ある子育て雑誌から、4、5歳児のお手伝いについての談話依頼がありました。内容は「お手伝いによって、子どものなにが育つのか」というものでした。
 ふと、考えてしまいました。そういえば、もう20年も前の幼稚園の先生時代に、「お手伝いは子どもの家族の一員としての誇りや責任感につながるので、4、5歳児には家の手伝いをさせましょう」と、保育者としてお母さんたちに勧めていたのを思い出しました。今回の依頼も、どうも、そういうねらいのようです。

 そもそも『手伝う』ということは、どういう状態をいうのでしょうか。
『手伝う』というのは、辞書をひいてみると『手をかす』『手助けをする』『たすける』などとあります。そう、手伝うというときの主体は、手伝う側の人間にあるのです。

 幼児を想定すると、手伝いたくなる要素は三つあるような気がします。
 ひとつは、おかあさんがくるくる忙しそうに働いているのをみて、手伝ってあげたいという気持ちが湧いてきて、手伝うのです。昭和20年代くらいまでは、子だくさんなのに洗濯機のない洗濯、布のおむつの洗濯、薪をもやしての風呂わかし、子どもの洋服の手作りなど、はてしない家事がありましたから、子どもに目を向けることはよっぽどのときだったでしょう。反対に子どもが親の忙しそうなのをしっかり見ていましたから、手伝いたいという気持ちがおこるのが自然だったでしょう。
 もうひとつは、おとうさんやおかあさんを喜ばしたいという思いからする、手伝いです。手伝いをして親に喜ばれることは、自分を認め、受入れ、存在感が増すということです。子どものことばで言うと「おおきくなったでしょう!」「おかあさん、たすかる?」「上手にできるでしょう!」という気分です。
 三つめは、おかあさんやおとうさんのやっていること自体にすごく魅力を感じて、「お手伝い」と称してやらせてもらうのです。お料理などはこれでしょう。

 さて、現代の子どもたちの状況を考えてみますと、おかあさんはそう忙しそうではないようです。母親にしてみれば、忙しいけれど子どものいない間に片づけていることが多いのでしょうが……。特に、仕事をもっていない専業主婦のおかあさんを見ている子どもは「ぜんぜん、いそがしそうじゃないよ」「いつも、でんわしてる」「だれかとしゃべってる」「テレビみてるよ」「おとうさんとビールのんでる」と言う子どもも結構います。
 そうなると、ひとつめのお手伝いの気持ちは、わいてきません。そればかりではなく「さっさとお風呂にはいりなさい」「さっさとごはんたべなさい」「片づけなさい」と、親が子どもをみて指示している時間の方が多いのですから、子どもから自主的に動く余裕と発想がでてきやしません。
 ふたつめのお手伝いはどうでしょう。これは、今の子どもたちも頻繁におこる気持ちでしょう。ところが、親にとっては有難迷惑なことが多いのです。「たのみもしないのに、玄関を洗ってくれて……。びちょびちょじゃない」「たのみもしないのに、洗濯物を取り込んで、まだかわいてないじゃない!」ということになるからです。そこで、子どもの主体的お手伝い気分はさておいて、「やるならこれにして」と親側から提供することになります。「おかあさんがたたんだ洗濯物の、自分のものだけをタンスにしまってね」「新聞とってきてくれるとうれしいわ」
 こんなふうに、おおきくなったことを認めてほしくて自主的に手伝おうとした子どもの気持ちに対して、親の側から希望したことのみ手伝ってほしいという要求にすりかわってしまったように思えます。
 三つめは、お手伝いとは名ばかりのことも多く、親にしてみるとよけいな時間がかかります。けれど、「せっかくやりたがっているから」と、親側が譲る。また、集中してやっている子どもの姿や子どもの成長を感ずることができたりするので、「まぁ、たまにはね」という気分になります。

「手伝い」を考えていると、対するものとして「仕事」がでてきます。
 手伝いはあくまで子どもの主体的行為ですから、やるときがあってもやらないときがあってもいいのです。けれど、仕事は違います。気まぐれは困るんです。
「子どもにお手伝いをさせることでなにが育つのか」という内容は、むしろ仕事に近いのではないでしょうか。
 私は「お手伝い」をすることで育つものがあるとすれば、それは、親を思う気持ちを親が受け止めることで、また、子どもの成長していく姿を喜んで受け止めていくことで、お互いの関係が温かくなるということだと思います。
 そう考えると、子どもたちの話に耳を傾けたり、できるようになったばかりのコマまわしを「みて! みて!」というときに見てあげることも同じじゃないでしょうか。
 ある子どもが手品をできるようになったとき、おじいちゃん・おばあちゃんも交えた家族全員を前にして演じ「わぁー、すごい!」と歓声をあびてすごくうれしそうだったという話をきいたことがあります。まさに、家族としての誇りを子どもは感じたことでしょう。ですから、お手伝いをしなくちゃ育たないというのは、ないのでは。

 仕事はどうでしょうか。やりたいだけではなく、やらなければいけないという要素もふくまれますし、ちゃんと継続してやらなければなりませんから、育つものは多くあるでしょう。ただし、これは、「家族なんだから、家族としての仕事を分担するのが当たり前」という考えを持つ人がしたらいいと思います。だって、例えば、おはしとおちゃわんを食卓にならべるという仕事を子どもに頼んだとします。毎日、時間がかかっても待てますか? 落としてしまって、洗いにいって……を、待てますか? お茶碗を割って、片づけて・・でも、翌日も続けられますか? これは、簡単な仕事ですが、いずれにしても、まだ幼い子どもたちが初めから上手にできるわけはありません。でも、一生懸命やろうとすることを応援しなければなりません。やったりやらなかったりでは仕事になりませんから、親側も子どもを支えていく覚悟がいります。

 先日、雑誌を見ていましたら、幼児時期は親が手伝わせることをかなり意識的にするけれど、小学生になっても内容が変わらないのが多いばかりでなく(相変わらず、新聞をとってくる程度のこと)、そのうち「勉強があんたの仕事」となるケースがほとんどだという記事を見ました。これでは、幼児時期のあれは何だったの? という気がしませんか?
 私の知っているお宅で、幼児時期からトイレの掃除をしている子どもがいました。やがて、その仕事は兄弟の2番目に引き継がれ、1番目の子どもは風呂そうじに変わったそうです。そして、受験生になってもちゃんと時間をやりくりして、続けていたそうです。自分がしないと、家族が気持ちよい風呂に入れないからです。その家は、みんなで家事を分担しています。ここまでできれば、確かに、家族の一員としての誇りや責任感につながることでしょう。
 さて、あなたは、どう考えますか? 

     (イラスト/松村千鶴)

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