タイトル

 先日、5年生になった卒業生のお母さんたちとおしゃべりしました。
 学校の話をしていると、勉強はさておいて、先生のクラスづくりの違いに驚きました。

 子どもの気持ちや発言を大事にして、子どもの発想からイベントを企画したりという先生もいれば、きちんと整列させて規律を重んじる先生もいる。

 さらに驚いたことには、その全くといっていいほど違う教室が隣り合わせだということなのです

 話を聞けば聞くほど、学校による違いどころか、先生による違いが大きいのが公立小学校に実情のようです。

 言い換えると、公立と言えどもやはり人がする教育、教師の資質、人格、価値観がもろにクラスづくりに反映しているということですよね。

 親たちが口にする先生の「あたり」「普通」「はずれ」が、こんなにもハッキリあることにあきれて、何ともいえない思いです。

 
 ここで面白いのは「あたり」と思っている先生に対して「はずれ」と思う人がいる。「はずれ」と思っている人もいれば、同じ人を「あたり」と思う人もいるという不思議。

 親の価値観もそれだけ千差万別ということでしょう。

 ならば、学校を選べるように先生を選べるようになるといいのかもしれません。

 ところが、ここまでは親の気持ち。肝心の子どもにとってはどうなのでしょう? 

 あたったのか、はずれたのかは子どもが楽しく行けるかどうかということに直結しているのでしょうか?

 もちろん、それも一面かもしれませんが、本当の意味で子どもにとってどうだったのかは、時間がたたないとわからないことかもしれません。

 ともかく、基本は子どもをひとりの人として尊重し、教育している自覚を持っているかどうかということでしょう。


 先日、「みんなの学校」というドキュメンタリー映画を見ました。
 大阪市立南住吉大空小学校の取り組みを紹介した映画です。
 特別支援の対象となる児童も同じ教室で学ぶ、この学校の目指すのは不登校ゼロの「みんながつくる、みんなの学校」どの子にも居場所のある学校。
 第68回文化庁芸術大賞を受賞しています。
 校長の子どもに対しての愛情、キッパリ、スッパリとした態度は隅々まで行き届いています。方法がいいか悪いかは見方によるかもしれませんが、譲らない強さが教員たち、地域の人たちにもしっかり浸透していきます。
 いままでも芯のあるすばらしい教員は点在していましたが、残念ながら学校の中でも少数派のままだったような気がします。この映画の学校は、校長という立場の人がみんなに影響力を与え、学校そのものを変えていくことになっているように思います。感動的なばかりでなく、公立小学校の可能性を示してくれた作品だと思います。
 教員養成の必須映画にして欲しいです。

 

 もうひとつ先週うれしい報道がありました。

 ミスユニバースの日本代表にアメリカ人と日本人のハーフの黒人がなったことです。

 もともとミスユニバースには全く感心がありません。でもハーフがなったという今までになかったことに興味を持ちました。

 彼女は中高とかなり辛い思いをしてきたようです。そして、アメリカに渡り自分のありのままを受け入れられた。

 あえて日本でミスユニバースに応募したというようなことをテレビで聞きました。

「ハーフである自分が、日本代表になってもいいのか戸惑いもあります」とコメントしています。

 いままで単一民族でなりたっている気になっていた日本も、実はいろんな国の人がいて、ハーフも多くなりました。

「みんなの学校」のように「みんなの国」、どの人にとっても居場所のある国に、小さな一歩ではありますが、踏み出したような気がしたのです。(4月26日 記)

 

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