タイトル

 なんと暑いのでしょう。夏のような日々。

 おまけに蚊がでてきて体力・精神力ともにハードな日々ですね。


 先日、電車に乗りました。私の斜め前にお母さんと小学生の子ども二人が座っていました。

 立っている人もほどほどにいました。
 お母さんが言いました「もっとこっちに詰めなさい。もう一人座れるから」子どもたちは折り重なるように寄りました。

 すると、前に立っていた30歳くらいの女性が表情も緩めず、無言で座りました。
 その人に「ありがとうは!」と叫びたいくらい頭に来ました。
 耳にはイヤホーン、手にはスマホ。
 子どもたちがしてくれたことをありがたいとも、うれしいとも感じないのでしょうか?
 子どもたちにしたって、自分たちがしたことで相手が喜んでくれれば、うれしいに違いありません。こういう人と人の通じ合いが、マナーにつながるんじゃないですか?

 

 このごろ、ふと思い出すのです。私が学生の時、バスでも電車でも自分が座っているときは前に荷物を持っている人が立っていれば、疲れているから席は替われないけど「荷物、お持ちしましょうか?」と声をかけるのが普通でした。

 私が立っていると座っている前の人が「お持ちしましょうか?」と言ってくれました。

 乗り物の中で当たり前のマナーだったと思います。
 今はまったく見られなくなりました。いつごろからなくなったのでしょう?
「荷物置きがあるんだから、のせれば」と思うのでしょうか?
 あれって高くて、前に座っている人がいると、のせられないのです。
 紙袋などだと、崩れ落ちてきそうで、のせられません。
「大事な物かもしれないから、人にあずけたくないかも」と思うのでしょうか?

 いえいえ、言ってみないとわかりません。私はいつも待っています。
 幼児期にあんなにしつけに励み、「ありがとうは!」と言わせていたのは、どこにいってしまうのでしょう。
 そういえば、小学生は学校でもしつけられているせいでしょうか「ありがとう」をいちばん使っているように感じます。
 学校出たら、ありがとうも卒業なのでしょうか。
 マナー以前に、言葉が気持ちを表現する手段であることが貧相になっているように感じます。

「空気を読む」という言葉がはやっているように、言葉を発することなく、気配を察する。
 私から言わせれば、そんな能力は年配になってからでいいのです。
 子どもや若者は空気なんか読めなくて、怒られたり、いやがられたり、たしなめられたり、トラブルが発生したりするんです。
 そんな経験を山ほどするから、歳とともにコントロールできるようになるんです。

 早くから察する事を要求しすぎると、周りばかりが気になり、自分の気持ちが見えなくなってしまいます。
 だいたい、空気が読めない人がいるから、その場の空気に風が通ったりすることだってあるじゃないですか。空気を読み合っていたらピリピリしてしまいます。
 
 それにしても、乗り物の中で、自分の世界に閉じこもっている人は多いです。ツイッターなどで、顔を合わせていない人に文字で通じ合っているかもしれないけれど、電車の隣に座った人の気配を感じない、言葉を交わさないというのは、鎧やお面をつけた不気味な存在に見えます。
 自分の関係者に対しての気遣いが大変で、関係者ではない人は無味乾燥な生き物にみえているのではないかとさえ思うほどです。
 自分の気持ちを自分の言葉で表現するという、すべての元になることを、子ども時代からしっかり身につけてほしいです。自分という中心になる柱を太くしていくことになるのですから。

 

 さて、ご存じのように6月20日、「こどもみらいフェスティバル」で私の講演会があります。

 都筑公会堂で午前10時からです。

 まだまだ、チケットは山ほど残っているみたい。ドキドキ。お知り合いをお誘いの上、ぜひ、ぜひいらしてくださーい! お願いします!(5月31日 記)

 

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