母親学級などで子どもをもつおかあさんたちの悩みをお聞きすると、「けんかがはじまったとき、どうしたらよいのでしょうか」「兄弟げんかの仲裁の仕方」などについて聞かれます。
 小さい子どもの公園などで起こる物の取り合いや、突き飛ばしてしまったりすることで起こるけんかなどは、相手の子どもの母親や、周囲の視線が気になって、「けんかがはじまると困ってしまう」ということが、多いのだろうと思います。(これについては、ホームページの1回目をごらんください)
 ところが、子どもが4、5歳だったり、幼児や小学生の兄弟げんかとなると、「どうしたらいいんでしょう」という戸惑いの中身が違ってくるようです。
「けんかはいけないこと」「けんかをしないで仲よくしてほしい」という思いももちろんあるでしょうけれど「とにかく、けんかをみるのがいやなんです」という、けんかに対しての嫌悪感とでもいえるような感情を持っている方が、案外多いのではないかと、この頃思うんです。

 私は子ども同士のけんかより、母親が子どもにものすごい剣幕で叱っているのを見るほうが、はるかにつらい気持ちになります。だって、すごいですよね。おとなや他人には、決してこんなにひどいことは言えないだろうというような、乱暴な言葉が切れ目なくでてきますよね。おとなの男同士のどなりあいや殴りあいも、どうしてもいやです。それが、酔っぱらいだったりすると、もっといやです。
 けれど、子どもたちのけんかは平気でながめていられるんですよ。中学生くらいまでなら平気かな。もっとも、この頃の中学生は刃物を持ち出すから、ちょっといやかしら・・。ともかく、幼児や小学生ぐらいならながめていられます。
 これって、どうしてかしら。

 思い当たるのは、自分がたくさん兄弟げんかをしてきたこと。5人兄弟の末っ子ですから、自分の存在を兄姉に知らしめるためには大変でした、特に、3歳上の兄とでは・・。いつもくっついて歩いてはいやがられ、毎日けんかをしていました。兄は手をだし、私は口をだすというけんかでした。腕力ではかないませんからね。兄の友だちとのけんかも見てきました。ふたりの姉同士のけんかや友だちとのけんかも見てきました。
 私自身も中学ぐらいまで、ちゃんとけんかをしていた気がします。
 そう、見慣れてる、やり慣れてるということがありそうです。
 そして、保育の現場に入ってからも毎日、子どもたちのけんかを見てきました。
 でも、保育者になってからは、自分が体験してきたときとは違って、けんかの意味が見えてきました。だからこそ、けんかを簡単に止められない。それどころか、大事なことと受け止められるようになったのだと思います。
 ひとつの例をお話ししますと、先日こんなことがありました。

「なんだよぉ、おれがさきにとったのに!」と、ゆうきの怒った声がします。見ると、ゆうきとゆうすけがいすを取りあってけんかをしています。そのいすは、たくさんあるいすとはちょっと違う、黄色の木のいすです。「お弁当にしましょう」の保育者の声と同時に、ゆうきは片手にお弁当の入ったリュック、もう一方にこのいすを取ったのです。そこへ、ゆうすけがやってきて、同じいすに手をかけた模様。
 ゆうきは顔をまっかにしてどなっています。
 ゆうすけは、だまって両手でいすをひっぱります。
 しばらくは事のなりゆきを見ていたのですが、数分この状態が続いたので近づいていき「どうしたの?」と、声をかけてみました。
「これ、おれがさきにとったのに」と、ゆうき。
「そうか、ゆうきくん、使いたいんだね。(ゆうすけに)ゆうすけも使いたいの?」と、聞くと無言でウンとうなずきます。
 困っちゃいました。「先に取った自分のもの」というゆうきの言い分もわかります。けれど、「でも、ぼくも使いたい」というゆうすけの気持ちもわからないではない。ふたりは5歳ですから、理屈やルールがわかります。ゆうすけにしてみれば、理不尽かもしれないけれど、自分の気持ちをゆずれないのかもしれません。(そういうの、おとなだってありますよね。)
 どうしたらいいものか、私自身がわからなかったので、他の子どもたちに、この状況を伝えてみることにしました。別のいすを私が取り「このいすで食べよう!」と言うと、察した保育者の一人が「私が使いたい」と、いすに手をかけてきました。同じ状況をおとな二人でやりはじめたのです。結構、迫真の演技でしたから、ゆうすけとゆうきもいすに手をかけたまま、けんかは中断したかっこうで私たちを見ています。他の子どもたちも。

