世田谷にある家から、毎日、車で横浜市都筑区にあるりんごの木に通っています。
 第三京浜の高速道路、都筑の出口。料金所のおじさんに「おはようございます!」と、回数券を渡したのに無言。
 不愉快になって「お・は・よ・う・こざいます!」と、強く言ってアクセルを踏み、走りだす。

 ずっと頭をめぐる、「どうして?」
 耳が遠くて聞こえないのかなぁ。
 くそおやじなのかなぁ。
 怒っているというより、めそめそ気分に近い。こういうとき、なかなか気分を転換できない私は、すぐ「子どもたちに言おう」って思うのです

 4、5歳混合の、大きい組の子どもたちが集まる時間に言いだしました。
「今日、これこれ、しかじか・・・」
 そして、「みんなは、うちの人と”おはよう”っていう?」と聞きますと、
「ぼくがおきていくと、おかあさんが、おはようっていう。それで、ぼくもおはようっていう」という子が大半でした。
「おとうさんとは?」と聞くと、
「だって、もういないもん」が、これまた大半。
 自分からおはようという子どもも、少数ではありましたがいました。
「ところで、りんごの木に来たときはどう? 私はみんなに、おはようって言うけど、おはようって言う人と言わない人といるね」というと、
「りんごのきのおとなは、おはようっていうのはしってる。だから、いうときもあるよ」
「ところで、子ども同士は、おはようって言うの?」と聞いたら、なんとびっくりしたことに
「そんなこと、いわないよ」って、返ってきたのです。
「えっ、言わないの? じゃあ、どうするの?」と聞くと、
「『あそぼ』とか『いれて』とかいってはじまるんだよ」というんです。子ども同士であいさつするという子もひとり、ふたりはいましたけれど「だいたいは、おとながつかうんだな」っていうんです。

 私はびっくり仰天してしまいました。
 挨拶というのは、おとなが必要としているものなのでしょうか。
 挨拶とは、おとなが安心するためのものなのでしょうか。
 そうすると、なにも子どもに伝えていかなくてはいけないほどのものではないのでしょうか。
 親が子どもにしつけたいことの一番は、挨拶。「ごあいさつができる」は、いい子の代名詞のように使われているじゃありませんか。あれは、おとなの身勝手?
 私があれこれ考えていると、同じようにあれこれ考えていた子がつぶやきました。
「あのさ、お・は・よ・うって、なんなのかしら」
「ほんとねぇ。どうして、お・は・よ・うなのかしらねぇ」
(後日、国語大辞典で調べてみましたら、「おはやい」の連用形「おはやく」の変化したもの、とありました。いろいろな辞典をみたのですが、納得のいくものには出合っていません。ご存じでしたら、教えてください)

 話しているうちに、挨拶ってなあに?って、振り出しにもどってしまった感じです。
 人と人が心地よく、気持ちを通わせるためのものですよね。
 そうすると、例えば「おはよう」でなくても「オス!」でも「ヤァー」でも「げんき!」でも「○○ちゃん」でも「きょうもよろしく」でも、顔を見てニャーとするのでも、アカンベーするのでも、片方が発した信号に対してもう一方が返信することで、相手と気持ちが通じるものならいいってことですよね。
 だから、子どもたちにとっては「あそぼ」「いれて」笑顔でニィー!が「おはよう」のかわりの挨拶になっているというわけです。
 私が高速道路のおじさんにムッときたのは、こちらから発した合図に応えてくれなかった、差し出した手をにぎってくれなかったことによる不満、寂しさ、悲しさだったということでしょう。
 そして、挨拶とはいろいろな方法があるのだけれど、その共通語が「おはよう」であり「こんにちは」であり「ありがとうであり」「ごめんなさい」であるということなのだ!
(なんだか、みなさんにとっては当然の身についたことを、ごちゃごちゃしちめんどくさく言い過ぎているかしら)
 いろいろ考えたけれどね、やっぱり、私、子どもたちを「おはよう!」っていって、元気に迎えたいの。子どもたちは、それに対して「おはよう」でも、ニッと笑顔でも、片手をあげてくれてもいいの。ともかく、返してくれればね。
 おかあさんたちには「おはよう」で返してほしいな。「おはよう!」って、やっぱりいい共通語だと思う。

 なんだか、遠い一巡りをしてきたけれど、おはようが、気持ちよい握手をかわした気分に置き換えられるというのは、それが日本の文化であり、その中で育てられた私が今いるっていうこと、そしてそれは、次の世代の子どもたちにも流れていく感覚なのよね。
 人が人に繋がっていくって、すてきだね。
 ちょっと、挨拶を見直せた気がした。いやな気分が、子どもたちのおかげで、だいじなことをひとつ自分のものにできたような気がする。

イラスト/松村千鶴(りんごの木)

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