ふと考えてみたら、生まれたての赤ちゃんって自分勝手でわがままで人を振り回していますよね。泣くだけで人を呼びつけます。お腹が空いた、ちょっと背中が痒い、うんちが出た、寂しいなど、すべてのことは泣くだけで用が足りています。泣かれると「あら、あらどうしたの?」と駆けつけてくれて、あやしてくれて、抱き上げてくれる。

 何にもできないのに、すべて人に託して生きているつわもの。泣くのは生きていく力とも言えますよね。従って、自己肯定感(そんな意識はないとは思いますが)は、100%を越える勢い。
 寝返り打っても、離乳食を食べても、はいはいできるようになっても、笑顔が向けられる。立って歩いたときは周囲のおとなを感動させます。しゃべったときはこれまた画期的、はじめの言葉がママだったか、パパだったか、バーバだったかと、おとなたちは私が一番好かれているとばかりに自慢げに吹聴して歩きます。
・・・ところが、なにもできないことは喜ばれていたのに、はじめのころの成長は喜ばれていたのに、もっといろいろできるようになると、怒られたり否定されたり、挙げ句の果ては教えられたり、命令されたりすることになってしまうのです。この境目はいつでしょう? たぶん、2歳すぎくらいからでしょうか。
 人間としての基本的身体能力がつき、動きも派手になり、さらに自我が出てきたころから、受け止められなくなってくるんですよね。そう、意志が困るんです。身体が大きくなるから困るんです。
 ぴょんぴょん、しないの!
 水いたずら、しないの!
 こぼさないで食べなさい!
 棒なんて拾わないの!
 砂をいじらない!
 いい加減にしなさい! 
と、できることが多くなると加速度的に叱られることも多くなります。
 子どもはお父さん、お母さんが好きなのに、親のイライラは募ります。
 子どもには子どものつもりがあったり、発達上仕方なくやらざるをえないことが大半なのですが、残念ながらおとなにとっては意味不明。
 赤ちゃん時代とは打って変わった扱い方になってしまう2,3歳は、親子にとって受難の時代ともいえるかもしれません。さらに、「子育てによって将来の子どもの育てが違う」とか何とか脅かされるのですからたまりません。
 子どもの受難期は2歳から4歳くらいまでがピークと言えるかしら。もっともその後は、成績というものが現れて、熱心な親の場合は思春期であろうとあきらめずに続けられていきますけどね。
 だいたい親が「まあ、しょうがないか」とあきらめられるのは、小学校高学年頃でしょう。もう、かなり自分を持った人になっているし、思い通りにならないことがはっきりしてくるからね。

 子どもを永く見てくると、どうしても子ども側から見てしまいます。子ども賛歌をうたいたくなります。そのくらい私にとっては魅力的な人の育ちだからです。
 でも、子どもの力がどれだけあろうと、親は黙って子どもの育ちを見守りなさいというのは無理だし、違うと思います。信じるとか、見守るとか言われたって、手応えはなく空を掴むような不安があることでしょう。それに親だって生身の感情のある人間ですから、そううまくできるわけがない。
 子ども側からの気持ち、親の側からの気持ちのどちらも大事なんだと思います。お子さまの言うとおりなんて身分でいるのは殿さまだけ? 親が子どもを育てているときに大事なのは普通の暮らしなのではないでしょうか?
 ときには子どもに振り回され、ときには親が振り回し、そんな自然体が親も子も育っているということなのだと思います。
 バランスとりながら、なんとか機嫌良く暮らす。頭と心のバランス、親と子のバランス=いい加減なのかもしれません。群れだからこそ育ち会える人間の特性なのかもしれません。(6月27日 記)


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