガティの説明は正確だ。先刻の言葉の

ように、本当に山塞の様子を見てきたとしか

思えなかった。

 「そして、面白い男が奴らを束ねておる」

 「面白い男…?」

 「誰じゃ、そいつは?」

 問い返す二人の妖忍に対し、ソルガティは

ニヤリと答えた。簡潔明瞭な一言で…。

 「浅井家軍師、海北綱親…」

 「何だとっっ?」

 「馬鹿な、死んだはずじゃ!」

 「別に死んだ人間が生きていることなど、

不思議ではあるまい」

 ソルガティが笑う。死者を蘇らせ、無敵の

兵士『屍人兵』に造り変えた宣教師ならでは

の一言であった。

 「しかし…。あの海北綱親が兵を束ねてい

るとは、少々やっかいだな」

 水蟷螂が腕を組む。

 敗残の兵士自体は烏合の衆にしかならない

が、それを束ねる者によっては精鋭部隊に生

まれ変わることもある。浅井家の軍師を務め

た海北綱親は、それが出来る男だった。

 「ホホホ…。何を考えるのかえ?」

 不意に紫式部が高らかに笑った。

 「おのれ、式部。何がおかしい?」

 水蟷螂が食ってかかる。

 「おかしいのは、そなたじゃ。死んだ人間

が甦ったのならば、また殺してやる楽しみが

増えただけのことではないかえ?」

 「かって十蔵に敗れた女が、随分と強気な

ことを言うようだな」

 「わらわを愚弄する気かえ?」

 紫式部の眼がつり上がる。水蟷螂との間に

一触即発の緊張感が高まった。

 どうも妖忍衆という存在は、協調性に欠け

るところがあるようだ。

 そもそも忍者という存在自体がスタンドプ

レ−に走りがちなものだが、妖忍は特にその

色が濃いように思えてならない。

 「やめんか、二人とも!」

 ソルガティが一喝する。

 紫式部と水蟷螂は互いを睨みつつ、おとな

しく言葉に従わざるを得なかった。

 引き下がった水蟷螂と紫式部、それに甚内

の三妖忍をゆっくりと見回し、

 「よいか、三人とも…。これからは私の指

示で動いてもらう。勝手は許さん…」

 ソルガティが陰々と言う。

 「三人で浅井残党を蹴散らし、なおかつ十

蔵たちを仕留めろと言うのか?」

 「ククク…、水蟷螂よ。我々の目的は浅井

の嫡男を仕留め、十蔵を討つことのみだ」

 「では、浅井残党はどうなる?」

 「そのような連中は、こいつらで十分だ」

 ソルガティが、スウ…と両手を広げる。

 途端に、周囲に濃密な妖気が渦巻いた。

 「ウォオオオオォォォ……」

 「ヒィヤアァァァアァァ…」

 不気味な声が響きわたり、何とも言えぬ妖

しい気配が辺りに満ちていく…。

 ボコリ…、ボコリ…、ボコリ…!

