柴田 愛子   

 今年度はどうしたことか、まだ新学期が始まって2ヶ月もたっていないのに、もう3人の子どもを医者に連れて行ってしまいました。

 ひとりは室内で、追っかけっこを喜んでしていたのですが、転んでしまいました。手をつかなかったので、口を床にまともに打ち付けました。
 以前の事故で、歯もぐらぐらしないしものも食べられるから大丈夫と思っていたら歯茎の神経が切れかかっていたり、歯茎をおおう薄い骨が折れていたりということがあったので、歯の怪我は素人判断しないで医者に連れて行くことにしています。
 今回の転んだ子は「歯はなんともないね。問題は虫歯だ」との診断でホッとしました。
 
 次は、普通に軽やかに走っていてすべって転んだのですが、転んだ場所が悪く、おでこをウッドデッキの段差にぶつけて、額が切れてしまいました。医者で数針縫うことになってしまいました。
 初めての大怪我で、お母さんは緊張した顔で病院に来てくれました。子どもが泣きもせずに治療を受けてくれたので、助かりました。やはり、怖くて泣き叫ぶ子どもの声は辛いですからね。

 三人目は公園に行ったときのことです。小高い山を気持ちよく駆け下りてきたところ、転がってしまいました。痛がるのでお母さんを伴い病院に行ってみたら、骨折でした。利き腕を三角巾で首からつって、お母さんに甘えています。

 保育をしていると、思いもかけない怪我が起こります。
 誰も望んでいるわけではなく、怪我をさせようとしているわけでもなく、なっちゃうのです。それも、瞬間的で、目の前で起こりながら防げないことが大半です。今回のように、一人で歩いたり走ったりしていても、起こってしまうのです。身体が未発達なことと、気持ちと身体の動きのバランスがとれていないことから起こるのです。子どもはよく動くし、探究心や好奇心が旺盛ですしね。
 
 子どもの集団生活では小さな怪我は付きもの、と言っていいくらい起こります。
 相手がいる怪我もあります。
 幼い子ども同士はイヌころのように転げ回るし、身体でコミュニケーションをとるし、自分の意志を噛みつくことでしか表現できない子どももいます。
 こんなふうに相手がいる場合は大変です。何が大変って、親に納得してもらうことがです。怪我による肉体的苦痛は子どもがいちばん。でも精神的には、親や保育者の方が辛いのではないでしょうか。
 今、親たちは怪我に敏感です。怪我をさせないでほしいという人は多く、怪我でのトラブルは多いし、「責任問題」「管理者責任」という言葉がすぐに行き交い「謝罪」となります。5月11日の日経新聞には「かすり傷ひとつつけないと、誓約書を書いてほしい」と親が保育園に要求したという記事も載っていました。

 福音館の「母の友」(7月号)から、お風呂に入ったらあざがあったけれど、保育園からは何の連絡もなかった事に対しての意見を求められて、私の考えることを記事に載せました。
 親がうるさいので、朝、子どもを裸にして、すでにある傷をチェックする園もあると聞きました。
 子どもは宝物です。でも、何の傷も付けずに保管しているところが園ではありません。人が人として育つために、人を信頼してあずける所なのではなかったでしょうか? どうして、無傷で子どもを育てることにこんなに懸命になってしまったのかと、考えているところです。

 幸いなことに、りんごの木で起きた3人の怪我に関しては、親御さんからは抗議をいただくこともなく、子どもの心の怪我にはならずにすんだと思います。
 腕を骨折した子どもの親に「痛い思いをさせて、すみませんでした」と電話をしましたら、元小学校の先生をしていたお母さんは「あやまっていただくようなことではありません」と言ってくださいました。うれしい言葉でした。(5月30日記)

 写真=りんごの木の庭にて(3歳児クラス。本文とは関係ありません)。
 梅雨がもうそこまできています。庭のブラックベリーの花がいつの間にか満開になっています。猛暑の頃になり、実が黒くなると食べられます。


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