橘屋黒曜堂 5000Hit記念 ジェット機「橘花」 編
音速の壁の、遥か手前で。


起。
レシプロのつばさ
1903年。12月17日。
米国、ノースカロライナ州。キティホーク海岸。

言うまでもない。
ライト兄弟の初飛行の日。
たかだか340kgの機体を、わずかに12馬力のガソリンエンジンで…飛ばしたのか浮かせたのか、良くわからないが。
とにかく、この偉大な1歩を進めた原動機は、レシプロエンジンであった。
早い話が、自動車用エンジンと同じである。
ガソリンの爆発エネルギーを、往復運動にし、クランクシャフトで回転運動に変換し、プロペラをぶん回して空を飛ぶ。
それから数十年はそういう時代であった。

第一次世界大戦をはさみ、航空機の性能は大幅に上昇した。
1930年代も末になると、例えば我が零戦で533km/hの速力を持つ時代がやってきていた。
そして。航空機の性能上昇と平行して、技術者のあいだには一つの危機感が大きくなっていた。
「レシプロエンジンとプロペラでは、800km/hの壁を越えることが出来ない」と。

レシプロエンジンは軸を回す機関だから、どうしてもプロペラで推進力を得なくてはいけない。
高速を出す−つまり大推進力を得るためには、プロペラの回転速度を上げるか、プロペラの直径を大きくするか、ということになる。
プロペラの回転数をどんどんどんどん上げ、プロペラの直径をずんずんずんずん大きくすると、 …ある日プロペラの先端の速度が、音速に達する日がやってくる。
プロペラ先端が音速に達すると、そのあまりの速さゆえ、プロペラは空気を切り裂くついでに空気を圧縮して、衝撃波を発するようになる。大馬力のエンジンでプロペラを回しても、プロペラの回転は衝撃波を発生することに費やされ、プロペラをより速く回すことが出来なくなる。
機体はプロペラ回転先端よりもずっと遅い速度でしか飛びようが無い。かくしてレシプロ航空機の速度は800km/hで頭打ちになってしまう、というのである。

難問、なのだった。


承。
ジェットのつばさ
1941年。11月25日。独逸。

世界初の実用ジェット戦闘機、「Me262」が、初飛行に成功した日。
第二次世界大戦は、既に始まっていた。
同機があまりに高性能を示してしまったため、戦闘機ではなく戦闘爆撃機(敵機を墜とすだけでなくて爆弾も落とせるヒコーキ)として使いたいと基地外髭親爺が思い付いてしまい、Me262の開発はそれから紆余曲折を経る。そして大戦末期の独逸の空を華やかに舞い、連合軍のレシプロ機に隔絶する性能差を見せ付けたが、活躍の舞台は既になくなっていたのであった。

ジェットエンジンは、要するに燃料の爆発をそのまま噴出させて推力を得る。
エンジンの口から取り入れられた空気は、回転式のコンプレッサで圧縮された後に燃焼室に送られ、燃料と共に爆発して後方に噴出する。排気は出て行くついでにタービンを回して行き、タービンの回転で前のコンプレッサが回される。
レシプロ&プロペラと違って燃料の爆発エネルギーを直接に推力とするため効率が良い、のみならず、プロペラが無いのだからプロペラ先端が音速を超える心配も無いので800km/hの壁は存在しない。さらには10000m級の高々度で、レシプロエンジンが圧縮吸気をする手段(ターボチャージャーなど)なしでは飛んでいるのがやっとであるのに対し、ジェットエンジンは自前の圧縮機で思う存分に飛行できる。レシプロエンジンに比べて圧倒的に有利なエンジンである。
ただ、エンジン材料は高温にさらされ、回転数は10000rpm、タービン翼には排気の圧力と回転の遠心力で途方も無い力がかかる。
そんなモノの設計・製作を行うことが、いまだ困難極まりない時代であった。
Me262
ジェットの翼。メッサーシュミット262。
推力900kgのジェットエンジンを2発積んで、最高速度は870km/hである。
世界初の実用ジェット機であり、性能的にも優秀であった。
設計的には他国を数年は先取りした革新的なものであった。
独逸の科学力は、まともに使うと半端でないのである。
それにしても、独逸機の迷彩は基地外だ。


転。
旭日のつばさ
昭和16年。12月8日。

太平洋戦争が、我が海軍の真珠湾攻撃で始まる。
戦場で最強の兵器は航空機だと、誰の目にも明らかになった日であった。

開戦から半年も経たぬうちに日本軍は守勢に回り、ずるずると敗退を続けているうち、本土上空にB-29の姿を見る次第となりつつあった。
10000mの高空を飛行するB-29に対し、高射砲は全く届かず、ターボチャージャーのない日本のレシプロエンジン搭載機では、迎撃できる高度まで上昇することすら困難であった。
そのため、高々度で高速を発揮してB−29を迎撃可能な、ジェット戦闘機の開発が切望されていたのである。高々度迎撃の必要だけでなく、ジェットエンジンならば「血の一滴」のガソリンを必要とせず、貴重な特殊材料の使用を局限できる、と信じられたこともあった。
技術も資源も乏しい日本ならではの事情ではある。(これで近代戦が勝てる筈も無いのだが。)ジェット燃料はそれはそれで貴重なものであり、ジェットエンジンの方が特殊材料を必要とする、ということが判明するのは開発が進んでからの話となる。

