 |
 |
柴田愛子 ill Takasima.N
|
4月4日午後10時45分、母が96歳11ヶ月の生涯を終えました。
この日が来るのを、私はずっと怖れていました。
私は母が大好きでしたし、生まれてこの方57年もいっしょに暮らしてきましたから。
今まで、2回の心臓発作を見てきましたから、最後は母はどんなふうに苦しむのだろうという怖れ、それを前にしたとき私はどんなことになってしまうのだろうという自分に対しての怖れ、命は永遠ではないと自分に言い聞かしても、なかなか覚悟ができませんでした。
その日、いつものように夕食をいただき、テレビを見て、歯を磨き、トイレに行って、パジャマに着替え、「ありがとうございました」と言って布団に入るとまもなく「くるしい」と、数回言ったかと思うとスーと逝ってしまいました。
その顔は穏やかで美しく、あっけないほどの母の死を、何の怖れもなく素直に受け入れていました。
実は、翌日は福島で講演でした。それも2回。「あー、もう一日待ってくれたらよかったのに」と、正直思いました。ちゃんとしゃべれるだろうか、最高の試練を迎えたと思いました。
でも、そのとき浮かんだのは母の言葉です。
7年前、父が他界したとき、私と母は観劇に行っていました。知らせが入り、急いで帰ろうと、駐車場でおろおろと車を探していたときです。「あいこ、今からは、もう、なにも起こらないの。だから、あわてなくていいよ」。
その言葉を、母からかけられた気がしました。
「そう、今からは何も起こらない。ちゃんと仕事をしてこよう」と、冷静になりました。
母は凛として生きている人でした。自分の母親が亡くなったときも、孫が事故で亡くなったときも、息子が病気で亡くなったときも、夫が亡くなったときも、人前で涙を見せませんでした。それは耐えているというより、どんなことでも事実を受け入れ、自分の中で消化するという姿勢だったと思います。母が動揺した姿を、私たち子どもは見たことがありませんでした。優しくて強い人でした。最後まで自分の足で歩き、いさぎよく、背筋を真っ直ぐにして、天に昇っていったように思えます。
今は、母を失った悲しみよりも、母の一生に感動しています。そして、母の生き方を受け継いでいきたいと思っています。
差別をする人間にはなりたくない、どの子も健やかに育ってほしい、自分で考えて行動する、人に対して強要しない・・・私が大事に思っていることは、どれもこれも母が大事にしてきたことであることが、幼い頃の母の姿や、残された書き物から読みとれます。「なあんだ、私が自分で見つけてきたと思ったのに」と、ちょっと残念。
桜とフリージアとスミレが好きな母は、庭にスミレが咲き、桜の蕾が膨らみきったときに逝きました。葬儀のときは満開! おみごと!
お母様を亡くされた方には、もしかしたら、いやな思いをなされたかもしれません。それに、ホームページに書くような内容でもありません。でも、私の気持ちお伝えしたかったのです。お許し下さい。
● BACK-NUMBER もくじへもどる
もどる
|