プロローグ 〜 大西洋に浮かぶ「波間の揺りかご」 〜

プリンスエドワード島の近代史は、奇しくも先住民族によって与えられた Abegweit 〜波間の揺りかご〜 という名前が運命を象徴していたかのように、英国とフランスという欧州二大国によって翻弄され、大西洋の波間で儚く揺れ続けてきた歴史、と言っていいのかもしれません。今日プリンスエドワード島はカナダ連邦でもっとも小さな州として親しまれているわけですが、今回は太古から今日に至るまでの知られざるプリンスエドワード島の「あゆみ」にスポットを当ててみたいと思います。


プリンスエドワード島周辺図(現在)
プリンスエドワード島周辺図(現在)

氷河が消え去ったあとのセント・ローレンス湾にて 〜 太古 〜

今をさかのぼること約1万1千年、セント・ローレンス湾周辺から氷河が撤退をはじめました。この頃、すでにプリンスエドワード島に人が住んでいた証拠が見つかっているそうです。当時の島は、現在のウェスト・ポイントからポイント・プリムあたりまでにかけて広がっていた「大地の橋」によってカナダ大陸本土と繋がっていました。この「大地の橋」は今から約7,500年前の海面上昇によって海に没してノーサンバーランド海峡が誕生、プリンスエドワード島が完全な「島」となったわけです。

ジャック・カルティエ、島を「発見」〜 1534年 〜

この年、フランス人ジャック・カルティエによって島が「発見」されました。初めてこの島を見た彼は、「素晴らしい草原と木々に満ちた美しい大地はとてもなだらかで、どこまでも見渡せる。」と評したとか。のちに島はフランス領となり、Ile St. Jean と名付けられました。

英仏二大国により翻弄され続けた時代 〜 18世紀 〜

18世紀は、全世界に強大な影響力を持つ英仏二大国がお互いの威厳をかけて争いを繰り返した時代でした。そんな時勢の縮図を島の歴史からも窺い知ることができます。

1720年、英国のカナダ南東地方への影響力が弱まったことを見極めたフランスは、このタイミングこそが Ile St. Jean への移民の潮時と判断、彼らは現在のシャーロットタウンとちょうど港をはさんで対岸に位置するあたりに Port La Joye という首都を築きました。

これに対し英国は 1745年、ニューイングランド軍と共同で Port La Joye などの主要地を制圧、Ile St. Jean を武力で奪ったのです。ところがそのわずか 3 年後、英国はインドの一都市と交換で、Ile St. Jean をフランスへ返還することになります。

そのちょうど10年後にあたる1758年、英国軍はまたまた武力で島を制圧。すでに島に移民していた約5,000人のフランス人およびアカディア人(カナダ南東地方のフランス系住民)を島外へ追放します。この時追放を免れたフランス系住民もいましたが、その数はわずか300人弱程度でした。

Ile St. Jean をめぐる、こうしためまぐるしいほどの覇権争いが一段落するのは、パリ条約締結によって英仏七年戦争に決着をみた1763年のこと。フランスは正式に、ケベック ・ Ile St. Jean ・ Ile Royale(現在のノバ・スコシア州 Cape Breton 島)を英国に譲渡することとなったのです。

大西洋岸カナダ諸州(現在)
大西洋岸カナダ諸州(現在)

自治への道のり 〜 18世紀後半 〜

英国植民地としてノバ・スコシアに統合された Ile St. Jean は1767年、調査の上67区画に分割され、以降ごく少数の地主たちによって統治されることとなります。この地主たちの強い要望によって1769年、島はノバ・スコシアの管轄を離れ、独自の総督および民政を与えられることとなりました。

"Prince Edward Island" 誕生の年 〜 1799年 〜

Edward, Duke of Kent and Strathearn この年いよいよ "Ile St. Jean" は "Prince Edward Island" へと名前を変えることになるのですが、その理由というのが少しばかり意外です。"St. Jean" を英語に置き換えると "St. Johns" となるわけですが、実は当時、大西洋岸カナダ地域には都市やら、川やら、植民地やらに "St. Johns" という名前をもつものがあまりに多かったことがその理由なのだそうです。"Prince Edward" については、時の英国国王ジョージ三世の息子の一人、ケント公エドワード王子(ビクトリア女王の父親、左写真)の名にちなんだものでした。余談ですが当のケント公は自らの名を持つプリンスエドワード島にほとんど関心を示すことはなかったそうです。一度だけ島に言及したことがあったそうですが、皮肉なことにそれは島をもう一度ノバ・スコシアの管轄下に置いたらどうかと提案した時だったとか。

