柴田 愛子        

 乳幼児の親から「しつけ」について意見を求められることが、よくあります。小学校高学年になると、このことについては、ほとんど聞かれませんから、「しつけ」は小さいうちが肝心と思っているということでしょうか。「しつけ」という漠然とした言葉に脅かされている親は少なくありません。
「しつけもしなくちゃいけないし、のびのび育ってもほしいし…」と言うこともよく耳にします。「しつけ」と「のびのび」は反対なのでしょうか。

「しつけという言葉から何を思い浮かべますか?」と、おかあさん方に質問したことがあります。
 いちばん多かったのが、挨拶でした。「おはよう」「ありがとう」などです。
 次は、生活習慣。朝起きたら着替える、歯を磨く、自分のことは自分で、といったことです。
 三番目によく聞かれたのは、人間関係のルール。「かして」「ごめんなさい」などです。
「しつけ」と一言で言っても、思い浮かべるイメージはいろいろです。

「公園の水道で水あそびをしている子を見たら、どう思いますか?」という質問に対して、「みんなのものだから、子どもも使ってもいい」「わんぱくでうらやましいわ」と言う人がいるかたわら、「公共のものだからいけない」「しつけができていない」という人がいます。
「しつけ」は、よく聞いてみると、それぞれに内容が違います。それは「親として願っている子どもの姿」と言い換えることができるのではないでしょうか。
 ところが、親は願いが多い! 洋服の着方、食べ方、挨拶の仕方、なんでもかんでも口やかましく言います。「一生懸命言い続けると、できるようになる」ことは、ほんのわずかです。言い続けてもできないことなら、とりあえず、今はできない(幼い子には、身体が未発達でできない場合もよくあります)と、あきらめることの方が肝要かと、わたしは思っています。だって、すごいエネルギーを使うことですもの。

 さて、親の願いを必死に受けとめて育つと、立派な人になるのでしょうか。
 あるとき、10人くらいのおかあさんの集まりに伺ったときです。たまたまでしょうか、その方々は、ご自分はしつけの厳しい親に育てられたとおっしゃいました。「かして」と言っても「だめ」と言われたらあきらめる、という育てられ方をしてきたそうです。
 わたしの「けんかのきもち」の絵本なんか、眉をひそめていました。子どもの気持ちのいろんな例をしても、どうもみなさんに浸透していきません。仕方なく、おかあさん自身の話をしてもらいました。すると…、
「わたし、今まで、自分の気持ちを親に見せたことなんて、ない」
「わたしは、親がけんかはよくないというからしなかったのに、うちの子は兄弟げんかをよくして、親のわたしがやめなさいと言ってもやめないから、腹が立って、たたいてしまう」
「親の言うとおりの学校に行き、就職をし、結婚もしました。今、どんなときに子どもを叱っていいのかわからないんです。同居している親が叱れというとそうかと思って叱ります。わたしの心が動かなくなってしまったのです」と、それぞれ涙ながらに話してくれました。その場の、しつけが厳しく育ったおかあさんたちは、自分自身の気持ちをストレートに出せなくなってしまったように思えました。
 この人たちの子育ては辛いだろうな、と思いました。自分と同じようにいい子であってほしいという思いと、ありのままに自分を出せなかった辛さの中にあるのですから。

 しつけとは、親の言うとおり、従えるようにすることでしょうか。自分をなくすことでしょうか。
 同じように、「わたしの家は、とてもしつけがきびしかったんですよ」と、言っていた知人を思い出しました。とても魅力的な人で、生きることや命の話をしみじみとなさるのです。その方はこんな話をしました。
 子どもの頃、ご飯を食べるときに両手をあわせて「いただきます」をするのですが、おじいさんは、ひじがあがっていると、ひじを強くたたき怒った。「いただきます」ということは、命を「いただきます」と言うことだ。植物や動物、魚の命をいただいて、わたしたちの命がある。命をいただくのに、その「いただきます」はなんだ!と、たたかれたそうです。
 この話に感心しました。おじいさんは自分が生きていく上で、大事に思っていることを、日常の中で伝えているということです。

 先日こんなことがありました。公園に行ったときのことです。かいくんが、お弁当箱をひっくり返してしまいました。おにぎりは、食べた後だったので救われたのですが、やきそばが砂地にひっくり返ってしまいました。彼は拾いあつめ、水道で洗い始めました。いっぽん、いっぽん。「たべなくちゃいけない」と言いながら。洗ったおそばをさらにすすいで、食べ始めました。つき合っていた保育者に「てつだってほしい」と言ったそうです。断れずに食べてみると、やきそばの油に着いた砂は落ちきれず、じゃりじゃりと気持ち悪かったそうです。「残してもいいんじゃないの」という勧めも受け付けず、彼は全部食べたそうです。
 彼は、日頃から、食が進まないときでも、時間をかけて残さず食べます。この出来事を聞いたかいくんのおかあさんは、「わたしたち、きびしすぎたかなあ。そこまでやらなくてもいいのに。食べ物を粗末にしてはいけないと、いつもきつく言いすぎかなー」と、ちょっと考えてしまったようです。家に帰って「落ちた物まで食べなくてもいいんだよ」と言ったら、ポカーンとしていたそうです。
 かいくんのおとうさんは、フリーのスポーツ選手です。子どもの頃、親が食べ物をきっちりしてくれたお陰で今の体がある、と感謝しているそうです。「妻が一生懸命料理をしている姿を見るとねー……」とも言っていました。

 こんなふうに、わたしは思います。
「食べ物は粗末にしてはいけない。出された物はできるだけ食べる」それは、かいくんの家の大切な「しつけ」。おとうさんの体と心にしみついた、子どもへのメッセージ。だから、これでいい。たとえかいくんが多少辛かろうが、これでいい。このおとうさんの子どもだから。そのメッセージが伝わりながら、ケースバイケースであることが、だんだんわかっていく。今回のようなことがあって「落ちたのは、食べなくてもいいのか」とわかる。洗ってもダメな食べ物も知る。そして、一緒に食べてくれた保育者のことを、きっと忘れないだろう・・・」

 頭で考えたあるべき姿を願って口うるさく言うのが「しつけ」ではないし、いい人らしい振る舞いを自動的にできるようにすることでもない。それより大切なことは、自分が育ってくるなかで身についた礼儀作法を、わが子に伝えていくことではないでしょうか。「親の背中を見て育つ」というようなことかもしれません。
 子どもは小さいときは、親のしつけは絶対です。できるかできないかは別問題として、それが正しいと思っています。ですから、あえて、どうしてもしつけたいことは、数少なく、意識的に、していったらどうでしょう。
 あなたが育った家のように、そのうちきっと、我が家なりの礼儀作法ができていくのではないでしょうか。
(今回の話の、かいくんの部分は毎日新聞のWeb <Mainichi interactive>に載せたものです。)


 写真/りんごの木3歳児水あそび

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