タイトル

 今年の秋は柿が豊作でした。
 近くの柿の木公園には、その名のとおり、柿の木が三本あります。
 時期をずらしながら一本一本熟していきました。初めの一本のときは、まだ緑が残っているような実を、登ったり網を使ったりして採っていました。

 水道で洗って、まるごとかじりつきます。

「おいしい!」と言います。皮には渋みが残っているようなのですけれど……。
 おいしくなった頃には、残り少なくなってしまいましたが、次の一本が色づいてきました。三本目も実がたわわになりました。
 自分の手でやっと採った柿は、だいじに家に持ち帰り、誰にも分けずに食べた子もいたようです。 木登り上手が、みんなの羨望のまなざしを集めたことでもありました。

 柿を巡って、子どもの心の体験もふくらみました。


 公園の柿の実がいただけるようになったのには、わけがありました。

 ずいぶん前のことになりますが、熟し始めた頃に公園課の方が木を伐採にきたのです。

 その理由を聞きましたら、実が熟するとカラスがきてうるさいし、食い散らかして汚くなるという苦情が入ったとのこと。そこで、「じゃあ、食べ頃になったら人間がいただいて、食い散らかさなければいいですか?」と聞きましたら、「そうですね」と言っていただけました。

 さらに「柿の木はポキッと折れるといいますが、子どもが登ると折れますか?」とお聞きしましたら「あのくらい太いですから、だいじょうぶでしょう」と。

 それから、毎年、柿がなるのを楽しみにして、いただいています。もちろん、皆さんのものですからお裾分けしています。
 いま、木になっている柿を眺めて「おいしそう」と感じる方は、どのくらいいるでしょう。

 よその家の「柿どろぼう」をして、「こらー」と追いかけられ、怒られた体験をした人たちは、すでに年配になられているでしょう。
 いまや木になっているものを採って食べるなど、論外と思われる方の方が多いかもしれません

 現に食べられるものはスーパーで売っていると思っています。

 スーパーのは立派でおいしそうに並んでいます。

 

 話は変わりますが、新しく建てられた保育施設の水道が、手を出すと自動的に水が適量出てくるものを使っている園も多いようです。

 初めて見たときにはびっくりしました。

 子どもは本能的に水が好きです。というのは、子どもの発達にあった遊び方ができる、魅力的な素材だからです。

 蛇口がひねれるようになると、大喜び。自分が働きかけると、ちゃんと反応してくれるのですからね。水の感触に手をかざしてうっとり。やがて、蛇口のひねり方と水量が変わることに気づきます。研究者のように細めたり太くしたりにはまります。

 流れる水、はねる水、水の音、子どもは集中して‘水いたずら’をします。

 自動的にでる水道では、こんなあそびはできません。

 あるとき園長先生たちの集っている場で、このことが話題になりました。

 すると、「あの水道にすると、水道料がぐっと安くなるんですよ」とおっしゃる方がいました。頷く方もあって、「子どもをとるか、水道料をとるかでしょうかね」という話で終わりました。

 暮らし方が快適になればなるほど、子どもにはわけがわからないことが多くなるような気がします。私の世代でさえ、生きているニワトリの肉をトリ肉として食していることや、まぐろの形を想像して刺身を食べていません。
 なっている柿が、スーパーで買う柿と同じ柿であることに気づかなくなっている今。ひねると出る水道の仕組みは想像可能だけれど、センサーで作動する水道の仕組みはわからない。すでに、マッチという存在さえ知らない子が大勢います。

 地球上に生まれた人間という動物が、快適になればなるほど、地球から浮いて生活しているような気がするのです。

 今育っていく子どもたちが、わけのわからないことにあやつられていくことは、自分が見えなくなっていくことにも繋がる気がするのです。

 根が張れない感じです。

 日常が快適な暮らしをしていればいるほど、自然につれだし、地に足をつける体験をさせていかなければと思います。不便な自然の多い場所は快適ではないかもしれませんが、なぜかほっとします。心が落ち着くのです。わけがわかるのです。

 たまには、土の臭い、空気の臭い、木の香を、胸一杯に吸い込んでみましょう。(11月9日 記)

 

今年度のバックナンバーはここをクリックしてください。