天正妖戦記

  十蔵の剣

 

第八回 険道塞の死闘

 

 山には戦雲が垂れ込めていた…。

 戦いに赴こうとする人々の思いが形になっ

ているのか、戦いを嘆く人々の哀しみが雲を

呼び寄せたのだろうか…。

 山に天蓋を差しかけるかのように広がる巨

大な積乱雲。そのあちこちに青白いスパーク

のような雷光がきらめき、複雑怪奇な雲の輪

郭を染め上げている。入道雲の別称にふさわ

しく、その光景は大入道の妖怪が怒りに身を

震わせているかのようであった。遠く聞こえ

る雷鳴は大入道の唸りであり、空気を伝わっ

てくる震動は大入道の鼓動であり、山々を突

き刺す稲妻の閃光は大入道が振るう怒りの鉄

槌が散らす火花なのかもしれない。そう思わ

ずにいられないのは、雲を囲む山々に満ちた

殺気と怒気、不気味に漂う妖気と鬼気のせい

であった。人が成せる技か、天の成す技なの

か…。いずれにせよ、戦いの機運はすでに臨

界点に達していた……。

 

 浅井家の残党が籠もる山塞は、複数の山渓

を利用した城郭構造を成している。

 武家屋敷を本丸代わりにし、グルリと囲む

ように壁や柵が造られている。山塞へ通じる

道の要所要所には砦や関所が設けられ、それ

ぞれが縦深防御機構になっている。普通の天

守閣を持つ城で言えば、本丸を取り囲む二の

丸、三の丸、武者櫓や曲廓などにあたる。

 武者櫓や曲廓は、兵を集めておく陣地の一

種である。平地に建てられた平城などの場合

には漆喰と石垣で防御された堅固な要塞とな

るのだが、浅井の山塞では無理な話というも

のである。その代わりに、崖や森林を巧みに

利用した造りになっている。丸太を落とす落

木計(らくぼくけい)の仕掛けや、岩を落と

す落石計(らくせきけい)の仕掛けがそこか

しこに設置され、落とし穴や逆茂木(さかも

ぎ)などで、防御力を高めていた。

 各砦や関所には複数の兵士が詰めており、

哨戒偵察の任に就くと同時に、侵入者の撃退

をも任されている。だが、すでに小谷城など

の合戦で多くの兵を失った浅井勢には十分な

守りを置くほどの余裕はなく、わずかな兵力

でカバーしなければならなかった。

 そのわずかな兵力も、質という点では大き

く不安を残している。数多くの戦場で第一線

に立ってきた古参兵士、熟練兵士の多くは姉

川合戦や小谷城攻防戦で討ち死にしてしまっ

ている。現在残っているのは、後方勤務に就

いていた経験の浅い兵士や新たに徴収された

若者であり、その戦技レベルは決して高いと

は言えなかった。しかも、彼らを育て上げて

いる時間は少しもないときている。

 ましてや、兵を指揮する武将の数はそれ以

上に減少している。武将としての資質を備え

ているのは、軍師である海北綱親(かいほう

つなちか)や赤尾清隆(あかおきよたか)、

月ヶ瀬忠長(つきがせただなが)ぐらいのも

のである。少数の兵力を指揮している各砦の

指揮官は小隊長クラスの小者頭(こものがし

ら)などであり、まともに戦争が出来るレベ

ルに達しているとは言えなかった。

 また、南側の第二砦で討ち死にした渡辺八

右衛門(わたなべはちえもん)など、有能な

人材も枯渇の一途を辿り、戦局はさらに厳し

いものとなりつつあった…。

 

