柴田 愛子        

 毎日新聞に『親が子どものけんかに口出し!?』という記事がのりました。(02年4月7日)東京都心の幼稚園で、PTAが「今年からすべてのけがやトラブルを当事者双方の親に伝えてほしい」と園長にもとめた。「そうしないと親同士がこじれるから。相手があれば、親があやまらないと」と役員が説明し、園はもとめに応じたということがあったようです。私の絵本『けんかのきもち』(2001年,ポプラ社刊)を見た記者の方が取材にいらっしゃって、私の話が少し載りました。この園でどんなことがあってこういうことになったのか、その事情はわかりませんから、この件に対してという訳ではありませんが 私が感じていることを書きたいと思います。

 子どもを大切に思う親心はわからないではありませんし、まだ、幼い子どもの責任は親にあるとも思います。けれど、子どもと子どものけんかや、子どもと子どもの関係から起こったちょっとした傷ならば、親がでる幕ではないと思っています。
 もちろん、傷ができていたら、何があったのか気になります。そのことについて、保育者に状況を聞くことは当然でしょう。しかし「相手の親にあやまってほしい」となると賛成できません。子どもが主人公ではなくなっている気がするからです。
 子どもは”いつも誰かの責任の下にある”ことを、このごろよく考えます。保育園・幼稚園では保育者に、学校に行けば学校の先生に、○○教室にいけばそこの先生に、家にいれば親に…。
 子どもが誰かの責任の下に存在するようになってから、つまり何か事が生じたときの責任者を追求するようになってから、ひとりの人間として尊重されなくなったような気がします。子どもが自分で自分を引き受けられることが、ほとんどなくなりつつあるということです。

 子どもは自由ではなくなったと思います。
 例えば、けんかにしても、けんかになるには、なにかしらの原因があるはずです。けれど、特に幼児の場合は、言葉で状況や成り行き、自分の気持ちを表現することがじょうずにはできませんから、けんかが始まってから駆けつけたおとなにはよくわかりません。
 私の絵本の『けんかのきもち』のように、これといった原因があったのではなく、長い時間集中していたために、身体がはじけるようにおこるけんかもあります。これは、仲良しでなければおきません。やつあたりけんかもそうです。物の取り合いやルールを守もらないことに怒って、というときもあります。ともかく、けんかとひとくちにいっても、けんかになるきっかけは様々です。
 ところが、結果としておとなの目に入るのは、ひっかき傷だったり、あざだったり、噛まれたあとだけです。
 そして、子どもの頭の上で、おとなとおとなの問題となっていきます。
「だれにつけられた傷かはっきりしたい。そして、その親に謝ってほしい」ということは、どういうことでしょうか。傷をつけてもいいとか、傷をつけられてもだまっていろとか、傷をつけることは悪くないといっているのではないのです。子どもは親の持ち物ではないのです。傷だけが問題ではないのです。ここで大事なのは、‘子ども同士のけんか’であること。子どもが自身がやったことなのです。
 そのけんかを通して、子どもたちは、人に気持ちがあること、自分の態度とひとの気持ちとの関係、身体でぶつかる痛さや心地よさ、負けたときの悔しさ情けなさ、勝ったときの優越感と心の痛み、仲直りするときに技…などなど、たくさんのことを得ていきます。
 親同士が謝ったり、謝られたりということで、子どもは何を学ぶでしょう。

 ほとんどの場合、けんかはしようと思ってしたわけでなく、けんかになっちゃうんです。自分と相手の気持ちが身体でぶつかりあうのですから、考えてからなんて起こらないのです。けれど、その結果「けんかをすると、こんなおとなのトラブルになるから、もうけんかはやめよう」…肝心のけんか相手との気持ちのやりとりがあって、けんかに懲りていくというのとは随分ちがいます。子ども同士が、けんかを通して何を学んでいるかなのです。さっき、言ったようなけんかの効用を身につけることなのです
 人間関係(心)の基礎を学ぶ出来事が、人間関係の表面的ルールを学ぶ(トラブルをおこさないためのかかわり)ということになるのです。
(一方的にやられて傷をうける場合は、いままでの話には含まれません。あくまでも、けんかは両方の意思があってなるものという前提で話しています。)

 先日、涙ながらの電話をとりました。3歳児で幼稚園に行っている。毎日、どういうわけかけんかをして、引っかいたり、噛んだりしてしまうらしい。園の先生から、毎日電話がかかってきて、「きょうは○○ちゃんを引っかいてしまいました。先方の方に、お名前は言ってませんが、おかあさまからあやまりの電話をいれてください。」と言うのだそうです。「どうして、そんなことになってしまうのでしょうか?」と、たずねると、子どものそれなりの理由をおっしゃる。そして、「子どもにはこの事にふれないようにしてください。子どもが傷つくから」と言うのだそうだ。このおかあさんは、毎日、電話がかかるのが恐怖になっているようでした。そして、うちの子どもは異常でしょうか。ずーっと、なおらないのでしょうか? 幼稚園をやめたほうがいいでょうか? と。

 いろんな子どもがいることを、おかあさんたちは見守れないでしょうか。保育者から、けんかの状況と、子どもの気持ちを伝えてもらうだけではだめなのでしょうか?
 いじめっこ、乱暴ものと、今からレッテルをつけられて育っていくのでは、まっすぐ伸びるものも伸びません。
 いじめられっこ、弱虫とレッテルをつけられたのでは、胸をはることを忘れてしまいます。
 人が育っていくというのは、心に傷をつけ、その傷が治りというのを数知れずくりかえしていくのではないでしょうか。傷をなにひとつつけずに、おとなになっていくことは不可能ですし、そんな人間はなんの魅力もありません。そして、親が傷をつけさせないように守ことは、もっと不可能です。
 人は育つうえでついていく傷を、自らが癒していく力を持っているのです。また、その力をもっとつけていくには、心のけがを防ぐのではなく、けがを有効に治していく手助けをおとながしていくべきなのだと私は考えています。

 写真/りんごの木4,5歳児の造形活動より

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