 地面が盛り上がり、腕が飛び出した。頭が

のぞき、虚ろな眼窩が見えた。

 「し、屍人兵か…!」

 水蟷螂が驚きの声をあげる。

 ノソリノソリ…と地の底から起き上がる死

人たち。それは、織田軍団を戦国最強たらし

める屍人兵の群れであった。

 「ククク…、お前たちと同じように佐久間

信盛(さくまのぶもり)のところにいた屍人

兵も引き抜いておいたのだ」

 「さすがはソルガティどのじゃ…」

 甚内が呆気にとられる。今の今まで、屍人

兵の気配すらも感じなかったからだ。

 「あいつに預けておいても、どうせ屍人兵

を使いこなせぬからな…。ならば、こいつら

に浅井の残党を始末させる」

 ソルガティが陰気に笑う。その背後には無

数の屍人兵がワサワサと蠢いていた。正確な

数は分からないが、一個旅団を形成できるぐ

らいの数はいるのかもしれない。一つの城を

攻めるには十分であった。

 「なるほど…。では、我らは浅井の小僧と

十蔵に狙いを絞ればいいのじゃな?」

 甚内が屍人兵軍団を見ながら、問う。

 「その通りだ。先走っている鍬形源心と蚤

髑髏(のみどくろ)の二人は仕方ないとして

も、お前たちは私の指示で動くのだ」

 「やはり、あの二人だったか…」

 甚内たちは、今の言葉で初めて山塞に攻め

込んでいるのが鍬形源心と蚤髑髏の二人であ

ることを知ったのである。それにしても、山

塞の様子といい、ソルガティには何もかもが

見えていると言うのだろうか…。

 「お前たちは私に従うのだ…!」

 「しかし、源心と蚤髑髏が先に仕留めてし

まっては、立つ瀬がございませぬ」

 水蟷螂が心配する。他の者に遅れたとあっ

ては、妖忍としてのプライドが許さない。

 「ククク…、心配無用だ。あいつら単独で

落とせるような山塞ではない」

 「では…?」

 「ククク…、せいぜい敵の目を引きつけて

おいてもらおうではないか」

 ソルガティの隻眼が妖しい光を帯びる。味

方の妖忍をも囮に使おうとする残忍な心その

ものを反映したような輝きだった。

 「………」

 三人の妖忍は答えなかった。明日は我が身

と心に刻んだだけである。

 「では、行くぞ…!」

 ソルガティの気配がフッと消える。

 「はっ!」

 続けて、三妖忍の気配が跳んだ。

 「ウォオオオオォォ…」

 「ヒィヤアァァァァ…」

 残された屍人兵たちがワサワサと蠢きなが

ら、ゆっくりと進軍を開始する。

 濃密な妖気と殺気を全体にみなぎらせ、整

然と行進する屍人兵たち…。

 ザッザッザ…と響く足音は、まさに破滅へ

の序曲そのものであった。

 

 山塞では、迎撃の準備が着々と進められて

いた。火縄銃に装填する玉薬や弾丸が大量に

運び込まれ、数十本単位で束ねられた弓矢が

積み重ねられていく。

 具足を身に着ける者、刀を研ぐ者、槍の根

元を締め直す者…。それぞれの兵たちも戦闘

の準備に余念がない。

 山塞正面口では、赤尾清隆が二十名の兵を

集めていた。これから、東側に位置する砦の

後詰めに向かうところだった。

 「赤尾、少し待て!」

 まさに出発しようとした時、海北綱親が赤

尾を呼び止めた。

 「海北さま、いかがなされました?」

 「うむ。お主に使ってもらいたい物があっ

て、持ってきたのだ」

 海北が合図をすると、兵士の一人が細長い

包みを持ってくる。運んでくる様子から見る

と、かなり重たそうな感じだ。

 「何でござりますか?」

 首を傾げる赤尾に、海北が包みを解く。

 「これじゃ」

 取り出されたのは火縄銃だった。いや、そ

れにしては大きすぎる。普通の火縄銃の倍の

太さがあり、長さもかなりのものだ。しかも

銃身そのものが厚い鋼鉄で出来ていた。

 「こ、これは…。まさか、国友村の鉄砲鍛

冶に特注したという例の…?」

 「その通りだ。焼夷火縄銃『火神雷(ほの

かぐつち)』と言う…」

 「火神雷でござりますか…」

 赤尾が目を輝かす。質実剛健な銃身が、そ

の威力の凄さを十分に体現していた。

 海北が手の平に乗せた丸い玉を見せる。

 「火神雷に用いる玉は、油椰子と菜種を特

殊な薬で固めたものだ。これが当たれば、辺

り一面は火の海となる…」

 普通の火縄銃の玉とは違い、和紙を幾重に

も張り重ねた不思議な玉であった。

 「恐ろしい武器でござりますな…」

 火神雷を手に取った赤尾が銃身をさすりな

がら、感嘆の言葉を漏らす。

 「それをお主に預けることにする」

 「そ、それがしに…でござりますか?」

 赤尾が戸惑う。この火神雷は、浅井家が特

別に作らせた新兵器である。当然、筆頭軍師

である海北が使うものと思っていた。

 「お主は家臣の中で、最も銃の扱いに慣れ

ている。他の者が使っても、火神雷の威力を

十二分に発揮させられないだろう」

 海北はそう言って、弾薬を渡す。先程言っ

ていた焼夷弾であった。

 「勿体ない言葉にござる」

 焼夷弾を受け取りつつ、赤尾が恐縮する。

 「よいか、赤尾。弾薬は数が少ない。くれ

ぐれも無駄に使うでないぞ」

 「しかと心得ましてございます」

 「だが、躊躇いも禁物だ。必要と判断した

時は、躊躇なく撃ち放つのだぞ」

 「かしこまりました」

 赤尾が大事そうに火神雷を抱え、深々と一

礼を返す。海北の信頼と期待に応えようと今

さらながらに思うのだった。

 「よし、出発だっっ!」

 「おおおおおっっっ!」

 兵士たちが一斉に応え、赤尾を先頭に増援

部隊が進発する。誰もが緊張した面持ちでは

あるが、精鋭だけに不安は見えない。

 勇将、赤尾清隆の姿を海北綱親もまた緊張

した表情で見送るのだった。

 今まさに決戦の幕が上がる…!

 山塞を覆う戦雲は急を告げ、人々を新たな

る運命の渦に巻き込もうとしていた…。

 

                           つづく