 南側第三砦は南方を守備する最大の要衝で

あり、砦へと通じる山道が非常に険しいとこ

ろから「険道塞(けんどうさい)」と呼ばれ

ている。このように砦に固有の名称をつける

のは古代中国に多く、砦の重要性をアピール

することで兵たちの士気を上げようとしてい

るのである。

 守りを任されている篠塚与兵衛(しのづか

よへい)は三十四歳。まだ小者頭に過ぎない

が、足軽時代から叩き上げられた戦場経験を

評価され、兵たちを預かっている。

 「鉄砲隊は、砦前面に二列横隊で展開。弓

隊はその後方に配置につけ!」

 篠塚の指示が飛び、鉄砲隊や弓隊が慌てて

移動を始める。まだまだ戦いに不慣れな若者

も混じっており、思うように戦闘準備が進ま

ないでいた。本営から回されてきた増援の兵

も含まれており、古くから険道塞にいた兵た

ちとの間で混乱も生じているようだ。

 「鉄砲隊はすでに火縄を灯しておけ。いつ

でも発射できるようにしておくんだ」

 「し、しかし、それでは暴発の可能性があ

ります。危険すぎるのでは…?」

 傍にいた小隊長の一人が慌てる。

 「火種を絶やしてしまっては、いざという

時に撃てなくなる。そのことの方が命取りに

なるのが、分からんのかっ!」

 「わ、わかりました!」

 小隊長が駆けだしていく。その姿を見なが

ら、篠塚はフウとため息をついた。

 「いちいち、こんな細かいことまで注意し

なければならんとはな…」

 愚痴るのも無理はない。ほとんどボーイス

カウトを指揮して、戦場に出向いてきたよう

なものだ。熟練兵士の多くを小谷城で失って

しまったがために、後方で補給の任務ばかり

だった者や戦場未経験の若者、引退していた

老兵などばかりなのである。

 それらを生き残らせるためには、過保護と

も言える指示の徹底が必要だった。

 兵隊を多くすることは、戦力のアップには

なる。しかし、そこに実力が伴っていなけれ

ば、ただの烏合の衆になってしまう。

 もっと時間があったならば、彼らを一人前

に訓練することも可能だっただろう。だが、

万福丸を迎えたことによって、その時間は失

われてしまった。未熟な兵士の多いままで、

妖忍と屍人兵という最強の敵と戦わなければ

ならなくなったのだ。結果として、未熟な兵

士の多くが熟練となる機会を永遠に失うこと

になるであろう…。

 だが、山塞を守りきらねばならない。

 そうしなければ、万福丸の死につながり、

浅井家再興の夢は潰えてしまうのだ…。

 浅井残党は今、その大きなジレンマの中で

戦いを余儀なくされていた。

 「申し上げますっっっ!」

 暗い面持ちでいる篠塚のもとに、伝令が駆

け込んでくる。

 「どうしたっ?」

 「はっ。砦の前方に敵らしき者が現れまし

た。真っ直ぐ、こちらに向かってきます」

 「敵らしき…とは何事だ。もっと正確に報

告しないかっっ!」

 「し、しかし…、敵はたった一人です」

 「一人だと…?」

 篠塚の目が不審そうに細まる。

 「し、しかも、まるで人間とは思えないよ

うな風貌をしています。ま、まるで、クワガ

タ虫のような化け物なんですっ」

 怯えたような顔で報告する伝令の言葉を聞

いた瞬間、篠塚の脳裏に電流のスパークのよ

うなものが弾けた。

 「馬鹿野郎! そいつは妖忍とかいう織田

の化け物だ。ただちに撃ち殺せ!」

 そう怒鳴るやいなや、篠塚は走り出した。

 「敵襲だ! 配置につけっっ!」

 叫びながら、砦を走り抜けていく。

 「邪魔だっっ!」

 弾薬をノンビリと運んでいた若い兵士が突

き飛ばされ、ペタンと尻餅をつく。

 「な、何なんだよう…?」

 地面に突き転がされてもなお、若い兵士は

キョトンとしたままだった。

 「愚図愚図するなあっっ」

 竹筒の水を飲んでいた老兵が怒鳴り飛ばさ

れ、慌てて自分の配置に駆けだす。

 「まったく、どいつもこいつも…」

 敵が妖忍ならば、普通の戦い方で倒せる訳

がない。下手な戦い方で乱戦に持ち込まれて

しまえば、犠牲者は数えきれなくなる。

 篠塚の心を戦慄が支配した。

 

