今、こどもたちががまんをしなくなった、がまんができないという声が聞かれます。
 どうして?って、考えてみたんです。
「がまんできない」という中身には、二種類あると思います。「今のこどもたちは、なんでもすぐに買ってもらえると思っている」というような、物欲に対してのがまんができないということを指すとき。
 もうひとつは、「すぐキレル」とか「わがままなふるまい」といった、こらえること、辛抱することができない、自己中心で自分のことばかり・・といったことを指しているときです。
 ここでは、ふたつめの方に視点をあてて考えてみます。

 ところで、がまんって、どういうときにするのかしら。
 3歳ぐらいのこどもを思い浮かべると、もう、ちゃんと「がまんする」姿をみることができます。
 使いたいおもちゃだけど、〇〇ちゃんが使っている。無理にとると泣いちゃうから・・がまん!
 大好きな〇〇ちゃんが、まだ、来ない。一緒にあそびたいから、〇〇ちゃんの大好きなままごとのスカートを持って、だれともあそばないで待っている。これも、がまんでしょ?
 おかあさんが、おばちゃんと長話。「かえろう」って言っても「まっててね」仕方ないからがまん!
 園でいじわるされて悲しいけど、帰っちゃいけないから、がまん!

 4、5歳児だと、意識的にがまんすることが多くなります。自己コントロールできるようになってきたということでしょうか。
 けんかして、相手をぶんなぐりたいけれど、相手の方がちいさいから、がまんする!
 友だちにサッカーさそわれて、自分はあんまりしたくないけど、ちょっとがまんして付き合う。
 おかあさんの八つ当たり、ちょっとがまん!
 先生のはなし興味ないけど、がまんしてすわってる!
 友だちとあそびたいけど、今日はピアノだから、がまん。
 こうして考えてみると、一日の生活の中で、こどももずいぶんがまんをしているし、がまんする力がどんどんついていっているなぁと思います。
 おとなだって「ほんとはこうしたいのに・・」「こうしてほしいのに・・」と、がまんしていることが山ほどありますよね。それに加えて、法律上許されていないからとか、自分の目標があるからとか、こういう人間になりたいという目標とかで、がまんを通して人生の流れをつくっているということもあると思います。
 
 ここでは、こども、おもに幼児の話にします。
 こどもたちが、どうしてがまんをするのか考えてみるとね、ふたつに分けられるような気がするんです。
 ひとつは、こわいからがまんする。
 これは、権威とか、権力といったたぐいのものに従うがまんです。昔の人がよく言った「先生の言うことは聞くもんだ」とか、「おとうさんにおこられるよ」「悪いことするとおまわりさんに言っちゃうよ」とか、「罰があたる」といったようなものです。

 もうひとつは、人との関係。その人の心の動きがわかるから、がまんする。
「大好きな友だちが泣いてしまう」とか、「きっと、おかあさんはいやがるだろう」とか「友だちになるためには・・」「ぼくががまんすれば、みんなが楽しい」といったようなことです。これは、人とのかかわりの中から、自分の心と人の心の動きの関連性が想像できるから、がまんができるようになるんじゃないでしょうか。
 ですから、自我がでてきたころ、3歳前後、自分の気持ちに気づくと同時に、おかあさんと自分は違う人ということに気づきはじめたころに、がまんの芽がでてくるのではないでしょうか。やがて、大好きな子にも気持ちがあることに気づくと、さらに、芽はのびてくる。
こう考えると、「がまん」と「おもいやり」は、隣り合わせという気がしてきました。

 今の子はがまんができないということを考えてみると、つまり、権威ある怖い存在が少なくなったということと、簡単なことばで言ってしまうと人間関係が希薄であるということに関係があるような気がします。
 そう、例外はあります。例えば「すわっていなさい」と言われても、身体的に未発達なために、まだ長時間すわっていられないということがあります。気持ちはあるけど、身体ががまんできない。
 それと、おとなの命令に従えないことは、必ずしもがまんが足りないということにはなりませんから、間違えないようにね。なんでもかんでも「おあずけ」では、調教ですから。

 がまんを育てるには?
「がまん」という姿勢だけをとりあげて、がまんする力を養成することはできそうもありません。人間関係を希薄じゃなくする、人の心の動きに敏感になる、自分と人との心のやりとりができるようになる、ということが、「こわいから、がまん」とはちがった意味での「がまんする力」をつけるエッセンスになるのでは。
 具体的に言うと、3歳の物の取り合いのけんかが始まった。「けんかはだめよ」の仲裁では相手の心はわからない。「〇〇ちゃんも使いたかったんだね」と通訳すると「あー、そうか。この人も使いたいんだ」とわかる。
 滑り台の滑るほうを下から登っていったら、上からの人と鉢合わせ。困って、言い合って、しかたないから降りてくる。そんな経験を何回もすることで、上から降りる人がいたときは、下から上がっていくのはがまんしょうとなる。
 大好きなおとうさんだから、ほんとは見たいテレビをがまんして、野球中継にゆずった。おとうさん「サンキュー」ってうれしそうだった。
 おかあさん、自分の買いたいものがまんして、ぼくたちのボール買ってくれた。
 ほんとは、幼稚園に行きたくないと思ったけど、おかあさんが心配するから行こう。(5歳になるとこんながまんもします)

 いやいやのがまんはストレスになりますけれど、好意的な人間関係があってのがまんは、まぁいいかと思えるんじゃないでしょうか。さらに、がまんすることで喜ばれたり、お互いの関係が近くなったりすれば、うれしいがまんです。
 こんなふうに、日々の心の揺れ動きが、人の気持ちを察したり、自分の気持ちをがまんしたりにつながっていくんじゃないでしょうか。
 まだ、自分の頭の中で思案進行中のことを、書いてしまいました。あなたのご意見があったら、お聞かせください。

イラスト/松村千鶴(りんごの木)

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