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ぶらっと茨城





ぶらっと2  五霞町は茨城なの?


 茨城の地図を見ていて、ちょっと気になったことがありました。それは、茨城の南県境のことです。たとえば、利根川をずぅっと 太平洋側から上流の方へ遡って見ていくと、利根川の南側に茨城の県境が食い込んでいるところがあります(逆に千葉県が利 根川の北側に食い込んでいる部分もありますが)。

 全部で2カ所あり、1カ所は、取手市で利根川から1Km南に古利根沼という沼があり、この沼の真ん中を県境界線が走っていま す。これは沼の名前から察するに、昔は利根川がここを流れており、いつからか流れが変わって沼として残り、境界線もこのまま残 ったのではないでしょうか。

 そしてもう一つが、問題の五霞町です。ここは、茨城で唯一、町全体が利根川の南側にあるという変わった場所にあります。ここ も、昔は五霞町の南側が利根川だったのかなと思い地図を見ると、境界線が江戸川と権現堂川・中川の上を通っており、それぞれ、 千葉県・埼玉県との県境になっています。

 恥ずかしながら、就職して仕事の関係で茨城の地図を見ていて、初めて五霞町(当時五霞村)の存在を知り、一度どういうところ か見てみたい、と思っていました。けれど、ひたちなかにいたときは、行ってみたいとは思うものの、実際に行くには遠くて諦めて いたのですが、引っ越した守谷からなら30Km離れているだけなので、この機会に行ってみようと思い、ぶらっとドライブに行き ました。

 守谷から北西へ進み、境町に入り新4号バイパスに乗り、ほんのちょっと総和町に入って新利根川橋(当時有料:普通車200円 →現在無料)を渡るとそこはもうミステリーゾーン五霞町です。最初の印象は周りに建物が無く開けており、なんだかフジテレビが あるお台場に来たような妙な感じになりました(田舎なんだけど寂しい都会に来たような、陸の孤島のような、そんな感じなんです )。

 ここには、江川工業団地を代表とする3つの工業団地があり、キューピー工場など多くの企業が誘致されて町税を潤していると思 われますが、しかしそれ以外にこれといって特徴があるかといわれれば、なんと答えてよいか分からない普通の田舎の風景がそこに は広がっていました。

 川を隔てた県境の場合は、陸続きの県境と違って、川があり川岸という特定の猶予エリアがある分、ここが境目なんだという意識 を私たちに植え付けますが、ここは利根川を渡っても、まだ茨城。東京という都会に近づいているはずなのに、まだ茨城。そんな不 思議な場所にある五霞町はそれでも町を活性化させようとがんばっている町にも見え、それが利根川を超えて都会に近づこうとして いる町のようにも見えてきます。

 このあたりは、もう少し北西に行くと栃木県や群馬県の県境もあるので、その辺の影響もこの五霞町の成り立ちに何らかの影響が あるのではないかな、などと想像をめぐらせてしまいます。

五霞町の謎は解けるのか?


 前回、五霞町探訪をしたときは、いくつかの謎が浮かびましたが、結局、謎が解けぬまま、後ろ髪を引かれる思いで家に戻りまし た。その思いは一週間たっても消えず、家で改めて五霞町周辺の地図を見て見ました。前回の訪問で生まれた最大の疑問は、何故、 五霞町だけが利根川の南にあるのに茨城県なのか、ということです。この疑問を解明するため、再度、五霞町を訪ねる事にしました。

 早速、車に乗り、ナビを五霞町にセットするのですが、どこの場所にセットしようかと画面を見ていると、「JAカントリーエレ ベーター」なる名称が私の目に飛び込んできました。「カントリーエレベーター」?なんだそれは。JAということは農協のことだ よな。なんで農協がエレベーターなんだ?農協がエレベーターを作っているのか?しかも、カントリーエレベータとは???とにか く、ここを到着地点に指定し、いざ、五霞町へ。

 新利根川橋を渡って五霞町に入り、例の意味不明の到着地点へ向かって車を走らせていると、何故か、というか当然というか、ど んどんと車は畑の中に向かっていきます。ちょっと、不安を覚えながらも、畑の真ん中に建物らしきものが見えてきました。やがて ナビは「まもなく到着地点です。」と告げました。やはり、ここです。しかしそこにあるものは、サイロをちょっと大きくした塔の ような建物と倉庫らしきものがあり、それが塀で囲まれているだけで看板にはカントリーエレベーターのカの字もありません。