 同じ頃、楓と妙(たえ)は万福丸を武家屋

敷の外れにある炭小屋に連れてきていた。

 「こんなところで遊ぶの?」

 真っ黒な炭を詰めた俵が積み重なる小屋を

見渡しながら、万福丸が尋ねた。

 「………」

 言われるままについてきた楓も、不審そう

に辺りの様子を伺っている。

 「ウフフ…。ここにはね、ちょっとした仕

掛けがあるんですよ」

 妙が微笑みながら、炭俵の陰にある綱をグ

イと引っ張る。

 「あっ!」

 楓と万福丸が同時に短く叫ぶ。

 ピラミッド状に積まれた炭俵の一部が横に

スライドし、そこに地下に通じる階段が姿を

現したからだ。土を削ったステップが暗い地

の底へと伸びているのが見えた。

 「さ、暗いですよ。足元に気をつけて、つ

いてきてくださいね」

 階段へと近づいた妙が無造作に蝋燭を灯し

たので、楓は慌ててしまう。

 「ちょ、ちょっと、妙さん。ここは炭小屋

なのに、火を使っても平気なの?」

 「積まれてある炭俵のほとんどは、中身が

お米とすり替えられているの。炭が詰まって

いるのは、表面の幾つかだけよ」

 「そ、そうなんだ…」

 ホッと胸をなで下ろす楓。単にカモフラー

ジュというだけでなく、戦時下の非常食の貯

蔵庫も兼ねているのだと理解する。

 ギシギシと階段を下りていくと、地下には

空洞が広がっていた。岩を削った短い通路の

先に、頑丈な木戸が見えた。

 「さ、ここですよ」

 木戸にかかった鉄の錠前を開け、妙がゆっ

くりと押し開く。ギィィと軋むような音をた

てて、木戸の向こうに暗闇が広がった。

 「何にも見えないよ」

 覗き込みながら、万福丸が言う。

 「ちょっと待ってくださいね」

 妙が壁際に移動すると、そこに何本もの蝋

燭が並んでいるのが見えた。持ってきた蝋燭

の火を、それらに順に移していく。

 ポッ、ポッ、ポッ、と蝋燭の炎が灯るにつ

れて、部屋全体が明るく浮かび上がった。

 「わあ…!」

 楓が思わず声を漏らす。

 部屋は地下室とは思えないほどに、立派な

ものであった。四方の壁は美しい檜でしっか

りと補強されており、真新しい畳が床を埋め

ている。部屋の造りそのものは平安末期に流

行した「書院造り」に近く、違い棚や木目調

の家具なども運び込まれていた。岩をくり抜

いた庭のような部分もあり、地下に家を移築

したような錯覚を覚えてしまう。

 「あっ、おもちゃだ!」

 万福丸が叫んで、走りだす。

 部屋の一角には、木の独楽や人形、カルタ

などのオモチャが積まれていた。万福丸は無

邪気にそれらに飛びつくと、上機嫌で遊びは

じめるのだった。

 「ここは、主君の奥方やお子様を避難させ

るための隠し部屋なのです。ここならば、そ

う簡単に見つからないでしょう」

 妙が驚いている楓に説明する。

 「なるほど…。ここに隠れていれば、万福

丸さまも安全ね」

 「ええ。食べ物もある程度は運びこまれて

いるし、玩具もあるから、万福丸さまも怖が

らずに済むと思いますわ」

 「よく考えてありますね。でも、守りとし

ては弱くありませんか?」

 「見つからないということが、最大の防御

になっているのよ。下手に兵士が守っていれ

ば、すぐにバレちゃうでしょ?」

 「…確かにそうですね」

 楓がハタと気づいて、苦笑する。

 古来、ピラミッドなどの遺跡には盗賊撃退

用の様々な仕掛けが施されているが、それは

あくまでも二次的な防御である。財宝や王の

ミイラを守る最大の防御は、墓そのものが発

見されないことだ。そのために墓は人の近寄

らない砂漠の地下深くに造られたり、峻厳な

断崖の中腹を入口にしたりする。さらに墓の

造営に関わった人夫や工事責任者を処刑する

のも、その秘密を徹底させるためだ。

 人間が作った防御機構を、人間が突破でき

ない訳はない。最も安全なのは、誰も近づけ

ないことである。この隠し部屋にも、同じ理

屈が働いているのであろう…。

 「万が一の時でも、外へと抜け出る地下道

と一体になっているの。もしもの時には、万

福丸さまを逃がせるわ」

 妙が床の間に掛けられた掛け軸をピラリと

めくる。そこには頑丈な木戸があり、開けた

向こうにはポッカリと地下道が広がる。

 「この先は?」

 覗き込みながら、楓が尋ねる。

 「山塞の一番北側に位置する渓谷へと続い

ているわ。そこからなら、川伝いに逃げられ

るという訳…」

 「いたれりつくせりですね…」

 すっかり感心してしまう楓だった。

 「でもね…。やはり最後に万福丸さまを守

れるのは、楓さん。あなたなのよ」

 「妙さん…」

 「もちろん、私も一緒に守るけど…。もし

もの時には、万福丸さまを連れて、この山塞

から逃げなくては駄目よ」

 「で、でも…」

 「主人の赤尾も、軍師の海北さまも、しっ

かりと守ってくれるはずよ。でも、戦いに絶

対という言葉はないのだから…」

 「わかりました…。でも、妙さんの心配す

るようなことはないと思いますよ」

 「そうね。ちょっと、私、心配性なところ

があるみたい」

 照れたように妙が笑う。つられて、楓も微

笑んでしまうのだった。

 (大丈夫よ…。十蔵だって、いるし…)

 笑いながら、楓はそう心の中で自分に言い

聞かせるのだった。

 

 カーンッッ! カーンッッ!

 警報がわりの早鐘が打ち鳴らされる。

 四方に甲高い響きを散らす鐘楼は険道塞の

前面を見渡す位置にある。丸太を縦横に櫓の

ように積み重ね、見張り台を兼ねた頂上部は

およそ八メートル程の高さに達する。

 篠塚は迎撃用に入り組んだ廊下や曲がり角

を走り抜け、木組みの階段を駆け登った。

 「敵は何処だっっ?」

 鐘楼に詰める見張りに怒鳴る。

 「篠塚どの、あそこです!」

 見張りはうろたえつつ、前を指さした。

 見ると、確かにクワガタ虫のような風貌の

怪人がゆっくりと近づいてくる。その手には

クワガタの角のような穂先をした槍が不気味

な光を放っていた。

 「あれが妖忍か…。あいつが来たというこ

とは、すでに第二砦は落とされたか…」

 第二砦を守っていたはずの渡辺八右衛門の

ことを思い、篠塚は目を伏せた。渡辺とは親

友であり、共に槍の腕を競った仲だった。

 「敵、射程距離に入ります」

 見張りの声に、篠塚がカッと目を開く。

 「鉄砲隊、射撃用意。よく狙えっっ」

 篠塚の声に、鉄砲隊が一斉に構える。その

数は三〇丁ぐらいだが、一人に対しては十分

すぎる殺傷能力を有している。

 火縄銃は正式名称を「種子島銃」と言う。

 無論、一五四三年に種子島に漂着したポル

トガル人が持ち込んだ銃を八板金兵衛(やい

たきんべえ)が模作したことから、付けられ

た名前である。それまでの主力遠距離兵器で

あった弓矢の殺傷能力を遙かに上回ることか

ら、多くの戦国大名に好まれた。

 弓矢は最大射程距離四〇〇メートル、殺傷

距離は八〇メートル、確実殺傷距離はおよそ

三〇メートルほどである。

 対して、火縄銃の射程距離は三〇〇メート

ルと弓矢に劣るが、殺傷距離は二〇〇メート

ルに達し、確実殺傷距離は五〇メートルにな

る。この比較からも、鉄砲がいかに重宝され

た新兵器だったかが分かる。

 だが、新兵器の操作には慣れが必要だ。

 実際に周囲の鉄砲隊の中には、今頃になっ

て火縄を点けている者や玉込めを行っている

者もいる。戦場経験が少ないために、火縄銃

の発射には時間がかかるということを理解で

きないでいるのだ。

 「さっさと準備しろ!」

 ドタバタしてる兵を怒鳴る一方で、

 「まだだ。まだ撃つなよ!」

 と、先走りしてしまう兵たちも抑えなけれ

ばならない。そうせねば、必ず撃ってしまう

早トチリの兵が出てしまうからだ。バラバラ

に撃っても、効果は期待できなかった。

 「まだだ〜。まだ、撃つな〜!」

 火縄の焦げる臭いが辺りを漂う。チリチリ

と燃える音が聞こえた。

 「………」

 鉄砲隊が片目をつぶり、迫り来る異形の怪

物に狙いを定める。引き金にかけた指がピク

ピクと震え、発射の号令を待っていた。

 鉄砲隊の一人がゴクリと唾を呑み込む。

 それが篠塚の耳に届いた。

 「撃てえええええっっっ!」

 篠塚が絶叫すると同時に、凄まじい轟音が

砦に一斉に響きわたった。

 ズダダダダダダダダッッッッッ!

