日本史


籠渡しや野猿はさておき、日本における近代索道の技術は最初、諸外国 から輸入されたようです。
1870年台、灯台建設や鉱山発掘に当たり、外国人技師の手により 架空索道が架設され利用されていました。
そして1890年、足尾銅山の細尾峠に日本で最初の本格的架空 索道(貨物)が米国人技師によって架設されました。 やがて、当時足尾銅山に入山していた玉村勇助氏が玉村式索道を考案、 後に玉村工務所を設立し日本の近代索道の道を開きました。
また1916年には安全索道商会が創業、ドイツの技術を導入した 索道を開発、玉村式とともに各地に普及しました。
こうして外国から輸入された貨物索道は日本の技術として急速に発展し ていったのですが、ただ、この技術を旅客索道に利用するにはまだ少 し年月が必要だったようです。

1912年、大阪の新世界ルナパークに4人乗りの複線交走式 索道が登場しました。このロープウェイはセレッティ・ タンハニ社がミラノ博に出展したもので、娯楽設備として大正末ころまで 運行されました。また1914年、東京上野で開催された大正 博覧会にも空中ケーブルカーが架設されましたが、ルナパークのものと 同様に興行的要素が強く、これらを実用化しようとする動きはみられま せんでした。

本格的な旅客索道の研究が始まったのは1920年台に入ってからの ことです。そして1927年、日本で最初の旅客索道(人々の足 となって輸送するという意味での)が三重県熊野街道矢ノ川峠に架設され ました。この索道は世界で初ともいえる単線自動循環式 のゴンドラで、およそ10年間運転されたそうです。
その後、1944年の不要不急の取扱いの時点まで愛宕索道(福岡)、 叡山索道(京都)、吉野山索道(奈良)六甲登山索道(兵庫)等計10線 が開通しましたが、自動循環式は矢ノ川索道ただ1線で、あとはすべて 交走式索道でした。

戦後になると、スキー場にチェアリフトが架けられるようになりました。 1946年、札幌の藻岩山に2人のスキーヤーが背中合わせに乗車 するちょっと変わった搬器の複線自動循環式 索道が米軍用として架設されたのが日本のチェアリフトのはじまりです。
その後、志賀、湯沢、赤倉、池の平等にもスキー用のチェアリフトが 架設されましたが、いずれも単線自動循環式貨物索道のバケットを椅子に 改造したものでした。
1948年に草津スキー場に架設されたチェアリフトはハリジー式 の固定循環式で、一般的にはこの方式の索道が受け入れられたようで、前述 のチェアリフトもすべて固定循環式に改築されました。

矢ノ川索道以来、自動循環式の旅客索道は姿を見せませんでしたが、線路の 長大化、輸送力増大の必要性から、複線自動循環式の研究が進められ、 1956年蔵王高原に6人乗りの3線自動循環式索道が開通しました。 この種の索道は規則の制約が多い中、1970年まで16線が開通しましたが、 交走式の大型化、高速化や単線自動循環式の導入が進められるとしだいに姿を 消していきました。
1973年に日本で最初の単線自動循環式ポマ・テレキャビンが長野県 の五竜遠見に導入され、本格的単線自動循環式旅客索道の幕開けとなりました。

今日、日本では166人乗りのロープウェイ、12人乗りのゴンドラ、 4人乗り固定循環式チェアリフト等、輸送力の増大が進められる中、 単線交走式のロープウェイ、固定循環式ゴンドラ等、その地形及び用途に あった索道の開発も行われ、多種多様な索道の時代に入ったといえる でしょう。
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