     
これが噂のカントリーエレベータ                      おやっ, あの看板は

 後で知ったのですが,米麦の乾燥,調製,貯蔵に利用する施設は総称して「米麦乾燥調製貯蔵(貯留)施設」と呼ばれるそうです が,「カントリーエレベーター」は,収穫した米をここで一時貯留/乾燥/調整/貯蔵/精米出荷という一貫作業を行うところ だそうです。カントリーエレベーターを導入することにより,お米は籾のまま,生きた状態でサイロに低温貯蔵され,注文を受 けてから籾摺りを行って出荷するので,鮮度の高いお米の出荷ができると言うことだそうです。

 さて、カントリーエレベーターを離れ,細い農道を北に進むと,利根川の土手が見えてきました。土手の前に小さい駐車場があっ たので,車を止め,土手の階段を上りきると,利根川が現れました。その日は,曇りで、時々小雨がぱらぱらと降ったり止んだりを 繰り返していた天候だったため,あまり見晴らしは良くありませんでしたが,霧が少し掛かっていて,穏やかに流れる川面に趣を感 じました。

 土手には休憩所があり,そこから少し離れた場所に看板がありました。何気なくその看板に目をやると,興味深い内容が書かれて いました。



利根川の東遷と赤堀川の開削

   利根川は過去幾度となく治水や舟運などを目的にして流路が変更されてきました。  
  もっとも盛んに行われたのは、徳川家康が江戸に入府してからです。江戸は洪水か   
  ら守ることを目的に、それまで東京湾に注いでいた利根川の主流を新たな河道の開   
  削などにより銚子沖に流れるようにしました。このことを一般に”利根川の東遷”   
  と呼んでいます。その代表的な事業の一つとして、この五霞町地先で行われた赤堀   
  川の開削があげられます。                            
   赤堀川の開削は、江戸時代初期、徳川幕府(三代将軍家光の頃)によって行われ   
  ました。当初その幅は、7間程(約13m)でしたが、幾度かの拡幅を経て江戸末   
  には40間(72m)となり、利根川の主流としての形が整いました。        
   その後、昭和の初期に、権現堂川の呑み口を締切ると共に大規模な築堤(引堤)   
  工事が行われました。                              
   こうして、赤堀川が、現在の利根川本流に生まれ変わったのです。         
                                          
                    −五霞町山王山 利根川河川敷看板より−   
 


 看板には周辺地図も書かれており、五霞町の北境界線を走る部分(つまり、今私の目の前を流れている利根川)が赤線で書かれて おり、「赤堀川」と書かれています。

 ここに書かれている内容は、私にとって驚きでした。利根川が銚子に流れ着いているのは、長い年月をかけて自然にそうなったと 思っていたからです。そうではなく、利根川は昔、東京湾に流れていたが、幾たびか洪水が起こり、江戸の町が水没したため、赤堀 川を掘って、その水の流れを変えた、というのです。

 と言うことは、五霞町から銚子まで赤堀川(利根川)を”掘った”のでしょうか?いやいや、そうではないでしょう。看板の地図 には五霞町の利根川の部分だけが赤線(赤堀川)になっています。それでは、昔は江戸川の流れと利根川の流れの2本が、平行して 走っていたのでしょうか?それとも、利根川が銚子から五霞町の近くまでは流れていたのでしょうか?そしてその間を赤堀川を掘っ て”繋いだ”ということなのでしょうか?

 そのことによって、五霞町は茨城から”分断”されたのでしょうか?


     
全てはこの看板が始まりでした
                       土手から利根川を望む   

川に囲まれている町


 利根川の土手に設けられた看板から、今は五霞町の北側に利根川として流れている部分が、かつて人の手によって掘られた赤堀川 という人工の川だったことが分かり、五霞町が持つ茨城における地理的な特異性についての”謎”の大きな手がかりになりました。

 それならもっと詳しく赤堀川についての情報を知りたい、と思い、町内に図書館(資料館)はないだろうかと地図を見ましたが、 どうやら、五霞町にそれらしい場所はないようです。五霞町の境界線をぐるっと目で辿ると、東側の境界線沿いに走る江戸川の向こ う側、つまり、千葉県関宿(せきやど)町に「関宿城博物館」な るものを発見。ここに赤堀川の情報があるのではないかと思い、行ってみました。