 火縄銃の筒先が炎を噴き、轟音と共に弾丸

が吐き出される。

 三〇丁の火縄銃から放たれた弾丸はヒュウ

ウンと唸りを上げ、クワガタ虫の怪人へと吸

い込まれていく。しっかりと狙いを定め、ギ

リギリまで引きつけただけのことはある。

 「よし、当たるぞっっ!」

 だが、次の瞬間。篠塚や鉄砲隊の目に信じ

られない光景が映った!

 キュイイン! ガキィン! チュイン!

  バギィンッッ! ギュキィンッッ!

 甲高い音が響き、全ての弾丸が跳ね返され

てしまったのだ。

 「ば、馬鹿なっっ!」

 篠塚が身を乗り出して、叫ぶ。

 弾丸がぶつかった瞬間の閃光と硝煙の中を

くぐり抜け、クワガタ虫の怪人が何事もなか

ったかのように歩いてくる。

 「フハハハハ…。この程度の銃撃で、鍬形

源心(くわがたげんしん)を討ち取れるとで

も思ったのかっっ」

 妖忍、鍬形源心が嘲笑する。

 普通の人間ならば、肉体が四散するほどの

弾丸を浴びたはずだった。しかし、全ての弾

丸を跳ね返した鍬形源心の甲殻には掠り傷ぐ

らいしか見えない。

 「ど、どうしましょう?」

 若い兵士が怯えたように聞いてくる。

 「ど、どうしたもこうしたもない。あの化

け物を何としても、やっつけるのだ」

 篠塚が自分を奮い立たせるように言う。

 「だ、第二射、構えろっっ!」

 前列に代わって、すぐに後ろに控えていた

鉄砲隊が前に並んだ。数は同じように三〇丁

ほどである。織田軍団のように三〇〇〇丁も

の鉄砲を揃えられないにしても、ゲリラ同然

の浅井残党が六〇丁以上の鉄砲を所有してい

ることは、純粋に驚きだった。

 「撃てっっっ!」

 ズラリと並んだ火縄銃の筒先が、迫り来る

鍬形源心に照準を合わせたと判じた瞬間、篠

塚が大きな声で命令を発する。

 ズダダダダダダダッッッッ!

