柴田 愛子        

 10月初旬、こんなことがありました。
 年長5歳児が、江ノ島海岸に遠足にいくことになっていました。
 ところが、あいにくの雨。延期にしました。
 子どもたちは、なにくわぬ顔で「おはよう」と、やってきましたが、実のところ家では、大泣きしたようです。行けないという事実に、自分の気持ちがおさまらずに泣いたのでしょう。

 おとなは「今度、きっと晴れるわよ」とか、「雨の日に行ったってしょうがないでしょう?」とか、あれこれなぐさめますけれど、子どもはこんなとき、どうしてほしいとか、なぐさめられたいとか、どうしたいと思っているというわけではなく、ただひたすら行けなかったことが残念で泣けてしまうのですね。
 そして、おとなのなぐさめことばである、「きっと、こんどは晴れるから」「晴れたときのほうがたのしいでしょ」という言葉は、あまり役にはたっていません。それは、経験からでてくる言葉なのです。経験をつんでいない子どもにとっては、「おかあさんがいうんだからしかたない」とか、「そう、きまったんだ」とか「きっと、そうにちがいない」といったような実感のないなぐさめられ方でしかないのです。

 さて、話をもどしますと、残念で泣いた子どもたちのことを思うと、とにかく子どもの気持ちに添って、雨でも行ったらどうだろうかと思いました。
「今日は、残念だったね。あした、行きたいね。でも、もし、あしたも雨だったらどうする?」という保育者の問いかけに「あめでも、なんでも、いく!」という子どもと「やっぱりあめだったら、てんきまでまつ」という子どもがいました。とにかく行けるのは1回だけということで、考えておくように言いました。翌日は、ともかく、駅の改札口で待ち合わせということにして…。

 なんと、雨でした。
 ざんざん降っています。
 一日中降ったりやんだりと、天気予報は言ってます。
 さあ、駅頭で、子どもたちに問いかけました。ひとりひとり、聞いていきました。
「いく? いかない?」
 28人中14人が、行くと答えました。そして、はつらつと改札口に入っていく後ろ姿を、私は見送りました。

 天気予報どおりでした。午後4時、子どもと3人の保育者が帰ってきました。みんな輝いていました。
「どうだった?」と、聞きますと、
「めちゃ、たのしかった!」
 砂場に保育者がテントを張り、リュックを入れたそうです。
 海の水はそれほど冷たくはなかったけど、10分ででてきた子もいれば、1時間半も入っていた子もいたそうです。
 雨の中、砂で一生懸命何かをつくっていた子もいたそうです。
 身体が冷えたので、お弁当を持っていたけれど、ラーメン屋さんに入り、半分ずつのラーメンとお弁当を食べたそうです。
 ・・・子どもも保育者も高揚した顔で、報告してくれました。その顔は、満足感、充実感にあふれていました。

 この出来事から、私は頭の中が整理されたことがあります。
 ひとつの経験には次のような心の動きがともなっているのでしょう。
(1)先ず自分の願望があります。次に願望を行動に移すかどうか悩み、判断をします。
  判断をしたのち行動を実行に移します。
(2)そこには責任、つまり、自らが引き受けなければならないことを抱えます。
(3)実行したあとには、満足、充実感があります。
 ここでまでが体験。
(4)体験した後、時間の経過とともに体験が整理されていきます。
 そして、それは経験となり、次の判断材料になっていく…。

 こういう流れが、子どもたちの確かな体験学習ということなのではないだろうかという事です。
 今回の例で言えば、
(1)「雨だからって、あきらめられない。海にいきたい」
(2)「行くということは、風邪をひくかもしれない。つまんないかもしれない。お天気の
  ときに行く人を見送るときは泣けるかもしれない」というようなこと。
(3)思いをつらぬいて行ったことに満足。
(4)「やっぱり、晴れのほうが海はたのしい」「いや、あめの海もいいもんだった」
 それぞれの子によって違うでしょうが、体験したことが、頭の中で整理されます。
 そして、今度また遠足の日が雨になったときに、子どもたちはこのときのことを思い浮かべながら判断するでしょう。

 子どもはこういう繰り返しを積み重ねて、大きくなっていくのではないでしょうか。
 そして、おとなの役割は、今回のことで言えば、テントを用意したこと、ラーメン屋に連れていったことです。子どもの流れに添いながら援助していくというのは、こういうことではないでしょうか。 (この遠足は、私にとって考える刺激を与えてくれました。けれど、皆さんの家や幼稚園や保育園でもそうすべきであるという話ではありませんので悪しからず。)

 そういうことではなく、このプロセスは日常的にみられることなのです。
 1歳の子どもが、ちょっと高いところから、真剣な顔をし、覚悟してジャンプするとき。
 2歳の子が、水たまりを前にしばらくながめてから、タッタッタッとかけぬけるとき。
 3歳の子が、おおきい子の立ちのりブランコをながめて目を輝かせているとき。
 4、5歳の子が、木登りをすることを決心したとき、自転車の補助輪をはずすとき。
 
 そう、そう、雨の日の江ノ島遠足をあきらめたほうの子どもたちのこともお話ししなければ……。
 その日、帰ってきた子どもたちを、残っていた子たちはうれしそうには迎えませんでした。「へぇん!」と、顔を斜め上にむけた感じです。行きたい気持ちを抑えた連中ですから、やっぱり行けばよかったなんて簡単に思うわけにはいきません。そして、晴れる日を待ちました。 
 やって来ました! 暖かくて真っ青の空の日が!
 この子どもたちも、ぴかぴかに光る顔をして帰ってきました。この子どもたちもさきのプロセスをたどって体験を積んだのです。

 今、子どもたちは、どこまで実感をもった体験を積んでいるでしょうか。
 確かに、どこまでを許容できるかは悩むところです。個々の性格や立場、状況で違うことでしょう。
 けれど、実感をもつことなく、おとなの判断に従う常識人が幼児の段階から増えているような気がしてなりません。


 写真/りんごの木3歳児の造形活動

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