”関宿”城博物館前の公園は”五霞町”です


 千葉県立関宿城博物館は、関宿町の利根川と江戸川の分岐するスーパー堤防上に「河川とそれに関わる産業」をテーマとして平成 7年に開館されました。建物の外観はまさに「城」そのもので、完成してからそれほどの年月が経っていないためか、真っ白な外壁 がとても美しく光っています。受付に行くと入場料は無料(特別展開催時は有料)と書かれており、早速中に入ってみました。

 内部は4階建てで1・2階が展示室、3・4階が展望室になっており、展示内容は、当然の事でありますが、関宿市(関宿藩)か ら見た河川改修の歴史を追った内容になっています。順路に沿って一つずつ展示品を見ていくと「近世の利根川・江戸川の洪水と治 水の歴史」というコーナーがあり、そこには5枚のパネルが並んでいました。

 それによると、江戸時代以前(1594年以前)は利根川〜古利根川・渡良瀬川〜太日川・鬼怒川は別水系の河川で、当時の利根 川は、古利根川の流路をたどり、現在の墨田川筋から東京湾に注いでいたそうです。当時の利根川は現在の羽生市で東(浅間川)と 南(会の川)の二手に流れが分かれ、川口市で合流していましたが、1594年に南に流れる会の川の入り口をふさいだことにより、 利根川の流れが一本になり、東に移動する契機となりました。

 そして1621年、浅間川と渡良瀬川とを結ぶ新川通と、渡良瀬川と常陸川(現在の利根川と思われる)とを結ぶ赤堀川(備前堀) とが相次いで開削され、これにより、利根川はどんどん東を流れる川とつながり、銚子に流れ着くルートができあがりました。おそ らく、この頃、浅間川〜古利根川は細流または廃川になったと思われます。

 やがて、1641年に関宿町から当時太日川が流れていた現在の野田市まで台地の開削工事が完了したことで、上流から野田市ま での太日川は、細流又は廃川になり、関宿町を分岐点として利根川から東京湾に注ぐ江戸川が誕生したのです。

 最後のパネルは、1926年に利根川と江戸川の分岐点に関宿水閘(すいこう)門が新設され、ここで江戸川の水量調節を行って いるとのことを示しています。また、権現道川はこの年に江戸川側を締め切り廃川とし利根川・江戸川は現在の姿となったというこ とです。

 この博物館を訪ねて初めて、江戸やその周辺の洪水を防ぐために、江戸時代以前から多くの人の手によって、利根川の流れが幾た びも変更されてきたことを知り、大変驚きました。そして、赤堀川だけでなく新川通や江戸川の一部なども人工的に作られた川であ ることも分かりました。


     
無料で見学できる関宿城博物館                  博物館から利根川 と江戸川の分岐点を見る

 博物館を出て、敷地内にある公園から利根川と江戸川の分岐点に目をやると関宿水閘門が見えます。目の前に広がる江戸川を渡ら ずして、城と公園がある高台からすぐなだらかな斜面を降りた灌木が生い茂る三角州地帯は五霞町エリアになっています。釣り人や アウトドアなどを楽しむ人々の車が何台か停まっているのが見えます。

 昔はこの境界線(つまり今私が立っている公園)を川が流れていて、今の江戸川の入り口から今の関宿橋があるところまでを逆川 といい、権現堂川(昔は権現堂川は今の関宿橋まで流れていたらしい)の水がそのまま江戸川に流れていたですが、その水を減らす ために、関宿橋付近の江戸川の入り口を「棒出し」と呼ばれる方法で狭くし、権現堂川の水を逆川を通して利根川に流入させていた のです。やがて昭和4年に現在の関宿水閘門が出来たというのです。

 車に乗り、改めて地図を広げてみました。赤堀川の成り立ちに関してこの博物館で疑問が氷解し、また利根川の流れの変遷につい て大変興味深い事実が次々と明るみに出て、たくさんの収穫がありました。それでは、五霞町の南を流れる権現堂川と中川はどうで しょうか。先ほど博物館で見た5枚のパネルの4枚目に急に権現道川の流れが出現していました。そして今では、まるで役目を終え たかのように五霞町の南西部で急に水流が細くなっています。

 

権現堂川も、「人工の川」?


