柴田 愛子            

 小学一年生の親たちと、6月の始めにおしゃべりをしました。この3月にりんごの木を卒業していった子どもたちの近況です。
 ほとんどの子が、それなりに学校に居場所を作り始めたようです。けれど、驚いてしまったことがあります。クラスの目標が「けんかをしない」、学校の五つの約束の一つに「けんかをしない」・・・ということでした。けんかを学校が嫌っていることがわかります。え? 私の著書のひとつ、絵本「けんかのきもち」(ポプラ社)は第7回日本絵本大賞をいただきました。低学年の課題図書にも選定され、今は「よいえほん」と書かれた帯が巻かれています。どういうことでしょう。けんかはしないで、本を通して共感するだけにしましょうってことですか?
 おとなの中には「今の子は、けんかもできない」という声も聞きます。あれは、もう、大きくなったおじさんたちの言い分でしょうか。現場は、けんかは暴力だからいけないという見方なのでしょうか。

 ある元気な子をもつお母さんが「先生から、うちの子が他の子をなぐってしまい、相手が鼻血を出してしまった。相手の親御さんにお詫びの電話をいれるようにと言われた。子どもに聞いたら、いやなことをするのでやめてくれと何度も言ったのにやめないから殴ってしまったら、鼻血が出たということだった。でも、いちおうお詫びの電話を入れました」という話を聞きました。もちろん、殴ることはいいこととは言えません。でも、子ども同士はきっと了解しあえているのではないでしょうか。親との関係、親同士の関係を穏便にするために、子どものけんかにスットプをかけていることもうかがえます。
「うでをあげると、せんせいがうでをおさえて、けんかはだめ!と、いわれる」「がっこうでは、けんかにならないんだよ。だって、みんなせんせいにいいつけるから」と、子どもたちが言います。
 いやなことがあると、先生に言いつける。そうすると先生が来て、話を聞いて、ダメでしょと言われて、ごめんなさいと言い合うそうです。握手をさせられることもあるそうです。これって、イヤなことがあったときは本人に言わず、権力のある人に頼んで間に入ってもらい、丸くおさめてもらう。こういう方法を教えているようなものですよね。そして、確かに世の中はそうです。
 私だって、何歳になっても取っ組み合いをしましょうと言っているわけではありません。子どもには子どものわかり方があると思うのです。子どもが自己中心から、人の気持ちを考えられるようになるには、たくさんのいざこざや体験が必要なのではないかということです。一つの目安は10歳くらいと思っています。もちろん、お互いの関係が近い友だちや、兄弟姉妹はいくつになっても身体でわかっていくことがあるでしょうけれど。

 けんかを嫌っているのは学校ばかりではありません。親もです。それも、まだけんかにはならない1歳の子が他の子に興味を持って近づいていき、押してしまったらあいてが尻餅をついた。これも、けんかであり、暴力であり、スットプされます。3歳までにけんかや暴力はいけないとしつけなければ、と考えている親も多くいます。
 個人差はありますが、だいたい4歳未満の子は言葉が稚拙です。(おとなになっても口べたの人だって多くいますけど)言葉は生まれた後に環境によって習得したものですから、まだ、使いこなすに至っていません。でも、感情や本能、自我はみんな持っています。それを身体で表現することがいちばんストレートであり、いちばん伝わりやすいのです。
 他の子が持っているおもちゃを欲しいと思う。手をかけて引っ張る。相手が手を離さない。お互いに力が入る。とうとう、自分のものになった。でも、相手は泣いた。困った。どうしよう。やっぱり返す。こんなふうに言葉を発することなく、言葉と同様の気持ちのコミュニケーションをしているのです。「かして!」「だめ!」関係をスムーズにするための言葉を記号のように使わせても、なんら自分の気持ちも、人の気持ちもわからないのです。心と体と密着しているのが乳幼児なのです。
 コッペとりんちゃんは3歳クラスの時からの親友です。コッペはどうやって友だちになったかを今(1年生)でも覚えていると言います。りんちゃんが持っていたブロックを、ぼくがとった。りんちゃんは怒らなくて、にこっとした。それで、友だちの気持ちになったそうです。現象だけではわからない子どものコミュニケーションがあります。けんかを通して友だちになることは、6歳の子でもあることです。