日本でも海軍航空技術廠(空技廠)が中心となって研究開発が進められていたが、その頃、波涛万里を遥か、我が伊号潜水艦が日独連絡任務に成功し、独逸からジェット機の技術資料を持ち帰る成果をあげた。
そこで昭和19年8月、Me262を「参考にして」機体とエンジンが設計されることになった。
機体は中島飛行機(現富士重工)、エンジンは設計を空技廠、製造を石川島重工(現IHI)が担当することとされた。

しかし。
何よりも技術力の不足から、自主製作の「ネ20」エンジンは原形の半分の500kgの推力しか望めなかった。最大速力も677kmと、レシプロ機より遅いジェット機になると予測された。
これではB-29の迎撃どころではないが、特別攻撃機「橘花」として設計が進められた。
…日本最初のジェット機は、特攻機として造られたのである。
性能が機体に及ばないことを知った陸軍は「橘花」を諦め、新たにキ201「火龍」を設計しだした。(こんな連中がいて、戦争に勝てる方がおかしいのである。)

それからの1年間の、技術者の苦闘は察するに余りある。
吹き飛ぶタービン、矢の如く飛び散るタービン翼、爆発するエンジン、相次ぐ空襲、不足する食料。
そして何よりも、技術力と材料資源の不足。
連日、上空にはB-29が銀翼を連ねて飛行していた。

昭和20年6月25日。
中島飛行機小泉工場の疎開先の養蚕小屋にて、「橘花」試作1号機が完成した。
橘花3面図
我が国最初のジェット機、「橘花」。
「富士重にポルシェを作らせるとこうなる」というジョークがあったりする。
確かに全くのオリジナルではないが、本機を完成し得たのは独逸側資料入手前に
相当にジェットエンジンの研究が進んでいたお陰である。


結。
折れたつばさ
昭和20年。8月7日。木更津飛行場。

もはや絶望的な戦局の中、「橘花」の非公式初飛行が行われた日。
極端な資源不足と短工期のため、主車輪は零戦のものを流用、機体各部には鋼板や木材が使用され、燃料は悪名高き松根油であった。テストパイロット高岡中佐は効きの悪いブレーキの改修と離陸補助ロケット装備位置の変更の2点のみを求めたが、それすら受け入れられなかったと伝えられている。
午後1時。真夏の太陽の下、エンジン点火。ジェットエンジンの爆音が木更津の空に響きわたる。
エンジンフルスロットル。滑走開始。機体は滑走路を800m滑走し、やがて地上を離れ、蒼空を一直線に翔け上がっていった。
「橘花」は離陸を果たした。
日本の空に、初めてジェット機が舞った瞬間であった。
12分間の初飛行を成功裡に終えた「橘花」は無事着陸し、10日に予定された公式初飛行に備えて整備が進められた。

10日の予定は空襲で延期となり、翌11日、悪天候の中で決行されることになった。
今度は燃料を満載、離陸補助ロケットを装備しての飛行である。
午後3時、エンジンが点火され、「橘花」は滑走を開始した。3秒後に離陸補助ロケットが点火し、さらに機体を加速させる。
補助ロケットが燃え尽きた瞬間。突然加速が鈍り、危険を感じた高岡中佐はエンジンを停止してブレーキをかけたのだが。
ブレーキの能力不足で機体は滑走路をオーバーラン。海岸の浅瀬に突っ込んで破損してしまった。
ただちに次の試験飛行に向けて修理が始められた。

そして、運命の8月15日がやって来た。

橘花
何か悔しいので「橘花」に信州の空を飛ばせてみた。
例によって、塗装はいいかげん。


「橘花」。ただ1度、日本の空に舞ったつばさ。
戦争末期の混乱の中、たった1年間で、ジェット機という全く新しい機体を作り上げたことは、日本航空技術史の記念碑である。
1年間の死闘は、戦争には何も寄与しなかったけど。
今。日本の重工各社は、世界有数の技術でジェット機を作っている。


<参考文献>
「図解 世界の軍用機史」 野原茂 グリーンアロー出版社
「日本海軍軍用機集」 野原茂 グリーンアロー出版社
「飛行機メカニズム図鑑」 出射忠明 グランプリ出版
「エアワールド別冊 第二次大戦日本海軍機写真集」 エアワールド
「航空ファンイラストレイテッド 日本海軍機全集」 文林堂
「航空ファンイラストレイテッド 日本陸軍機全集」 文林堂
「ジェットエンジンに取り憑かれた男」 前間 孝則 講談社文庫

*このページの図版は、全て上記参考文献から模写したものだったりします。



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