 さて、関宿城博物館を出発した私は、元来た道を引き返しながら、関宿橋を渡り、中川沿いに車を走らせました。途中、幸手工業 団地を抜けながら、日光街道(国道4号)に入り、約1km北へ進んだところで車を止めました。

 ここはちょうど中川と権現堂川の合流点で、大きな水門があります。中川の土手はジョギングコースになっており、両側には桜の 木が空を覆うように伸びています。”権現堂の桜”として有名なこの場所は、春になると、満開の桜を見る人で賑わうそうです。

 水門の上の道路を走り、権現堂川をまたいで五霞町側に渡り、そのまま権現堂川沿いに北上すると左側に橋が見えてきました。橋 のたもとに看板が有るのを見つけた私は、近くの公園の駐車場に車を止め、看板を見に行きました。すでに、時刻は夕方、夕日で看 板がオレンジ色の光で反射しています。

    
看板は色々なヒントを教えてくれます。                     まさかダムの役目をしていたとは・・・



権現堂川と舟渡橋
                                        
  権現堂川は寛永18年、利根川が改修工事で大日川(現渡良瀬川)に合流された後、
 出水時にはたびたび島中領内で氾濫するため、その対策として人工的に開削されたと 
 言われています。その後江戸時代から昭和の初めまで、江戸への重要な水上交通の場 
 として大きな役割を果たしていました。
  権現堂川沿いの五霞村をはじめ、埼玉県幸手市、栗橋町には、船の行き来が激しく 
 なるにつれて多くの河岸場(舟の港)がみられました。特に権現堂川河岸は,多くの 
 廻漕問屋が並び、上り荷は年貢米等の穀物類・木材・砕石等を、下り荷は、塩・日用 
 雑貨・肥料等を扱い、高瀬舟をはじめ数多くの船が往来していました。また川を往来 
 したのは、荷物だけではありませんで人々の往来にも川が利用され、人々の重要な足 
 となっていました。しかし、鉄道道路輸送の発達により、舟運が衰え、昭和初期、権 
 現堂川の廃川により、河岸もその機能を果たさなくなってしまいました。      
  今はその役割を替え昭和47年に始まった中川総合開発事業(昭和46年一級河川 
 権現堂川に指定)によって生まれ変わり、多目的ダムとして地域社会の発展に大きく 
 貢献しています。                               
  舟渡橋は、このような文化と歴史の名残深い橋として人々に親しまれており、この 
 橋の文化により、一層「過去との出会いの場」「親しみのある権現堂川」となるもの 
 と期待しております。                             
                                        
                        平成4年3月  五霞町・幸手市

 初冬を迎え、寒さが身にしみてくる夕方、舟渡橋の看板を読み終えた私は、ある種の不思議な想いが湧き起こってきました。赤堀 川・逆川・江戸川ときて、権現堂川までもが、洪水防止のために人工的に作られた川であった事が分かったからです。権現堂川と言 うものの、実際はダムの役目を負っていたとは。

    
夕焼け色の舟渡橋                          満々と水を溜 める権現堂川


 最後に、権現堂川と利根川の分岐点を見に行こう、と思い、車を北に走らせました。まもなく日が暮れようとしています。しかし、 地図上では、分岐点は細い線が水色で書かれているだけです。用水路のようになっているのでしょうか。果たして見つけることが出 来るのでしょうか。

 車を利根川の土手に停め、分岐点を探しました。ナビは分岐点のすぐ近くを指しています。しかし、それらしいものが見あたりま せん。車を降り、利根川のほうを見ると、小さな搭が見え、その下に小さな水門がありました。どうやら,ここが分岐点のようです。


 ふとした興味から五霞町を訪れ、最初は、只の小さい町にしか思っていませんでしたが、一つの看板を見つけたことがきっかけで 、ここまで、まさに当の本人の私も予期していなかった展開になってしまうとは。ただただ驚くばかりです。五霞町の名前の由来は はっきり言って調べていませんので分かりません。これは私の予想ですが、五霞町の五とは赤堀川(利根川)・逆川・江戸川・中 川・権現堂川という5つの川を指しているのではないでしょうか。そしてその周りに立ちこめる”霞”を表していると思います(本 来、”霧”の方がぴったりくるかもしれませんが)。ちょっと、苦しい解釈かもしれませんが、だれか、本当の五霞町の名前の由来 をご存じの方がいましたら、メールをお待ちしております。

 
ここが権現堂川と利根川の分岐点・旅の終点です。