 小学校低学年もそうでしょう。口が達者な子はいいでしょうけれど、言葉にはなかなかならない、気持ちがあふれてしまう子も多いと思います。
 子どもたちのけんかのきっかけを、思い浮かべてみましょう。
 いちばんシンプルなのは、物の取り合い。二人とも使いたかった。
 誤解からけんかになることも。「いれて!」といったら「ダメ!」って言った。よくよく聞いてみると「とちゅうからいれてあげられないから、これがおわるまでまって」という意味だった。こんな言葉の行き違いはいつもです。
 意見の違いを口論していたら、気持ちが口では治まらなくなり、じれてきて手が出てしまうこともあります。
 確かな原因がなく、ただ、なんとなくむしゃくしゃしていて、ちょっとしたきっかけでけんかになってしまう。つまり、八つ当たり。
 気に障る言葉を浴びせられて、かっとなってけんかになる。デブとかチビとか、弱虫とか、へた!とか。(しつこく言う子に腹を立てて、けんかになってしまい、学校の先生にやりすぎを注意されたけれど、それからは言わなくなったという例もあります。けんかを思いっきりやらなかったら、言われている方はじっとがまんを強いられたかもしれません)
 正義の味方で、間違っていると思う人を許せなくて、けんかになる場合もあります。
 大好きな友だちがやられているのを見ていられなくて、けんかに加わってしまうこともあります。
 長いことじっとしていて、体がもやもやし、仲良しにぶつけて取っ組み合いスッキリすることもあるようです。スポーツみたいなものですね。
 嫉妬からけんかになることも。これは女の子に多く、取っ組み合いにはならないかな。
 子どもたちに「けんかが好き?」と聞くと「すきなんじゃないよ。なっちゃうんだ」と言います。「だれとでもするの?」と聞くと「よくしっているやつとだな。なかがいいとする」「どうして、知らない人としないの?」「だって、あいてがつよいかもしれないし、しらないひとはこわくてできないよ」と言います。
 自分の気持ちがあふれる。相手の気持ちがぶつけられる。ありったけ発散して、どちらかが泣いたり負けたりして終わる。もう、会いたくもないと思う。自分がどんなに正しいかを自分にいいきかせ相手を非難する。だんだん、相手の力や言葉が思い出されてきて、相手の気持ちを考え始める。なんとか、元の関係に戻りたいと思う。勇気を出して近づいていく……こんな課程を取ると思います。これが「けんかのきもち」の絵本でもあります。
 けんかはわざわざしなくてもいいと思います。でも、けんかでしか言えない子もいるし、けんかだからわかることもあるし、けんかを通してこそお互いが仲良くなることもあるのです。ですから、けんかを取り上げることはないと思います。

 素手でやること、一対一でやること、(両方がやる気ならばいいが)どちらかがやめたくなったらやめる。私は、この三つをけんかのルールにしています。

 おとなは見ていて、続けるかどうかを確認します。どちらかがやる気を無くしたら割って入り、終わりにします。片方が治まらなくても、止めます。力関係が歴然としている場合も、両方が続ける意志があるかどうか確認します。弱くても、鼻血を出してもとことんやって満足する子もいれば、相手が弱いんだからもっと力加減をするべきだったと反省する勝者もいます。
 幼いときにけんかのルールを身につけることや、取っ組み合いを通して力の加減を知ったり、体を使ってスッキリしたりという、身体の体験をする。心をぶつけあって修復していくという心の体験をする。そうした機会を奪うことはないのではないでしょうか。
 おとなたちは、心身を練ることなく、形ばかりの人間関係、形ばかりのいい子を、まるで鋳型にはめ込むように作ろうとしていないでしょうか。

 小学6年生の子どもが、友だちを殺した事件が報道されました。今回の事件の詳しい状況は知りませんから、この件に何も言えませんけれど、ニュースを聞いたとき「けんかができたらよかったのに」と思いました。パソコンではなく、子どもたちが、思ったことをストレートに、顔をつき合わせて言い合えることができればよいのに、けんかになってもいいのに、と思います。

「けんかのきもち」袖カバーより。伊藤秀男・絵
                 
さんぽ、遠足はこどもたちの日常をふくらませます。

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