ある子育て講座から講演依頼がありました。タイトルは「子育ては、自分流で」と、ありました。
 私の『子育てを楽しむ本』の表紙にも小さく「愛情さんさん、自分流がいちばん」と、たしか書いています。ところが、いざ考えてみると、頭がごちゃごちゃになってきました。自分流とは、どんなやりかたなのだろう。そんなものを、みんな持っているのだろうか。そして、揺るがずに自分流を持って子育てしている人がいるのだろうか。自分流ってなに……?

 その講座のときは、集まったおかあさん方にこんなことを聞いてみました。
「自分のことを子どもになんて呼んでもらっているの?」
「ママ」っていう人が、半分いました。あと半分ぐらいが「おかあさん」。「マミィー」と呼ぶ人も名前を言っているという人もいました。
 その理由を聞くと「自分も母親のことをそうよんでいたから」という人が多かったです。その他には「なんとなく、そんな言い方にあこがれていたから」「自分が母親のことをママは呼んでいるので、自分もママだとわかりにくいから、おばあちゃんのことをママ、私のことはおかあさんにしました」「主人が私のことをママと呼ぶので、そうなりました」「私が子どものころ、私はおかあさんと呼んでいましたけれど、他の人がママと言っていて、なんかいいなとうらやましかったから」などと、その人なりの理由がありました。
 次には、子どもと犬を見たら、イヌというかワンワンと言うかという質問もしてみました。これも、それぞれに理由があって、みなさんと盛り上がりました。
 つまり、子どもを育てていくなかで、どっちにしようかなと思うことがいっぱいでてくる。どっちでもいいことなんだけれど、自分なりに選んでいる。それは、自分の体験がもとになっていたり、育てられかたが影響していたり、自分の感性であったりします。これが、自分流ということなんではないでしょうか。
 そして、無意識や自然にやっていることを、整理し認識していくことで自分流が積みかさねられていくということではないでしょうか。
 
 あるとき、2歳の子どものおかあさんが質問しました。
「うちの子は、ゆびしゃぶりをしているんです。先日、歯医者にいったら、もう2歳なんだからやめさせなさい、歯並びが悪くなりますといわれたんです。でも、いろいろやってもやめられないんです。大丈夫でしょうか?」と、いうことでした。
 私はこんなふうに言いました。
 歯の専門家に聞くと「やめなさい」という。でも、心理の専門家に聞くと、たぶん「ゆびしゃぶりをしていることで安定しているのだから、今、無理やりやめさせなくてもいい」と、いうでしょう。さぁ、あなた、どうします? 
 困った顔をしていたおかあさん、「違う考えもあるんですか。じゃあ、あんなに子どもを泣かせてがんばるのはいやだから、私、ゆびしゃぶっていてもいいです」と、言いました。

 こんな質問もよく受けます。
「どういうときに、叱るべきなんでしょう」
 私はシンプルに「あなたが、いやだと思うときよ」と、答えます。「ただし、どんなにいやだと思っても、どんなに何回いっても、やめてくれない時は、あきらめてね。きっと、それは、今、どんなに言われてもできないことだから」と。
 そして、思います。『べき』ってなぁに。『べき』ってだあれ?
 例えば『しつけ』ひとつとっても、『しつけ』と聞いて何をイメージするかと聞くと様々な声が返ってきます。礼儀作法、挨拶、生活リズム、自分のことは自分ですること、食事のマナー、公共の場での態度…………。
 細かく言うと、机の上に乗らない、靴を揃えて脱ぐ、洋服をたたむ、好き嫌いをしない、出された物は全部食べる、くちゃくちゃかまない、口に入っているときはしゃべらない……とめどなく出されます。これらの事を全部、幼児期に一度にしつけようと思ったら、年中叱りつづけなければなりません。それだって、できるようにはならないでしょう。
『べき』じゃなくて「私はいや」と言えばいいことなんではないでしょうか。それが、私が子どもに伝える私でもあるのです。私が私を伝えていくことが「自分流」ということなのではないでしょうか。

 毎日新聞に『わたしとおかあさん』という1週間に1回の連載記事があります。毎回、いろんな分野の方が自分のおかあさんについて書いているもので、なかなか、おもしろいので楽しみにしている記事です。11月28日(03年)は、作詞・作曲家の小椋佳さんでした。もともと銀行員だった人で、「シクラメンのかほり」という歌をつくった人です。知っていますか?
 小椋さんのお母さんは「身勝手な自分中心の判断に疑いも持たずに、どうどうと子育てした」方のようです。絵に描いたような江戸っ子とあります。子どもである小椋さんの年齢によって、母親へのとらえ方が変化していきます。子どものころの母親に対する恐れや批判は、いつしか母の人生として肯定するようになり、やがて、感謝をしています。いえ、そんな母をもったことに誇りを感じていらっしゃる文章でした。
「感情剥き出しで、体当たり的、非合理な母の子育ても、捨てたものではないと改めて思い返すのである」と、最後に書かれています。
 
 自分流というのは、かっちりと出来上がっているものではなく、生きていくうちに、子育てしていくうちに、作られ練られていくものなのでしょう。様々な情報に揺れ動き、流されそうになりながら、選びとっていくことで気づいていくものなのでしょう。そして、子どもは、そんな親の態度に陰で泣いたり、おこったり、喜んだりしながら、無意識のうちに自分流の根っこを作っているのではないでしょうか。

   (イラスト/松村千鶴)

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