 再び、三〇丁の火縄銃が吠えた。

 だが、結果は同じである。またも全ての弾

丸は空しく弾かれてしまうのだった。

 「な、何故だ…。何故、倒れぬ…」

 呆然とつぶやく篠塚。それは鉄砲を放った

兵士たちも同じだった。誰もが蒼白な面持ち

で、ゆっくりと歩いてくる鍬形源心の無傷な

身体を見つめていた…。

 「鉄砲隊に代わり、弓隊、前へっ!」

 無駄とは思いながらも、篠塚が叫ぶ。

 二列の鉄砲隊が下がり、弓をつがえた兵士

たちが砦の前面へと進み出た。

 キリキリと弓弦が引き絞られる…。

 「ゆ、弓隊、放てっっ!」

 命令に弓矢が一斉に放たれる。だが、鉄砲

の一斉射撃に耐えた鍬形源心を斃せる訳がな

い。風を切るように飛来した弓矢の全てが同

じように跳ね返されてしまう。

 「そんな…」

 自分たちの攻撃が全く通じないことに、篠

塚たちは呆然と立ち尽くした。

 「どうすれば…」

 「何故…」

 「………」

 「………」

 織田軍団に知られる屍人兵などの比ではな

い。これまでに出会ったことのないような怪

物を前に、誰も言葉を発せずにいる。

 そんな様子を見てとったか、

 「フハハハ…。今度はこっちの番だ!」

 鍬形源心の背中がパクリと割れる。

 クワガタ虫と同じように分かれた甲殻の隙

間から、薄い膜のような羽が広がった。

 ブブブブ…と低い羽音が響きわたる。

 「ま、まさか…、飛べるのかっ?」

 「当たり前だっ! クワガタ虫が空を飛べ

るのを知らないのかっっ!」

 冗談のような応酬の後、鍬形源心の身体が

フワリと空中に浮かび上がる。

 「こ、この化け物めっっ!」

 篠塚が驚愕する。弾丸や弓矢の全てを弾き

返しただけでも信じられないのに、目の前の

妖忍は空を飛ぼうとしているのだ。

 それ以上に問題なのは、相手が飛んでくる

ことによって、砦としての防御機能がゼロも

同じになってしまったことである。

 「フハハハハ…、覚悟しろぉぉ!」

 不敵な笑い声を轟かせ、鍬形源心が砦の中

へと舞い降りてくる。

 「うわあああっっ!」

 たちまち、着地場所にいた二〜三人の兵士

が槍にかけられてしまう。血が飛び散り、兵

たちは次々に倒れていった。

 「こ、この化け物めっ!」

 若い兵士の一人が鉄砲を構える。しかし、

引き金はカチンと音を立てただけだ。先程に

一斉射撃を行ったことを、すっかり忘れてし

まっていたらしい。

 「し、しまった…」

 「フフフ…、武士の情けだ。弾を込めなお

すぐらいの時間はやろう」

 青ざめる兵士に、鍬形源心が余裕たっぷり

の表情で言う。

 慌てて、弾を込めなおす兵士。それにつら

れるように、周りの兵も弾を込め始める。

 「ま、待て、みんなっっ!」

 篠塚の制止する声も、妖忍に対する恐怖心

の前では届かないようだった。

 「く、くそっっ」

 慌てているのか、うまく弾を込められない

ようだ。若い兵士が舌打ちする。

 「慌てなくていい。ゆっくりと落ちついて

弾をしっかりと込めるんだ」

 「す、すみません」

 「銃身の奥まで、しっかりと押し込まない

と暴発してしまうぞ」

 鍬形源心が丁寧な口調で教える。若い兵士

は慌てているために、そんな基本事項も忘れ

がちになっているのだった。

 「わ、わかりました」

 若い兵士も素直に、源心の言葉を聞いてい

る。すでに敵同士ではなく、教官と生徒の関

係そのものとなっている。

 「ほら、火縄の火が消えかかってる!」

 「す、すみませんっっ」

 鍬形源心に注意されながら、一生懸命に弾

を込める若い兵士。美しい師弟愛の姿が、そ

こにあった。

 そうした四苦八苦の末…、

 「で、出来たっ」

 「よし…。では、撃ってみたまえ」

 ゆっくりと鍬形源心が手を広げる。

 「あ、ありがとうございます。で、では、

撃ってもよろしいですか?」

 冗談なのか、本気なのか。丁寧にお礼を述

べてから、兵士は鉄砲を向けた。

 「よし、来いっ!」

 「う、撃たせていただきます!」

 ズダァァンンッッ!

 カキィィンンッッ!

 銃声と固い音が同時に聞こえた。

 固い音の方は、弾丸が跳ね返されてしまっ

た音だった。

 「あ…、あ…」

 硝煙が残る鉄砲を手に、ガクガクと若い兵

士が震える。顔面蒼白だった。

 「うむ…。残念だったなぁ…」

 そう言うと、鍬形源心が槍を構える。

 「あ…、ああ…」

 「次に生まれてくる時は、しっかりと訓練

を積んでから、戦場に来るのだぞ」

 諭すように言って、二本の角のような穂先

を若い兵士に突き刺す鍬形源心。本当に残念

そうな表情と無慈悲な行動には大きなギャッ

プがあるが、そうした矛盾を抱えた存在も妖

忍ならではのものであろう。

 「戦いとは、悲しいものよのぉ…」

 「………!」

 悲鳴も上げずに倒れていく若者の姿に、周

りの兵たちに激しい動揺が走った。

 「うわあっっ!」

 狂騒に駆られた兵士たちが個々に撃ち始め

る。狙いもメチャクチャなままだ。

 三々五々に行う射撃が効果を奏する訳もな

い。だが、すでにパニック状態に陥ってしま

った彼らに、そのような道理を理解する余裕

もなくなっていた。

 「馬鹿者どもが…。無駄だということが分

からないのかっ!」

 飛来する全ての弾丸を跳ね返し、鍬形源心

は双角槍を手に突進する。血煙が渦巻き、悲

鳴と絶叫が砦の中に響きわたった。

 「接近戦で鉄砲が役に立つものか。刀と槍

を使って、応戦するのだっ!」

 篠塚の命令も届いていない。ただひたすら

に手にした銃を撃ちつづけるだけだ。

 「ギャアアアッッ!」

 腹部を貫かれ、若い兵士が絶叫する。

 「た、助けてええっっ!」

 鉄砲を放り出して、逃げだそうとする兵士

を背後から槍が串刺しにしてしまう。

 「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」

 すでに観念したのか、老兵は座り込み、ひ

たすらに念仏を唱えていた。

 何人かの兵は刀を抜き、槍を手に立ち向か

っていくが、躯になる結果は同じだ。

 浅井残党が温存してきた鉄砲隊は、その真

価を発揮することなく、次々と源心の双角槍

の餌食となっていくのだった…。

 「くそっ、俺が相手になるぞ!」

 たまらず、篠塚が飛び出す。

 奇しくも、その様子は第二砦で渡辺八右衛

門が見せた行動と同じものだった。

 愛用の片鎌槍をしごき、殺戮に酔いしれる

鍬形源心の前に立ちはだかる篠塚。腰を落と

した構えは、すぐに突きかかれる必殺の体勢

を保ち、熟練の技を感じさせた。

 「ほほぉ、ここにも少しは骨のある男がい

るようだな…」

 兵を串刺しにしていた槍を引き抜き、嬉し

そうに鍬形源心が笑う。

 「これ以上の傍若無人な振る舞いは許さん

ぞ。我が片鎌槍の錆にしてくれる」

 「そう言っていた奴が、前の砦にもいたが

な…。お前も同じ運命を辿るか?」

 「わ、渡辺のことか…。俺の親友を貴様が

殺したのか?」

 「見込みのある男だったがな。惜しい人物

を失ったものよ…」

 まるで他人事のように言う鍬形源心。しか

し、渡辺を殺したのは彼なのだ。

 「おのれ、許さぬっっ!」

 篠塚が槍を構えて、突っ込んでいく。

 それを余裕で待ち構える鍬形源心。

 ガキキッッ!

 槍と槍が交差し、激しい火花を散らした。

 片鎌槍の穂先と双角槍の二本の角がガッチ

リと組み、力比べになる。ギリギリと金属が

こすれあい、甲高い悲鳴を上げる。

 「いい腕だ…。だが、まだまだだな」

 「何をっっ?」

 篠塚の身体がフワリと浮いた。なんと噛み

合わさった槍の穂先を支点に、テコの原理の

ように篠塚を持ち上げたのだった。

 「次に生まれ変わる時は、もう少し身体を

鍛えてくるのだな…」

 妖忍と普通の人間を比べても、仕方ないこ

とである。そもそも、力比べをすること自体

が間違っていたのだ。

 「さらばだ…!」

 「うわああっ」

 鍬形源心が槍をシーソーのように使って、

篠塚の頑健な肉体を放り上げた。この時代に

は似合わない一八〇センチメートルの巨体を

軽々と放るとは、恐るべき力である。

 「………」

 スッと槍を立てる源心。その穂先は真っ直

ぐ上を向いている。落ちてくる篠塚の身体を

串刺しにするつもりなのだ。

 だが、その瞬間…!

