柴田 愛子 | ||||||||||
私の絵本に「ぜっこう」(絵・伊藤秀男 ポプラ社)というのがあります。このお話は、二人の子どもの絶交をしているほうもされているほうもつらい様子を見て、私が間に入って話し合うのですが、「ひとがひとを許せないというのは、よっぽどのときだよ」と私が言いますと「じゃあ、どろぼうはゆるせるのか」と返されました。さらに「じゃあ、ひとごろしもゆるせるのか」と突き付けられたときの実話をもとに書いたものです。私は「ひとが ひとのいのちをとることだけはゆるせない。ぜったいに」と、答えています。 ご覧になった方から、「2003年7月に長崎で起こった、子どもが子どもを殺した事件についてはどうお思いですか」と、たずねられました。ご存じのように中学1年生が4歳の子を連れ出し、駐車場から落とし殺害した事件です。その方にお返事したものに筆を加えて、ホームページに載せてみました。読んで頂きたいと思います。 今回の殺してしまった少年に対して、専門家によって違う意見を聞きました。ひとつは、こういう少年は生まれつき脳細胞に異常があるという意見。もうひとつは、みんな人間は同じようにできている。みんな殺意は意識していなくて持っている。たまたま、その時の状況がいろいろ重なって、こういう行動になってしまったのだろう、という意見。私は後者の意見に賛同したいです。 年齢がいかない子どもが子どもを殺してしまうというのは、ほんとに不幸だと思います。たまたま起きてしまったと片づけられるものではありません。その一線を越えてしまった理由は、本人が整理して認識できないことでしょう。両親の関係、親子関係、学校の友だち関係、先生との関係、教育システム、地域社会のあり方、地域の人間関係、社会全体のシステム、労働状況、商品の開発販売……考えていくと、あらゆることが誘因になっています。そして、そこに存在するおとな、私にも責任があります。 私事ですが、数年前、甥がブラジルで強盗に射殺されました。兄の長男で18歳でした。教会での葬儀のとき、小学校の教師を長くやっていた義姉がこう挨拶したそうです。「息子を亡くして、たまらなく悲しいです。でも、強盗が悪いのではなく、この国の教育と政治が悪いのです」と。私は行くことができなかったので、あちらの知人が「この挨拶に会葬者が涙し、感動した」と伝えてくれました。兄はすっかり力を落とし、(自分がよろけたために、息子に弾が当たってしまったのです)5年後亡くなりました。犯人は捕まりませんでした。 ここ数年のいじめの問題にしても、いじめるのはいけません、確かにいけません。けれど、いじめてしまうわけが本人の無自覚の中に確かにあるのです。けれど、そのことに触れず、排斥・排除して、他を守ろうとします。原因は何ら解決されずに、もっとつらい状況に追い込んでいるのです。おとなが子ども達に適切に本気で関われば、多少なりとも、ささくれだった子どもの心を穏やかにすることはできると思うのです。 |
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