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Last update : 2000.07/15
戦時標準船概説
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戦時標準船とは?
ここで言う戦時標準船とは、太平洋戦争中の日本で、 量産を目的に計画・建造された船舶です。
船腹需要の激増に伴い、船舶増産を実現するための船型で、 国家の規格により同型船を計画建造することで、 建造に要する時間の短縮と資材調達の便を図る目的がありました。
第二次以降の戦標船では量産性向上と資材節約のため性能・構造・艤装が大幅に簡易化され、 特に速力・耐用年数・信頼性を忍んでいます。
戦時標準船は第4次までの計画があり、大きく分けて27種の船型が計画されました。 終戦までに完成したのは1000隻余りです。
この他に鉄道連絡船や陸軍の特殊船など11種44隻、 エンジンを持たない被曳航油槽船50隻、 漁船、木造船、はしけ、コンクリート船などが建造されています。


第一次戦時標準船
戦前の海軍の目論見では、戦争中の船舶被害見積もりは、「開戦第一年度:80〜100万総トン、 第二年度:60〜80万総トン、三年度以降:40〜60万総トン」というものであり、 開戦当所の保有量630万総トンに加え、造船能力は 「開戦第一年度:45万総トン、第二年度:60万総トン、第三年度:80万総トン」 というものでした。つまり造船に関しては、戦前からある能力をそのまま使っていれば十分で、 戦争をしている間に船腹はむしろ増加するつもりだったわけです。 これが全く甘きに過ぎる予想であったことは、諸兄も御存知の通りとなります。
開戦に伴い、商船建造は計画造船として国家の管理下に置かれ、海軍の所管するところとなりました。 その最初の実用的な計画が昭和17年4月の「改四線表」であり、 同計画中で決定された戦時標準船が、「第一次戦時標準船」です。
早急に新たな標準船型を定めることは困難だったため、10種類の第一次戦標船のうち、A〜Fの貨物船6種は 昭和14年に船舶改善協会の手で策定された平時標準船そのままであり、 鉱石運搬船・油槽船は当時建造中の続行船の中から適当なものを選んで若干の改正をしたものでした。
工事の簡易化・材料規格の統一・補機部品の統一などの面で一応の配慮がなされていましたが、 戦後経営の観点から優秀な性能を与えられており、大量建造に適した船型ではありませんでした。 このため戦況の進捗に伴って繰り返し簡易化が実行され、第二次戦標船へ移行することになりました。

船型
船種
総トン数
(トン)
主機
主缶
出力 (HP)
最大 / 経済
速力 (kt)
公試 / 航海
航続距離
(浬)
1A
06400
レシプロ
2号円缶*3
3600 / 000?
15.0 / 12.0
0000?
1B
04500
タービン
2号円缶*2
2200 / 1800
15.5 / 12.3
08000
1C
02700
レシプロ
3号円缶*2
2000 / 1500
13.8 / 11.0
04000
1D
01900
レシプロ
5号円缶*2
1200 / 0900
12.2 / 10.0
03800
1E
00830
ディーゼル
-
0750 / 000?
12.4 / 10.0
07200
1F
00490
ディーゼル
-
0600 / 000?
12.0 / 10.0
0000?
1K
05300
レシプロ
2号円缶*2
2400 / 1600
14.2 / 10.5
07500
1TL
10000
タービン
21号水管缶*2
8600 / 6500
18.2 / 15.0
10000
1TM
05200
タービン
2号円缶*2
3300 / 2500
15.3 / 12.5
06700
1TS
01010
レシプロ
7号円缶*2
1050 / 0800
12.0 / 10.0
0000?

<1A型・1B型>
南方内地間輸送、日満華輸送に充てる一般貨物船(General Cargo Carrier)であって、 船体中央機関で三島型と、特徴のないのが特徴です。 1Aは川南工業香焼島造船所、1Bは浦賀船渠にて設計され、 それぞれ9隻、16隻が建造されました。

<1C型>
日満華輸送を主目的とし、船体中央機関で三島型、 機関室より前方に第二甲板(中甲板?)を持っていました。 日本鋼管鶴見造船所にて設計され、中堅造船所を中心に34隻が建造されました。

<1D型>
重量物運搬をを目的とした船型で、船型は船尾機関式、長大なハッチと広い船倉、ヘビーデリックを備えており、 このため多くが軍に徴用されて大発や車両など重量物の運搬に重用されました。 日本鋼管鶴見造船所が設計をし、22隻が完成しました。 戦時標準船としては最も好評を受けた船型であったと伝えられます。