 ギュウウウウンと唸りを上げ、鍬形源心に

飛んできた物がある。それは高速回転する太

刀であった。

 「何だとっっ?」

 慌てて避ける源心。当然、落ちてきた篠塚

は地面に激突する。それでも、串刺しになら

ずに済んだのだから、幸運である。

 「誰だっっ?」

 鍬形源心が振り向く。

 「そこまでだ…。妖忍…」

 ブーメランのように戻ってきた愛刀の胴太

貫をピシリと受け取る偉丈夫が言う。世に武

芸の達人は多いが、「矢車(やぐるま)」の

秘剣を使える者は一人しかいない…。

 「十蔵…!」

 鍬形源心が嬉しそうに声を上げた。

 「妖忍め…。これ以上の狼藉は許さぬ!」

 双眸に激しい怒りを秘め、十蔵は源心の前

にゆっくりと進み出る。

 「フハハハ…、待ちかねたぞ。雑兵ばかり

で、物足りないと思っていたところだ」

 「随分と暴れてくれたものだな。そのツケ

はしっかりと払ってもらうぞ」

 「いいだろう。お前と戦うことだけを楽し

みにしてきたのだからな」

 「それは光栄だな…。貴様の期待通り、こ

の俺が地獄に送り返してやろう」

 「面白いことを言う。やはり、戦いとはそ

うでなければいかん」

 源心がスウと双角槍を構える。十蔵の力量

を見切ったか、その動きはこれまで以上に洗

練されたものに思えた。

 「……よほど、戦いが好きらしいな」

 十蔵も胴太貫を右八双に構える。幅広い胴

太貫の刀身がキラリと光った。

 「おお、大好きだともっっ!」

 叫ぶと同時に源心が動いた。土煙を上げな

がら、黒光りするクワガタ虫の巨体が十蔵へ

と迫ってくる!

 「てぃやああっっ!」

 突き出される双角槍の穂先を、十蔵が横払

いに胴太貫で弾く。火花が散って、かみ合っ

た刃と穂先が逆ベクトルに跳ね返った。

 「やるな、十蔵っっ!」

 すぐさま槍を引き戻し、横殴りに十蔵へと

叩きつけようとする。しかし、槍は空しく宙

を切る形となってしまう。

 「な、何っっ?」

 ハッと頭上の殺気に気づいて顔を上げた源

心の目に、十蔵の姿が映る。

 「たああっっ!」

 人間離れした跳躍で源心の槍をかわした十

蔵が、胴太貫を空中から振り下ろす。

 ガキィンンッッ!

