9月の終わりに、92歳の母と九州・天草に旅行しました。   
 私としては北海道がいいと思ったのですが、「北海道か九州の、どっちがいい?」と聞いたら「天草」と返ってきたのです。2年前に心臓発作を起こし命拾いした母が元気になったので、私から言いだした旅行ですから、ここは母親優先でいくしかありません。
 なぜ天草かというと、なんと母の父(私のおじいさん)は、天草から17歳のときに東京に出てきたんですって。母にとっては90年ぶりの天草なんですと。2歳のときに行ったとかで・・・。なんだか、気の遠くなるようなはなしでしょ?
 まあ、人間歳をとると今更観光旅行じゃないのかもしれません。会ったこともない親戚もいるというし、墓参りもできるし、ルーツをたどるのもおもしろいかもしれません。もうひとつは、古い教会があるそうで、そこも行ってみたいということでした。

 航空券とレンタカーを手配し、車椅子を借りて、と準備万端手筈を整えて楽しみに出発しました。普段の行いが功を奏したのか、台風の去った翌日の天草に到着し、空と海の青さはすばらしく、ご先祖様の墓に親戚という坊様と行き、お線香をあげました。他にも親戚という人を訪れ、未だ見ぬ(そのうち、あちらの世界でお目もじすると思いますが)おじいさんやその兄弟の話など、まるで歴史の本でも読んでいるような感じで聞いていました。
 それにしても、明治時代に天草から東京とは、外国に行くようなものだったでしょうね。

 さて、つぎは島の先端にある天主堂・・・車でまわり、歩きのしんどそうなところはトランクから車椅子を出し、のくり返しをしながら進みます。母は温泉旅行をあまりしなかったので、露天風呂も初体験させました。
 できた娘です。「なんて使える娘でしょう!」と、我ながら自分を誇らしく思っていました。

 そうやって、すべて順調に2泊3日の旅を終えて、熊本空港にたどり着いたところまではよかったのですが、空港でおみやげを買おうとする母に「だれに買っていくの?」「ちゃんと、考えてよね」「だれに、なにを買いたいの!」と、私の口調が強くなっていました。
「・・どうしてここまできて、こんな気分で終えなくちゃならないの」「・・なんて、私、嫌なヤツなんだ」と、思いながらも、ツンケンする気分がなおりません。飛行機からは夕焼けの上に富士山が姿を見せ、それはきれいです。私は窓側に座っています。

 無事に家についてからほっとして思うに、やっぱり私は疲れていたみたいです。
 そして、52歳にもなって実感をもって知ったことは「強者にゆとりがなくなると、弱者の心が見えなくなる」「強者にゆとりがなくなると、怖いことがおこりうる」と、いうことでした。
 旅から帰った翌朝、母はあらたまった様子で「いつもの旅行と違って、年寄りを連れた旅は大変だったでしょう? ご苦労さまでした」と頭をさげました。
「やられた!」と、思いました。強者は弱者の心が見えなくなるけれど、弱者は強者の心が冷静にみえていたのかもしれません。

 以前、りんごの木の5歳児の子が元気なくやってきました。
「おかあさんにおこられてきたの?」と、聞くと「うん」。
「どうして?」と聞くと「あのね、くつがなかったの」
「もっと、ちゃんとはなしてくれる?」と、言うと「わすれた」と、口をつぐんでしまいました。
 この「わすれた」という言葉を子どもはよく使います。でも、ほんとに忘れていることは少なく、これは「いいたくない」ということでしょう。
 それで4、5歳児20人を集めてこんな話をしました。
「私の知っているおかあさん、毎朝、牛乳をのみなさい! パンを食べてないでしょう! 早く起きないからです! もう、着替えなきゃまにあわないでしょう! どうして、もっと早くねないの! って、子どもにどなっている人がいるの。そうするとね、子どもはとうとう泣きだして、幼稚園に行くの。あなたたちも、そうやって来るの?」と、聞いてみました。
 何人かの子どもが「そうやってくる」と答えました。
「あのね、いっぱい、はやくっていうの」
「いろいろいうとね、こういうふうにちいさくなって、いかなくてもいいやとおもっちゃうの」
「はじめはやさしいこえでね、つぎはこわいこえなの、3かいめはぶたれちゃう」
 子どもたちは、親の怒り方のパターンを知っているようです。
「じゃあ、そんなとき、どうしたらいいんだろうね」という私の問いに、
「なけばいいんだよ」と、大きな声でひとりの子がいうと「だけど、ないたら、もっとおこられちゃうよ」という声も・・。
「あのさ、ちゃんとはなすんだよ。そうすると、わかってくれるときもあるよ」という子に「ちゃんとなんて、はなせないよ」と情けない顔をして反論する子。
「ぼくさぁ、もうすぐ、いちねんせいでしょ。そしてら、もうちょっと、がまんできるようになるかもしれない」
「なみだがでちゃいそうになったら、うえをむくんだよ。そして、くちをぱくぱくして、いっぱい、いきをするんだ」といいだした子どもに、何人かの子がうなずきました。
 私はなんだか泣けてきました。そして、つくづく思いました、子どもは誰も親を非難せずにありのままの親を引き受けている・・と。誰も、親の性格をなおしてほしいとはいいません。まして、親をとりかえたいとも考えてもいません。そのまんまの親を引受け、親に好かれたいと思っているのす。
 それに引換え、親はどうでしょう。もちろん子どもを愛するからでしょうが「もっと」「もっと」と、多くを望んで、今の子どもをそのまんま引き受けていないのではないでしょうか。
 親もそのまんまを引き受けるところから、はじめませんか?
「うちの子、ぐずでさ」「うちの子、おしゃべりなのよ」「うちの子、ひとみしりでね」と。

 子どもが、どうして親をそのまんまひきうけられるのかというと、弱者だからです。
 親がどうしてあつかましいのかというと、子どもにとっては強者だからです。
 強者は、うっかりすると、傲慢になり、弱者に命令するようになり、自分の思い通りにさせようとしてしまいがちであることを、自覚しなければいけないと、わがことを反省しながら、つくづく思いました。
 親子関係ばかりでなく、先生と生徒、上司と部下、体力の強いと弱い、経済力のあるなしなど、すべてに言えることではないでしょうか。
 反省したばかりの私さえ、2、3日もすると、また、強い口調になったりしています。
 そう、わかっているけどやめられない。
 でもね、「わかっちゃいるけど、やめられない!」と居直ってはいけないと思っています、わかっているけどやってしまった自分に恥じなければ・・と。
 そして、どうにもならない自分だったら、たぶんゆとりをなくしているから、本来の自分を失ってしまうのでしょうから、ほっとできる時間をつくる努力をしたり、話せる友だちに会ったり、思いきって日頃の疲れをとる方法を考え、実行しましょう。

イラスト/松村千鶴(りんごの木)

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