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柴田愛子 ill Takasima.N
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先日、『トントンギコギコ 図工の時間』という映画を見てきました。野中真理子さんが制作・監督した作品です。この方の第一作は『こどもの時間』という映画で、保育園の子どもたちを映したものでした。
今回は、東京・品川にある公立の小学校の図工の時間を一年以上撮り続けて、映画として仕上げているドキュメントです。木に釘を打って顔にしたり、粘土をこねて焼いたり、木で自分のイメージの椅子を作りその椅子が似合う場所に置いて眺めたり、6年生は一枚の板を作品にしたり・・それぞれが他の誰にも真似ができない自分の作品を作っていきます。その目は輝いていました。
図工の内野先生は魅力的でした。
でも、それ以上に子どもは魅力的でした。
そして、映画の後に残ったいちばんの印象は、子どもはどんなところでも、どんな時代でも、ちゃんと生きようと輝いているということでした。
映画の中で女の子に「一つ願いがかなうとしたら」という質問をしていました。
「空を飛んでみたい」と答えた後に「楽なりたい」と言った言葉が耳に残りました。
「中学に行ったら、あそべなくなるから。お姉ちゃん見てるとあそぶ時間がない。だから、いまのうちにあそんでおきたい」と言った子もいます。
坂になった藪の中からフキノトウをみつけて「これ、たべれるんだよ」と、少ない自然の中から見つけて集めていた子。
どうして、こんなに子どもたちが窮屈な時代になってしまったのだろう。
子どもたちに大きな重しを、おとながのせていると思いました。なんて子どもは不自由なんだろう。
そして、こんなに不自由な中からも、わずかな隙間を見つけて芽を伸ばそうとしている子どもたちを見せつけられたようで、単純に「いい映画だった」とは言えず、子どもに申し訳ない重い気持ちをひきずりました。
不自由な中で輝く子ども・・・と、考えていましたら、子どもが自由を保障された時代はあったのだろうか、と思いがめぐりました。
いつの時代も、子どもにとって文句なしの社会はなかったのではないでしょうか。
社会はおとながつくっているものなんです。
子どもの権利を叫ばなければつぶされてしまいそうなくらい、子どもは社会のおみそ(おまけ)なのかもしれません。
おみそは不自由な合間をくぐって、大きくなるのかもしれません、子どもたちのあそびと同様に。
二十代の頃、スリランカの幼児教育に行っていた知り合いが、「子どもがあそびをしらないのよ。ぼーっと、ひなたですわっているの。だから、地面に絵を描いたり、粘土したりを教えていた」と話していたことを思い出しました。
もしかしたら、時間も空間も自由な中では輝かないのかもしれません・・・。
けれど、教育や習い事にお金と時間をかけ、一見子どもが輝くために、おみそでなく主役に立てながら、子どもを不自由にしている現実はやっぱり変です。塾帰りのコンビニの前でたむろしている子どもたちは、決して輝いてはいません。
子どもは、おとなのおみそでもいいんじゃないでしょうか。おみそが育つ隙間を、おとなが作ってあげましょうよ!
「わたし、ちょっと、今の子どもに生まれてみてもいいかな」
コンクリートの隙間から芽を出していく感じを、体験してみたくも思いました。こんなこと、初めて思いました。
あー、つれづれに、いろいろ思わせられる映画でした。
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