 「何っっ?」

 今度は十蔵が驚く番だった。

 頭頂部から一気に斬り下ろすはずの一撃は

双角槍に受け止められていた。先刻の位置か

ら瞬時に引き戻すとは、恐るべきパワーと技

量の成せる技と言えよう。

 「死ねええいっっ!」

 そのまま十蔵を串刺すように突き出される

双角槍。だが、十蔵は噛み合った穂先を支点

に、クルリと身を翻すようにかわす。尖った

二本の角を思わせる穂先が、十蔵の背をわず

か皮一枚で掠め過ぎるのだった。

 マット運動の体操選手もかくやと言う飛燕

の技を見せた十蔵が着地する。槍の間合いを

離れた位置であることは言うまでもない。

 お互いに得物を構えたまま、ピタリと静止

したように対峙する二人の戦士。

 この間、わずかに数十秒に過ぎない…。

 「フハハハ…、さすがは十蔵だ。ここまで

楽しませてもらえるとは思わなかったぞ」

 「お互いさまさ…。こっちも、妖忍がここ

までデキるとは思っていなかった」

 「鍛えているからな。武芸の鍛練は一日た

りとて、怠ってはおらぬ」

 自慢するかのように槍をしごく源心。

 「そこまでの腕を持ちながら、何故に妖忍

に身を堕としたのだ?」

 「強さを極めるためよ。そのためなら、ど

のようなことでも厭わぬ」

 「愚かなことだ。真の強さとは、全く別の

ところにあると気づかないのか?」

 「後悔などない。鉄砲のような武器が入っ

てきたせいで、戦いのやり方も随分と変わっ

てしまったからな…」

 微かに遠い目をする源心。

 「十蔵よ…。必死に武芸を磨いてきた武将

が、名もない雑兵ごときに撃ち殺されてしま

うような戦が許されると思うか?」

 「だから、その身体を手に入れたと?」

 「いかにも。この身体には鉄砲玉などは通

じはせぬ。おかげで本当の戦いを楽しめるよ

うになったものだ」

 「本当の戦いだと?」

 「互いに刀を交え、槍を合わせる。それこ

そが武士の本懐。男の戦いとは、そういうも

のでなくてはならん。違うか?」

 「………」

 十蔵は答えなかった。鍬形源心が言わんと

していることは理解できた。彼もまた、一介

の武芸者として同じような考えを抱いたこと

があったからである。

 平安時代、源平の頃より、戦とは作法を重

んじるものであった。士気を高める太鼓を鳴

らし、旗を振り、堂々と名乗りを上げた武士

が一騎討ちで雌雄を決する。勝利を手にした

者は凱歌を上げる一方で、死力を尽くした敗

者に弔いの黙祷を捧げ、その誇りある魂に敬

意を表するのが習わしであった。

 それは、ある意味で「美しい戦い」であっ

たと言えるだろう。

 だが、鉄砲伝来以後、戦場の様相は一変し

てしまった。戦いは「いかに簡単に、大量に

敵兵を殺すか」が目的となった。陣前に進み

出て、名乗りを上げようものなら、その瞬間

に撃ち殺されてしまう。そこには戦いの美学

などは存在しない。いかに相手を確実に仕留

めるかという物理的命題だけが残り、敵の数

をいかに減らすかという数学的論理だけが戦

争そのものを支配していったのである。

 それは明らかに時代の転換点であり、近代

戦争への第一歩となった。無差別に大量殺戮

のみを追究する非情の戦いへと…。

 この時代、多くの武士が変化してしまった

戦争に不満を抱いていた。武士道を重んじる

日本人にとって、「美しい戦い」こそが命を

賭けるに相応しいものだったからだ。彼らに

とっては、鉄砲を使った戦は邪道以外の何物

でもなかったのである。

 そして、時代の流れに逆らい、あくまでも

美学を求めた武芸者の多くは、名もない雑兵

が撃ち放つ鉄砲玉の餌食となっていった。磨

き抜いた技を見せることもなく、戦場に無残

な躯を晒す武将たち。それは、一つの時代の

終焉そのものであった……。

 元亀年間から天正年間へ、すなわち平安時

代から戦国時代への移り変わりそのものに対

する疑念と憤り。技を極め、武道を全うしよ

うとする者たちの共通の意識…。それは鍬形

源心のみならず、十蔵も同じだった。

 「貴様の言いたいことは分かる…」

 十蔵が言う。そして、

 「だがな…」

 と、刀を中段へとゆっくり構えた。

 「妖忍に身を堕とした段階で、貴様は道を

誤った。武芸者としての道ではなく、人とし

ての道をな…」

 「フハハハ…、味なことを言う。確かに武

芸者としての道を極められるのであれば、人

であることへの未練などないわ」

 「武芸者の成れの果てか…。ならば、その

妄執を断ち切ってやろう」

 「望むところよ。こい、十蔵っっ!」

 槍を構えなおす鍬形源心。

 再び、二人の間に殺気と闘気が張り詰めて

いく。すでに先程の戦闘で、お互いの技量は

知り尽くしている。不用意な技を仕掛けたな

らば、返り討ちは必至だった。

 互いに相手の様子を見ながら、ジリジリと

間合いを詰めていく源心と十蔵。

 険道塞の兵士たちも、二人の戦いを固唾を

飲んで見守っている。腕に自信のある篠塚で

さえも、声を出せないほどであった。

 「きえええいっっ!」

 またも先に動いたのは鍬形源心だった。

 一気に間合いを詰め、双角槍を繰り出して

くる。それは、先程までの攻撃と同じような

パターンに見えた。だが…。

 「こ、これはっ…!」

 刀で払いのけようとして、十蔵は慌てて飛

びすさった。その逃げた後の空間を双角槍が

不気味な唸りと共に突き抜けていく。

 ドガアアアッッッ!

 双角槍が背後にあった砦の壁に当たった瞬

間、壁は木っ端微塵に砕け散った。

 「うわああっっ」

 周囲にいた兵士たちの何人かが崩れ落ちる

壁に巻き込まれてしまう。

 恐るべき一撃を逃れた十蔵は、体勢を整え

て刀を構える。さすがに、驚愕の表情を隠す

ことは出来なかった。

 「フハハハハ…。どうした、十蔵?」

 壁の残骸から、双角槍を引き抜いた源心が

クルリと向き直る。

 「……やってくれる…」

 感嘆とも、呆然とも思える口調で十蔵がつ

ぶやく。もちろん、いささかも闘志を失った

訳ではない。

 ヒュオオオオォォォ…。

 源心が構えた双角槍が不気味な唸りを発し

ている。いや、しかも二本の角を思わせる穂

先が霞んだように見えなくなっているではな

いか。唸りは、そこから聞こえていた。

 なんと、源心は槍そのものを高速回転させ

ていたのだ。ボクシングで言えば、コークス

クリューパンチのようなものだ。凄まじいス

ピードで回転させられた二本の角のような穂

先はドリルと化し、標的を一瞬にして粉砕し

てしまうのである。まさに一撃必殺の恐るべ

き手練が成せる技であった。

 「これぞ、伊東流槍術(いとうりゅうそう

じゅつ)秘奥義、『震雷(しんらい)』。十

蔵よ、見事に受けきってみせるか?」

 源心はそう言って、不気味な唸りを上げる

穂先をピタリと十蔵に向けた。

 「そうか。貴様、伊東流だったか…」

 十蔵が得心したようにうなずく。

 伊東流槍術とは、室町時代末期に奥州の蘆

名(あしな)氏の家臣、伊東紀伊守祐忠(い

とうきいのかみすけただ)によって開かれた

流派である。戦国時代には、多くの武芸者を

生み出した名門流派の一つだった。槍の柄そ

のものを金属製の管に通して滑りをよくした

「管槍(かんそう)」を使用するのを大きな

特徴とし、のちに数多くの槍術流派がこの伊

東流から分派していくことになる。徳川政権

時代の尾張藩が奨励した「尾張貫流(おわり

かんりゅう)槍術」などは、この伊東流槍術

の直系とも言える存在である。

 鍬形源心の双角槍も、伊東流の特徴的構造

である「管槍」を用いているために凄まじい

高速回転を実現させていたのだ。無論、誰に

でも出来るような技ではなく、並外れた技量

が要求されることは言うまでもない。

 「いかにも! 十蔵よ、わが伊東流槍術の

餌食となるがいいっっ」

 鍬形源心が突進する。繰り出される槍は凄

まじい突きのラッシュとなり、無数の残像を

描きだしていた。

 ドガガガッッ! バギイィッッ!