<1E型・1F型>
内地沿岸、朝鮮内地間、南洋局地間の雑貨輸送を目的とした船型であり、 戦前の海上トラックに相当する要目を持っています。 船型としては1Eが船体中央機関の三島型、1Fが船尾機関船型でした。 それぞれ尼崎船渠、三菱重工下関造船所が設計しましたが、 建造した造船所は小造船所が多く、各13隻、21隻が竣工したにとどまりました。

<1K型>
中国の大治と八幡製鉄所間の鉄鉱石輸送を目的としましたが、 後に海南島の楡林にも行くこととされました。 上記2港で陸上課役施設に相違があるため若干の問題を生じたようです。 船型は船体中央機関で三島型でした。 三菱重工神戸造船所で設計され、20隻が竣工しました。

<1TL型・1TM型>
南方からの油輸送を目的とした船型で、Dirty TankerとしてもClean Tankerとしても 使用できるように設計されていました。 1TLは艦隊随伴給油用に使うことも考慮されていました。 1TLが播磨造船所、1TMが三菱横浜造船所で設計され、 19隻、26隻が完成しました。

<1TS型>
南方局地間、内地沿岸用のタンカーで、Clean Tankerとしても使用するようになっていました。 浪速船渠にて設計され、船舶修繕を主とする造船所で建造されたため 建造数は5隻で終わりました。


第二次戦時標準船
昭和17年後半、米国潜水艦の活動の活発化とガダルカナル島での戦いにより船舶の被害が急増し、 月間商船喪失量が15万トンを超えるようになりました。 しかし建造実績は全くの不振であり、 船腹の不足が戦争遂行のための重大な障害となることが予想される状態になりました。
これに対応するため、昭和17年12月の「改五線表」で第二次戦時標準船が決定され、 続く昭和18年3月の「改六線表」で、昭和18年度の商船建造量を120万総トンとしました。 第二次標準船の設計では、建造に要する時間の短縮と資材の節約を図る目的で、 性能・構造・艤装が大幅に簡易化され、以下のような特徴があります。

・戦後の問題はもはや考慮する余裕がなく、ただ戦争遂行のみに目的を置く。
・特にエンジン供給能力が追いつかないので、機関出力を下げ、速力は最低限度で忍ぶ。
・設計寿命を10年以下とし、その分だけ板厚を減らして資材を節約する。
・肥えた船型とし、船体構造・機関の重量軽減とあいまって載貨重量を増す。
・加工に時間のかかる船体外板の二重曲面を廃して平面による構成とし、平行部を長くする。
・資材節約と工期短縮のため、二重底を廃し、船尾機関船型とする。
・シア、キャンバー、ライズオブフロアを廃す。
・各部の寸法を標準鋼板寸法に合わせて設計する。
・居住設備を始めとして艤装を大幅に簡易化する。

かくして徹底的量産主義で劣速劣質な5種類の第二次戦時標準船が出現し、 続行船・第一次戦時標準船を早急に打ち切り、 国を挙げての船舶増産に務めることとされました。 また既設の造船所設備の拡張を行う他、改E型量産専門の4工場と、 戦時標準船の量産を主目的とする大工場の新設が実施されました。
昭和18年はこの計画でほぼ順調に推移し、 結局、第二次戦時標準船は戦時計画造船の主力船型となったのでした。

船型
船種
総トン数
(トン)
主機
主缶
出力 (HP)
最大 / 経済
速力 (kt)
公試 / 航海
航続距離
(浬)
2A
06600
甲25型タービン
2号円缶*2
又は22号円缶*2
2500 / 1800
13.1 / 10.0
10500(重油)
04000(石炭)
2D
02300
レシプロ
2号円缶*1
1100 / 0900
11.5 / 09.5
4000
2ERS
00870
レシプロ
7号円缶*1
0450 / 0330
08.8 / 07.5
2000
2ED
00870
ディーゼル
又は焼玉機関
0400 / 0320
09.6 / 07.0
2560
2TL
10000
甲50型タービン
改21号水管缶*2
5000 / 4000
14.6 / 13.0
9000
2TM
02850
甲12型タービン
3号円缶*2
1200 / 1000
11.9 / 09.5
5000
2ET
00870
ディーゼル
0420 / 0330
09.6 / 07.0
4000

