最近うれしかったことがありました。ちょっと書いておきたいと思い、冒頭にちょこっと。
 週一回の坪田さんのお昼ご飯(給食)の時のことです。メインはチキンカツ・ハンバーガーでしたが、デザートはゼリーで、上に苺がのっていました。隣の席に座っていたさらちゃんが、
「あいこさん、イチゴをこまかくして、ゼリーにまぜてたべるとおいしいよ」って教えてくれました。でも次の瞬間「あ、あいこさんはそういうのすきじゃなかったね。イチゴだけべつにたべれば」と言ってくれたのです。
 ゼリーを細かくスプーンで砕き、そこに苺も細かく切って、グルグル混ぜて食べる子がけっこういます。そのぐじゃぐじゃ感が私は子どもの頃から苦手。さらちゃんが言ったことを訂正してくれたとき、私はすごくうれしかった。まさに心が浮き立つような喜びを感じました。それは、わかってくれていることのうれしさだと思います。
「そうか、身近な人がわかってくれているというのは、ありのままの自分を受け入れてくれているという安心感であり喜びでもある」
と思いました。まさに寄り添うことの原点はこれなのだと実感した次第です。
 いい子どもたちに囲まれているでしょう? 子どもたちに対してもそうありたいものとつくづく思いました。

 さて、今度は先週末の話です。
 土曜日は六本木の保育園にうかがいました。次の日は、岐阜の美濃太田にある「森林アカデミー」という自然の中にある施設にうかがいました。二日間に両極端の体験です。

 六本木は地下鉄駅を出ると屋外のエスカレーターで登っていきます。堂々としたビルが立つ場所で棒や泥はあまりみられず、近代的な美しさの中にある美しい保育園。
 岐阜は森林アカデミーで自主保育をしているグループの主催でした。ここは泥だらけどころか、棒は溢れるほどある山の中。自分たちで作った餅米を羽釜で炊いたおこわのおにぎりと味噌汁をご馳走になりました。味噌も自家製だそうです。
「子どもの環境によって、どういう差が出るのか」という疑問が、先日のキープに行ったときから頭の中にあります。
 六本木の保育園は、ここ数年何回かお邪魔しています。はじめはびっくり仰天しましたが、今回は植え込みの隙間に土を見つけました。玄関に置いてある靴は「子どもの靴」でした。ほどほどに汚れていてね。年に3回もキープ自然学校に行ったりしているそうです。わずかな裏庭でドングリも拾えるとおっしゃっていました。今までよりちょっとホッとした感じがありました。
 子どもたちの思考や身体の動きは、そりゃー違って当たり前ですよね。かたやコンクリートの上を走り、かたや山のでこぼこをものともせずに走り回っている。かたやきちんとかたづけることが身につき、かたや自然界の土や泥の汚れに汚いという感覚は少ないでしょう。

 かたや自動ドアやエスカレーター、手を差し出すと出てくる水など、訳のわからないことだらけの環境。かたや木を斧でわり火をつけてご飯を炊く、冬は水が冷たいなど、訳がわかるような現象に包まれている。
 でも、こんな比較をしてなにになるだろうかという気になってきました。だって、子どもは親も場所も国も選んで生まれてきたわけではない! ということに気づきハッとさせられました。そして、どこでもここでも、子どもは子どもなんじゃないかという思いが強くなってきました。
 子どもはいつも親を引き受けている、おとなを引き受けている、環境を引き受けている。私はその差を言い立てて何を知ろうとしているのか、「子どもに自然は大事」という正解をかざそうとしているのだろうか。そんな一般論的正解はいらない。子どもの側にいるおとなとして、現状を引き受けた上で、自分がなにをしたらよいのかを探っていくことが大事なのかもしれないと思うに至りました。
 便利に走りすぎている現代であることは事実だから、専門職の人たちは子どもが地域で大きくなることを前提に、街作りやビルの設計、住まい方を模索してほしいとは思う。でも、都会で育つ子どもを憂いたりするのは違うかもしれません。どんなところでも親を含め、おとなたちが子どもの育ちをどう見守り保障してあげられるかだけが問題なのではないでしょうか。
 かつて、私の家から散歩に出かけた多摩川は洗剤のあわだらけのようになっていました。それでも私は多摩川がホッとする場所でした。いまは河川敷も整えられて、川もきれいな水が流れています。それは幼い頃と違っていますが、残念ではありません。おとなたちに感謝です。大きな時代の流れの中で、流されながら生きているおとなたちが、その背後にいる子どもたちを振り返り守ることを忘れないということでいいのかもしれません。(2月25日 記)

 

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