 高速回転する穂先がドリルとなって、砦の

壁を突き砕いていく。

 「ちいいっっ!」

 触れれば最後となる猛撃を十蔵は紙一重で

かわしていった。だが、ギリギリの間合いだ

けに服が風圧で千切れ飛んでいく。さらに皮

膚の表面は擦り切れたように、無残に血を滲

ませているのだった。

 一流の武芸者としての正体を表した源心に

十蔵はたちまち窮地に陥ってしまう。

 「どうした? もう後がないぞ?」

 源心が不敵に笑う。いつしか砦の壁が十蔵

の背後に来ていた。槍をかわしているうちに

壁際に追い詰められていたのだ。

 「………」

 十蔵は黙ったままであった。

 「そうか…、観念したと言うのだな。なら

ば、止めを刺してくれようぞ」

 二本の角のような穂先がグルグルと回転を

始めた。風を切るヒュウウンという唸りが辺

りに響き出す…。

 「源心よ…」

 不意に十蔵が言った。

 「何だ? いまさら、命乞いか?」

 「貴様の伊東流が槍術の名門ならば、剣術

の名門は何処か知っているか?」

 「何を言うかと思えば…。そうさな、剣術

の名門と言えば、愛州移香斎(あいすいこう

さい)が創始した陰流ってところか…」

 源心が考えながら、答える。

 「陰流が一番と思うか?」

 「いや、移香斎の技を受け継いだ上泉伊勢

守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が

開いた新陰流…。いやいや、違うな…」

 「ほお、他に知っているのか?」

 「うむ…。上泉伊勢守どのが一般に伝える

ことのないもう一つの新陰流があると聞いた

ことがある」

 「見たことがあるのか?」

 「いいや、その技は一子相伝の奥義と聞い

ている。また、使い手となれるのは万人に一

人もない幻の剣術であるともな…」

 「その名を知っているか?」

 そう問いかけながら、十蔵の目が冷めた輝

きに変わっていく。氷のきらめきを思わせる

ような光が瞳に宿った…。

 「ええ…と、確か、神…。そうだ、神陰流

と呼ばれる剣術だ」

 「そうだ。よく知っていたな…」

 十蔵の声は、氷点下の響きであった。

 目の前にいる十蔵の変化に源心が気づく。

 全身を突き刺すような冷気にも似た殺気が

十蔵から漂ってきていた。殺気と呼ぶには生

ぬるい。鬼気とも言うべき気配だった。

 「ま、まさか…。十蔵、貴様は…」

 鍬形源心の声が上擦っていた。常に戦いを

楽しんできた源心が、初めて「恐れ」という

ものを感じていた。

 「源心…。神陰流は幻ではない…」

 十蔵の身体から、青白い蒸気のような光が

たちのぼる。それは闘いのオーラであり、爆

発的に高まった気が溢れだしたものだ。

 「十蔵、貴様っっ!」

 「見せてやろう。この世に敵なしと言われ

た神陰流の剣を…!」

 ゆっくりと十蔵の刀が上がっていく。刀そ

のものも青白く輝いていた。

 「十蔵ぉぉぉっっっ!」

 鍬形源心が雄叫びと共に、双角槍を繰り出

した。ドリルと化した穂先が迫る。

 それと同時に十蔵が叫んだ!

 「神陰流、斬鬼剣(ざんきけん)!」

 グワッシャアアッッッンンン…!

 凄まじい轟音が響きわたり、青白い閃光が

砦の中に爆発した。

 

 その閃光は、山塞の本営からも見えた。

 「あれは…」

 屋敷の一角にある鐘楼から、南を眺めてい

た海北綱親(かいほうつなちか)が訝しそう

につぶやく。激しく聞こえていた銃声が聞こ

えなくなったので、険道塞そのものが落とさ

れたのではないかと危惧していた矢先の出来

事であった。

 「海北さま。どうされました?」

 そばにいた物見の兵が尋ねる。

 「………」

 海北はもっとよく確認しようと目を細めた

が、南の山並みは無数の火縄銃が作りだした

硝煙の雲に霞み、確認できなかった。

 「気のせいか…。いや、今のはもしや十蔵

どのが妖忍と戦って…」

 誰ともなくつぶやく海北。こうした自問自

答を重ねながら、自分の考えを整理していく

のが彼の癖であった。

 すでに東の砦に出向いた赤尾からは、妖忍

との戦闘に入ったと報告を受けている。そち

らからは激しい喚声と剣戟の響きが聞こえて

きている。その響きの一つ一つが、消えゆく

命の絶唱のように海北には聞こえた。

 「浅井家のためじゃ…。許せ…」

 海北が目を伏せる。常に軍師とは、兵を死

地に向かわせる役回りである。軍を統率しな

ければならない以上、軍師自身はそれを見送

るしかない。戦いに赴く兵たちの後ろ姿を目

に焼けつけ、「自分もいずれ…」と心の中で

詫びる海北であった。

 「申し上げますっっ!」

 伝令が慌ただしく駆け込んできた。その様

子から、只事ではないと分かる。

 「何が起こった?」

 「はっ。西側から、屍人兵が侵入してまい

りましたっ」

 「屍人兵だとっっ?」

 海北の顔色が変わる。東と南から攻めたて

られ、さらに西側からとなれば、まさに山塞

存亡の危機である。

 「はっ。すでに西側第一砦は突破され、さ

らに進行中でございます」

 「数は? 数はどれぐらいじゃ?」

 「確認できておりませぬ。恐らくは千人に

満たぬ数と思われますが、現在の兵力では防

ぎきれませぬっ」

 「何としたこと…」

 海北は絶句し、西へと目を向けた。

 西の空に不気味な妖気が渦巻いている。恐

るべき魔力で冥府から引き戻された屍人兵た

ちが漂わせる気配であろう。

 海北には、それが浅井家の前途を覆う妖雲

と見えるのだった…。

 

                                                      つづく