<2A型>
使用目的からは1A・1Bの後身であり、重貨物輸送を主な目的とし、 戦時中の主力船型とする予定でした。 三菱長崎により設計され、大手造船所を中心に終戦までに121隻が完成しました。

<2D型>
1Dと同様、長大なハッチと広大な船倉、ヘビーデリックを備えた船型です。 大きさは1Cと1Dの中間でした。 日本鋼管鶴見造船所で設計され、82隻が竣工しました。 1Dと同じく、その多くが軍の作戦輸送に重用されました。
2D型中、海軍敷設艦「箕面」として建造された1隻は昭和20年8月5日に竣工し、 日本海軍最後の軍艦となりました。

<2E型>
新設の小工場で量産することを目的とした船型で、「とにかく浮いて動くこと」とされ、 船型や速力の過小は最初から忍ぶ覚悟とされました。 浦賀船渠の手で設計され、本船型の量産を目的に新設された東京造船所・播磨松の浦・三菱若松・川南浦崎の 4造船所を中心に419隻(3Eを含む)という、日本造船史上空前絶後の量産が行われました。 荷役装置の有無・エンジンの種類により幾つかのバリエーションがあります。

<2TL型>
1TLと1TMを統合した船型で、輸送能率の見地から1TLと同様の大きさとされました。 造機能力の不足から速力の低下を余儀なくされ、 艦隊随伴用途は考慮されませんでした。 三菱長崎により設計され、当時最有力の3造船所で28隻が完成しました。

<2TM型>
南方油の主産地たるスマトラ島バレンバンまでムシ河を遡行し、 原油をシンガポールに集積する目的の船型です。 TL型が吃水の都合でムシ河を遡行できないためムシ河の許容吃水(6m)に合わせて設計され、 南方方面相互の石油輸送を兼ねることとなっていました。 三菱横浜で設計され、34隻が竣工しました。

<2ET型>
タンカー、特に2TM型の建造が間に合わないため、2E型を転用した応急油槽船で、 ガソリンや原油が搭載できないなど不十分なものではありました。 播磨造船所により設計され、播磨松の浦のみで135隻(3ET型を含む)が建造されました。


第三次戦時標準船
昭和18年後半になり、ようやく造機能力が造船能力に追いついてきたことを受け、 昭和18年12月に「改七線表」が作成され、同計画中に計6種の第三次戦時標準船が出現しました。
第三次戦時標準船は、第二次戦時標準船と同程度の簡易な船型・艤装ながら 機関出力を増大して速力を増大し、また隔壁を増やして防沈性を向上させたものです。 優速で第二次戦時標準船と同様の量産性を持っていましたが、 耐用年数は切りつめられたままでした。
第二次戦時標準船に引き続き、国を挙げて建造が進められましたが、 敗戦へ向かう混乱と資材の枯渇により各型とも数隻が完成したのみで終戦を迎えました。

船型
船種
総トン数
(トン)
主機
主缶
出力 (HP)
最大 / 経済
速力 (kt)
公試 / 航海
航続距離
(浬)
3A
07200
甲50型タービン
22号円缶*3
05000 / 4000
14.0 / 12.0
4000
3B
05100
甲50型タービン
22号円缶*3
05000 / 4000
16.0 / 14.0
4000
3D
03000
甲25型タービン
22号円缶*2
02500 / 1800
15.0 / 12.0
4000
3ERS
00875
レシプロ
5号円缶*1
00580 / 0400
10.0 / 07.5
2000
3ED
00880
ディーゼル
00600 / 0500
10.0 / 08.0
3500
3TL
10200
タービン
21号水管缶*2
10000 / 8000
19.0 / 16.0
8000
3ET
00870
ディーゼル
0000? / 000?
000? / 08.0
000?