北米一 Scottish な島へ 〜 1803年以降 〜

1803年、サルカーク卿トマス・ダグラスの助力により、島の歴史の中で最大規模となる800名もの移民団がスコットランド高地から Belfast に到着しました。以降1800年代半ばまでにスコットランド人は島の人口の半数以上を占めるようになり、プリンスエドワード島は北米一スコットランド系住民の多い州となります。

ようやくローマン・カトリック教徒にも選挙権が 〜 1830年 〜

この年を待つまでプリンスエドワード島において、ローマン・カトリック教徒には選挙権を含む一部の市民権が与えられていませんでした。これは大英帝国において、1829 年まで建前上ローマン・カトリックが違法とされていたためです。

近代へ、そして独立へ向けての急速な歩み 〜 19世紀半ば 〜

19世紀の中ごろ、プリンスエドワード島にも着実に近代化の波が訪れようとしていました。1847年には、現在でも州都シャーロットタウンを象徴する歴史的建築物として親しまれているプロビンス・ハウスが完成しました。

プロビンス・ハウス(現在)
プロビンス・ハウス(現在)

1851年には英国が島の責任政府を承認しました。これにより、島は国際貿易と防衛を除くすべてについての完全な自治権を得ることとなりました。

栄華と繁栄の時代 〜 19世紀後半 〜

「赤毛のアン」の舞台となり、お馴染みアヴォンリー村の人々が活き活きと暮らしていた19世紀後半は、島が造船業やシルバー・フォックス産業などで栄華を極めた時代でもありました。同時にカナダ連邦が産声を上げつつあり、まさに歴史的な連邦結成会議がシャーロットタウンで開かれたのもこの時代でした。独立を目指していたプリンスエドワード島も、鉄道敷設という大きな課題に直面し、カナダ連邦への加盟を決断しつつあったのです・・・

1854年、アメリカ合衆国と英領北アメリカ植民地群との間で締結された「互恵条約」が発効しました。この条約の内容は主として自由貿易に関するものであり、島が迎えようとしていた経済繁栄の直接の火付け役となりました。また1855年には、シャーロットタウンが正式に島で初の市に制定されました。

1864年、英領北アメリカ植民地群の各代表が政治連合へ向けての話し合いを持つため、シャーロットタウンに集まりました(the Fathers of Confederation meeting)。当初熱烈に連合参加を支持する向きはあったものの、プリンスエドワード島住民は、結局連合には参加しない道を選びました。


The Fathers of Confederation Meeting (1864, Charlottetown)
The Fathers of Confederation Meeting (1864, Charlottetown)
from the Prime Ministers of Canada CD-ROM
Copyright ©1996, 1997 ExCITE, Simon Fraser University

アメリカ合衆国と英領北アメリカ植民地群間の「互恵条約」が、1866年に廃止されました。合衆国は1865年に終結した南北戦争後の国家および経済の建て直しに懸命で、自由貿易に興味を示す余裕がなかったのです。しかしながらこの条約廃止が、全盛期を迎えていたプリンスエドワード島の経済繁栄に悪影響を及ぼすことはありませんでした。

この頃プリンスエドワード島で経済繁栄の原動力となっていたのは造船業で、1868年には過去最高の年間120隻という船が生産されるに至りました。1800年から1880年までの間、島で生産された船は都合約4000隻にのぼります。当時プリンスエドワード島は、英国本国外ではもっとも活発な造船業の中心地のひとつだったのです。

1871年、アイランダー達は鉄道施設なしには島の将来はないと決断、鉄道敷設資金を調達するため島そのものを抵当に借金をしました。しかし、コストはあっという間に調達可能額をオーバーしてしまいました。このコストオーバーが、プリンスエドワード島がたどるその後の運命を大きく左右することになります。

負債の増大に直面したプリンスエドワード島は、鉄道敷設工事が未完成であることや世界規模での貿易衰退の影響に鑑み、1873年連邦への加盟に関する交渉の席につきました。その結果、島は独立の道をあきらめることとなった代わりに、カナダ国会下院に6議席・上院に4議席を得、鉄道負債の連邦による肩代わり、ならびに私有地買収資金として800,000ドルの現金を得ることとなりました。

1880年頃、大西洋岸カナダ地域における造船業が急激に衰退しました。島にとって全収入源の半分程度を支え続けてきた産業が、数年のうちに完全に姿を消すこととなったのです。何千人ものアイランダー達が工場や家内工業の職を得るため、ボストンへと移住しました。この先50年の間に、島の人口は120,000から80,000にまで減少することとなります。

