柴田 愛子         

 おかあさんたちとおしゃべりしていたとき、ひとりの保育者が「跳び箱がはやっているんですけど、どう教えたらいいのか、むずかしいです」と、言いました。
 おかあさんたちは、自分の子どもの頃や、上の子の体験を思い出しながら、
「あれ、ちょっとしたコツなのよね」
「私は、跳び箱の上に印を付けて、ここに手をつくと、と教えてもらったらすぐにできたわ」
「以前、体操教室に行っていたけれど、オリンピックに出たような人で、教えるのがすごくうまいの。どんどん上手にできるようになって、子どもも行きたがった」
などと、"指導"してできるようにしていく話がたくさん出てきました。
 ふと、専門講師がいる幼稚園が人気になるのはこういうことなのではないかと、思いました。
「プロの人が的確なアドバイスをしてくれれば、子どもは苦労せずに上手になる」
 
 かつて幼稚園に勤めていたときのことを思い出しました。
 柔道出身の体育講師が来ていたとき、怖い声に怯えました。怒られると頭を抱えてうずくまる子がいました。翌年は、優しい人が来ました。体育系にもいろいろいるようです。
 ハーモニカの講師が来ていた園では、全員ホールに集まっての指導でした。やっと心が開きかかっていたけんじくんは、ハーモニカに興味がなかったのです。不熱心な彼は大きな声で叱られ、立たされていました。つらかったです。そして「私が教えるから、講師が来たのと同じくらいに教えるから、講師はやめてほしい」と園長に掛け合い、実現したことがありました。

 私の子どもの頃も思い出します。
 私は体育が嫌いでした。体を動かすのが嫌いだったわけではありません。先生が怖かったわけでもありません。ピーとなると動かなければいけないというルールみたいなことが、苦しかったのです。笛がなり「つぎ!」と、順番にやらされると、体が固まってしまうのです。だから、なお、言われるようにはできない。「できなかったらどうしよう」と、心配にもなります。
 そして、心配通り、先生に教えられたことは、ほとんどできませんでした。
 鉄棒の逆上がりは、昼やすみに、一人で何度も何度もやっているうちにできるようになりました。跳び箱は、中学生のときだれもいない体育館でやってみたら簡単でした。泳ぎは高校のとき、間違ってプールの掃除の日で、水が半分しか入っていない、誰もいないときに行ってしまい、安心して練習して、泳げるようになりました。

 私は、ほとんどのことは、静かで安心なときに、指導されなくて、自分のペースで練習してできるようになってきたような気がします。
 ピアノは、教えてもらいました。けれどその先生は、手の形や指づかいなど強要することはなく、私流を黙ってみてくれていました。もっとも、だから、一流にはならなかったということでもあるのでしょうか。(一流になりたい欲もありませんでしたが)自己流に近いので、間違ったやり方をしていることもありましたし、人と違う方法のときもありました。
 おかあさんたちとおしゃべりするうちに、跳び箱を跳べるか、跳べないかは、今後の人生にどう影響するのだろと、思い始めました。そんなに、必死にプロに頼んでまですることだろうか? 体育的なことの家庭教師もあるそうですね。

 りんごの卒業生、2年生のダウン症のレイちゃんのおかあさんがこんな話をしました。
 最近レイちゃんは、逆上がりができるようになったそうです。ながいながい練習期間があったそうです。
 その間、先生は手を貸したくてしかたがなかったけれど、レイちゃんが拒否したそうです。とうとうできるようになったときのレイちゃんは、それはそれは喜び輝いていたそうです。そればかりでなく、手を出したかった先生も大感激。まだ逆上がりができない同級生は、今までと違う目でレイちゃんを見るようになったそうです。

 逆上がりができるようになることが、子どもの成長の糧になるわけではなく、この輝きこそが糧になるのでしょう。やりたいと思ったことに、夢中になり、努力し、達成する。このときの喜びが、満足感が、次の成長の糧にもなるのでしょう。それは、跳び箱でも、逆上がりでも、泳ぐことでも、造形活動でも、編み物でも、泥団子でも、木登りでもいいのではないでしょうか。そして、この喜びを知った子は、次の挑戦もするのではないでしょうか。 
 ○歳はスキップ、○歳は前まわり、○歳は逆上がり…は、成長の目安です。そして、保育・教育の場では、年齢にあった目標を子どもたちにかかげます。ところがそれは、すっかり、子どもをはかる物差しになってしまい、できないと、小さい、幼い、遅れていると測られてしまう気がしてしまいます。そこで、短時間に要領よくできる指導を望むのでしょう。親ばかりではありません、教師もそう考えているでしょう。

 教えることが悪いとは言いません。教えてもらうことでわかっていくことはたくさんあります。それをきっかけに、やる気を起こすこともあるでしょう。ただ、物差しをかかげ、ベルトコンベアーに乗せられ、と時間と労力をかけずに完成品にしていくような子どもの育て方は、子どもの芯にある意欲とか、生きようとする力とか、喜びや悔しさ悲しさを感じることを育ててはいないのではないでしょうか。

 写真/りんごの木5歳児の造形、紙版画

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