<3A型>
2A型の当初の計画に基づき、2A型そのままの船型で馬力を倍増して増速をはかった船型です。 防沈性が問題となっていましたが相変わらず二重底は有さず、 その代わりに水密隔壁を増して貨物船には珍しい2区画可浸とされていました。 三菱神戸で設計され5隻が起工されましたが、終戦までに完成したものはありませんでした。
なお、船型をそのままに油槽船にした3TA型が1隻完成しています。

<3B型>
戦局が悪化してA型が過大であるとされたため、機関部をそのままに船体を小型化し、 若干の速力向上をはかった船型です。 使用目的はA型と同じで、A型は漸次B型に移行することになっていました。 三井玉野で設計され3隻が起工されましたが、これもまた終戦までに1隻も完成しませんでした。

<3D型>
2D型の速力を増したもので、船型はやや大きくされました。 船としての性格はD型に共通するものです。 実際には手頃な大きさと優速を買われ、 全て強武装を施した上で補助海防艦として船団護衛に使用される予定でした。 設計は日本鋼管鶴見により、14隻が起工されて1隻のみ完成しました。

<3E型>
2E型のかねてからの計画により、船型をそのままに主機出力を増大して優速化をはかったものです。 蒸気機関船では主機械をそのままに主缶を替えてあり、 ディーゼル船は排気過給機が装備されました。 海軍艦政本部にて設計されました。

<3TL型>
2TL型を優速にしてほぼ1TL型の水準に戻したものです。 船体ラインズは1TL型とも2TL型とも異なっていて、 概ね2TL式の簡易船型で優速化をはかったものとされています。 三菱長崎にて設計・建造され、終戦までで3隻が竣工しました。

<3ET型>
2ET型のディーゼル機関に対し、 シリンダ数を増すか排気過給機を取り付けて出力増大をはかったものです。 主機は恐らく排気過給機付きF6型ディーゼル(定格750馬力)だったと考えられますが、 それ以外に2ET型と3ET型の相違はないため詳しいことはわかりません。 終戦までに、播磨松の浦にて26隻が竣工したものと思われます。


第四次戦時標準船
大戦も末期になると太平洋の制海権は米国のものとなり、 封鎖海面を突破して交通を行える超高速輸送船が要望されるようになりました。 商船に対する経済観点からすると、第三次戦時標準船で速力は頂点に達していると思われ、 第四次戦時標準船の速力は経済的観念を超越したものでした。 当時の日本には組織立って計画造船を行う能力は既になく、 4ET型が戦後に竣工したのみで終わりました。
現実問題として、このような船を計画しているということ自体が負けを確定しており、 大戦の末期症状による産物といえるかもしれません。

船型
船種
総トン数
(トン)
主機
主缶
出力 (HP)
最大 / 経済
速力 (kt)
公試 / 航海
航続距離
(浬)
4B
03400
1段減速タービン
艦本式ロ号缶*2
09500 / 08000
000? / 18.0
8500
4TM
03400
1段減速タービン
艦本式ロ号缶*2
09500 / 08000
000? / 18.0
8500
4ET
01150
甲12型タービン
5号円缶*2
又は4号円缶*2
01200 / 00750
13.0 / 10.0
2000
4TL
09600
タービン*2
21号水管缶*4
20000 / 18000
22.0 / 19.0
8000

<4B型・4TM型>
いづれも封鎖海面を護衛艦艇なしに突破して南方と交通しようとするものでした。 機関部も駆逐艦(「松」型?)のものが流用してあり、 強武装とあいまって輸送艦に匹敵するものです。 それぞれ三菱横浜・三菱神戸で設計されました。

<4ET型>
2ET型・3ET型でガソリンや原油を搭載できないことは非常に不便であったので、 本格的な高速小型油槽船として計画されました。 建造着手の頃には南方交通は遮断しており、 竣工後は日満華の石油輸送に充てることとされています。 播磨にて設計され、戦後になって完成したものがありました。

<4TL型>
資材の不足から計画造船が縮小されたため造機能力に相対的に余裕が出たので、 3TLを更に優速化し、兼ねて護衛空母への改造を考慮した船型です。 三菱長崎で設計が行われましたが、 実際に建造される頃には南方交通は途絶して用なしとなっており、中止命令が出されました。


その他
上記の物動型戦時標準船の他、海峡連絡船、軍用船、漁船、曳船、コンクリート貨物船、 油槽船改造型護衛空母、大航続距離油槽船、被曳航油槽船、コルゲートハル貨物船 などが計画造船の中で計画されていました。 また貨物船改造の油槽船、油槽船改造の貨物船もかなり建造されました。 戦局の悪化による夢想的な計画が多くあり、特に陸軍が軍用船を計画造船の枠内で建造しようとしたことと、 船型を無駄に増やしたことには多くの批判があります。
うち主なもの(と言うより藤原的に興味あるもの)は以下の通りです。

船型
船種
総トン数
(トン)
主機
主缶
出力 (HP)
最大 / 経済
速力 (kt)
公試 / 航海
航続距離
(浬)
W
青函連絡船
2850
タービン*2
5号円缶*2
4400 / 3600
16.7 / 15.5
?
H
博釜連絡船
3000
?
?
?
?
?
TE
被曳航油槽船
0650
EC
コンクリート貨物船
0830
?
?
?
000? / 07.0
?