Charles Dalton 1895年頃、ロバート・オールトンとチャールズ・ダルトン(左写真)は初めてシルバー・フォックスの養殖に成功しました。彼らはそのノウハウや飼育用のキツネをごく内輪の仲間たちに分け与え、その後10年を待たず彼らは皆莫大な富を得ることとなりました。キツネの毛皮ブームが絶頂期を迎えていた 1912年には、一頭分の毛皮が2000ドルもの値で取り引きされていたのです。約20年間にわたり、プリンスエドワード島は世界で唯一シルバー・フォックスの養殖に成功した地であったのでした。

「赤毛のアン」出版! 〜 1908年 〜

1908年・・・カナダの東海岸に静かに佇むプリンスエドワード島を全世界に、日本に、愛情と希望のつまった宝物のような物語の舞台として紹介してくれた小説「赤毛のアン」が出版されました。この物語がその後100年もの長きにわたり世界中の女性たちから愛され続け、プリンスエドワード島に観光という新たな糧をもたらすことになろうとは、おそらく作者モンゴメリ自身を含め、当時は誰にも想像できなかったに違いありません。

現代への道のり、交通手段の変遷 〜 20世紀前半 〜

アイスボート
PEI とカナダ本土との伝統的「連絡船」・アイスボート

法律上いくつかの抜け道はあったとはいえ、1908年、事実上島の道路から自動車が締め出されることとなりました。しかし1917年以降、島の各自治体単位で特定の道路に関し、自動車乗り入れ禁止を解除するかどうかを投票で決める権限が与えられました。1919 年、Tracadie から Mount Stewart までの道路の自動車乗り入れ禁止が投票結果に基づき解除され、これで島の全ての道に関して自動車乗り入れ禁止が解除されることとなりました。

プリンスエドワード島では当時、現在の日本同様英国方式を採用したため自動車は左側通行だったのですが、自動車の右側通行制度を採る大陸本土から島へ乗り入れる自動車の数が増えてきた状況に鑑み、島は1924年、合衆国を含む他の大陸諸州と同じ右側通行へと制度を変更したのです。当時の新聞は「自動車はもう左側を走れません」という警告だらけだったそうです。

1941年、シャーロットタウン出身のカール・バークが Maritime Central Airways (MCA) という航空会社を設立。1950年代中頃までに MCA は、乗客数国内第三位、貨物運搬量については国内第一位となるまでに成長しました。1963年、彼は MCA を Eastern Provincial Airlines 〜 1980年代に Canadian Airlines の一部となる 〜 に売却しました。

1947年、島で最も愛され親しまれたカーフェリー MV Abegweit が就航。学校は祝日となり、全島民の約半数がボートツアーに参加しました。

MV Abegweit
MV Abegweit (1947 〜 1982)

そして、現代へ 〜 20世紀後半 〜

1964年、カナダ連邦結成に関するシャーロットタウン・カンファレンス100周年を記念した " the Fathers of Confederation Memorial Building" がオープン、翌1965年にはミュージカル「赤毛のアン」が初演されました。以来現在に至るまで、毎年夏季に開催されるシャーロットタウン・フェスティバルの一環として観光客の人気を呼んでいることは言うまでもありませんね。この建物は1973年、お馴染みの "Confederation Centre" へと名称が変更されることとなります。

Confederation Centre of the Arts
現在の Confederation Centre of the Arts

Yes or No バッジ 1988年、アイランダー達は賛成60%、反対40% でカナダ本土と島を結ぶ方法を考えよう、という結論に達しました(左写真は、本土と島を直結することに対する賛否を問う住民投票キャンペーン用のバッジ)。しかしながら賛成票を投じた人の約半数は強硬なトンネル推進派で、彼らは橋という方法にはあくまで反対だったのだそうです。こうした微妙な問題をはらんでいたとはいえ、1997年 島の未来への可能性を担って、カナダ本土との架け橋・ Confederation Bridge がついに開通したのです。

エピローグ 〜 来し方、行く末 〜

宝石のように美しい風景が旅する者の心を優しく癒してくれる、小さな島。伝統と文化を大切にし、何があっても前向きに明るく努力を続ける姿を通じて、人間が本来持っている温かさ・善さというものを無言のうちに教えてくれるアイランダー達。歴史的な苦悩にさらされ、言葉にできないほど辛い思いを経験してきたからこそ、今日の島が、そして彼らがあるのかもしれませんね。

今まで知らなかった島の歴史に少しだけ触れて、あなたは何をお感じになったでしょうか。ご意見・ご感想等がありましたら、ぜひ私たちにもお聞かせください。

http://ya.sakura.ne.jp/~inetwork/pei-club/enq/

から簡単にメッセージをお寄せいただくことができます。また今回の特集は、以下の英文資料を参考にしています。興味のある方はこちらもどうぞ、ご覧ください。

http://www.gov.pe.ca/infopei/onelisting.php3?number=12183

担当:Masaru Onuma 校正・協力: Takashi Nishioka