 みんなの注目を集めてウソっこのけんかをした後、「こういうことなのよ、あの二人のけんか。どうしたらいいのかしらねぇ」と、問いかけてみました。
「さきにとった、ゆうきのものだね。ゆうすけはあきらめるしかない。あしたにすればいい」
「でも、ゆうきはいつもそのいすをつかっているよ。たまには、ゆうすけにかしたっていいじゃないか」
「じゃんけんにしたら、どうかなぁ」
「じゃんけんなんか、いやだよ」
 などなど、子どもたちから、いろんなアドバイスがでてきました。


 でも、二人はまわりの意見に動じません。けんかはふたたび開始です。体の大きなゆうきが実力行使にはいりました。「もう! ぶってやる!」そして、ゆうすけをぶちはじめました。もちろん、片手はいすをがっちりつかんでいます。でも、ゆうすけは離しません。頭を肩にうずめるようにして耐えています。
 ゆうすけが『やめたい、限界だ』という表情ではなく、キッとした『まだ譲らない』という表情だったこともあり、困ったまま仲裁に入れず、見ているしかありませんでした。
 だんだんゆうきの力が強くなり、ゆうすけはこらえきれず、とうとういすから手を離しワァーと、泣きだしました。ゆうきの勝利です。
 しかし、ゆうきの顔に喜びはなく、その場にしゃがみこんでしまいました。

 ゆうきは、自分が正しいと思いながらも、明るい気持ちにはなれませんでした。それは、ゆうすけの『ぼくも、このいすをつかってみたかった』という気持ちが伝わったのではないでしょうか。そして、自分ばっかりという、多少の後ろめたさもあったかもしれません。しばらくして、すごすごといすを引きずりながら、保育者の隣の席でお弁当をひろげました。

 一方、ゆうすけは窓辺にまぁるくうずくまっています。何人かの子どもが声をかけにいきます。「いっしょにたべよう!」「おれたちのつくえにこいよ」 でも、ゆうすけは動かずじっとしています。
 しばらくして、気持ちが落ちついたようなので「お弁当にしようか」と声をかけました。すると、なんと驚いたことに「うん」と、さわやかな顔で答えが返ってきました。やるだけやったという自分に対しての満足感があったのではないでしょうか。だからこそ、さわやかな表情だったのでしょう。

 こんなふうに、けんか・争いを通じて、人の気持ちに気づく・人の気持ちを受け止めるということが、実際の体験として積まれていくのではないでしょうか。
 人を嫌いになるためのけんかではなく、人をわかっていくためにけんかがあるんです。

 けんかとは、意見の相違で争うことだとすれば、おとなだって常にあることなのではないでしょうか。
 そのときはカッカとして、自分だけが正しいと思い、相手に対して決して譲れない気持ちになりますが、どうもすっきりしない。そして、自分だけを正当化することに無理があることも見えてきて、相手の言ったことを反芻してみる。そして、「ごめん悪かった」と思うときもあれば、「やっぱり違う。でも、どうしてあの人はそう考えるようになったのかしら」と、思いを馳せたりする。(私のパターンはだいたいこれです。)

 たしかに、けんかをして気分がよかったことはありません。けんかをすると、とってもしんどいです。けれど、しないよりしたほうがよいと私は思っています。だって、自分の中でもんもんとし、自分で自分をなだめて納得させるよりは、相手にストレートにだして、ちゃんと相手の思いをわかった方がいいですもの。もちろん、おとなの私は、自分自身の中で消化できることもありますから、消化できない場合のことですけれどね。 相手にぶつけたことで、必死で頭を使います。そして、少しは、人に対する器がひろくなるような気がします。

「兄弟げんかがすごいんです。どうしたら」というご相談に、私はこんなふうに答えています。

 ほんとに大変でいやになったときは、どちらかが助けを求めて逃げてくるでしょう。それまでは、かかわらないこと。けんかをしている場所や持っている物で怪我をしそうならば、それをとり除いてください。
「おにいちゃんだから」とか「ちいさいんだから」ということで仲裁したり、おかあさんの判断だけで軍配をあげてしまわないこと。

 兄弟の場合は、おかあさんが子どもに八つ当たりするように、お互いにもっていきどころのない感情を、八つ当たりすることで自分を落ちつかせるという場合もありますよね。八つ当たりを許しあえるのは家族ぐらいですよね。その場合もお互いの気持ちはわかっています。

 けんかがどうしても気になって仕方ない方は、見えないところに行くか、聞こえないように耳栓をしたらいかがでしょうか。ともかく、見慣れてください。そして「またか」と匙をなげてください。
 けんかに動転したり嫌悪したりせず、見慣れて余裕ができてくると、けんかの中に、子どもが人間関係の作り方を学んでいる姿が見えてきます。

*以上ですが、これは健康な兄弟げんかのときです。けんかの原因が、どちらかの子どもだけを母親や父親が溺愛しているために起こるなど、精神的な不安や抗議から発生している場合は、対応は違います。まず、自己点検してみてください。

イラスト/松村千鶴(りんごの木)

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