<W型・H型>
W型は従来からあった青函連絡船を簡易化して構造その他を標準化したもので、 浦賀船渠にて設計され、同所で8隻が起工、うち6隻が竣工しました。 東北本線の能力を飽和するまで建造する予定とされていたようです。
H型は博釜連絡船として計画されましたが、 昭和20年に至って青函連絡船に転用されることになり、 結局完成しないまま終戦となりました。

<TE型>
昭和17年夏頃には南方の採油施設が回復してきたにもかかわらず油槽船が不足していたため 計画されたもので、南方から内地への船団中の優速船に曳航させることとされていました。 構造としては全船にわたって平面で構成し、無人であることから安全性や強度を犠牲とし、 鋼材使用量の削減・溶接の大幅採用が行われました。
造船の経験のない鉄工所・橋梁会社・車両会社や小造船所で50隻が造られましたが、 危険な海をこんなものを曳いて走りたがる船員がある筈もなく、 余り有効に使用されないまま各地でタンクとして使われました。
しかしながら、TE型の建造の経験が改E型船の建造に生かされているとの評価があります。

<コンクリート船>
鋼材の節約のため計画されたもので、新設の武智造船所で試作船が数隻竣工されました。 当時から「狸の泥船」と蔑まれていましたが、 耐航性や船体強度の面では案外優秀であったようです。 勿論経済的には鋼船に敵う存在ではなく、終戦と共に忘れ去られました。


終わりに
敗戦で、戦時標準船につぎ込まれた努力は全て無になったかに見えました。
しかし戦後数年の雌伏を経て日本造船界が世界に乗り出し、 瞬く間に世界を席巻した影には、戦時標準船で得た経験があったことは否定できない事実です。
ブロック建造、溶接の採用、先行艤装方式、いわゆる一杯半建造など、 戦後の日本造船界の武器となった技術や発想は、戦時中すでに生まれていたものです。
更に言うなら、戦前の造船技術者は「いかなる船を造るか」のみを考える設計技術者に過ぎなかったのに対し、 戦時標準船を経験した戦後の造船技術者は「いかなる船を、どうやって、いかに安く造るか」を考える、 生産技術者の能力を持つようになりました。 目に見える技術のみでなく、その背景にある考え方も、戦時標準船の建造により革新されたわけです。
戦中戦後にわたり、戦時標準船に対する運行者の評価は散々なものでした。 そのため戦後、現在に至るまで戦時標準船は惨めな評価を与えられ続けています。
でも、そんな彼女らにも「戦後の日本造船界の栄光の礎となった」という、 技術史的に正当な評価は与えられるべきだと思います。
・・・皆さんは、どう思われますか?

何はともあれ、ここまで拙文をお読み頂いた方に厚く感謝いたします。


主要参考文献
「戦時造船史」 小野塚一郎 著 / 今日の話題社
「昭和造船史」(1巻) 日本造船学会 編 / 原書房
「本邦建造船要目表(1868〜1945)」 (社)日本舶用機関学会・舶用機関調査研究委員会 編 / 海文堂
「船舶百年史」(後篇) 上野喜一郎 著 / 船舶百年史刊行会
「日本海軍特務艦船史」 世界の艦船編集部 編 / 海人社
「播磨造船所50年史」 同編纂室

本文章は上記図書を参考に藤原梟介の責任において記述してあります。
どこかしらに間違いがあることを確信しておりますので、参考になさる際には上記文献をあたられることをお勧めします。 主要目については「戦時造船史」を参考にして記述していますが、実際には1隻毎に異なるものであり、 特に戦時標準船の機関は当時の事情もあって種々雑多な機関が搭載されています。 また建造隻数についても当時の混乱のせいか正確な数字と言いがたい面があります。 以上の点をお含み置き下さい。
できれば誤りのご指摘やご感想を頂けますと嬉しいです。
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Constructed by Kyosuke Fujiwara ,in 1999.