ちょっと気になったことがあります。
 子どもたちが水あそびをする季節になりました。プールに入ったあと、脱いだパンツを濡れたままグジュッと置いていきます。保育者が声をかけました。
「絞って干しなさーい!」
 ところが子どもったら、両手でパンツを包んでぎゅっと握るんです。絞れない? 

 そういえば、雑巾もこうしているかも。これは生活のなかにないことが実感されました。教えないと知らないことなのです。
 私が二十代の頃ですから40年以上も前のことですが、子どもがナイフでりんごの皮をむけない実態に「子どもの手がむしばまれている」と表現されました。これは大変と思ったおとなたちが「手と労働の会」というのを立ち上げました。手や指の機能をどう身につけさせていくかを真剣に話し合っていました。ノコギリやトンカチなどの道具の使い方なども含めて、保育の課題にもなっていました。そこから枝分かれしたのが「子どもとつくる生活文化研究会」という会で、私たちりんごの木の創設メンバーが知り合ったという経緯です。
 言葉で教えるよりも、日々の暮らしの中で身につけていく文化が大事と思っています。しかし、日々の暮らしの中で身につけていけないことが多々あることに気づきます。そのくらい暮らし方が変わったのです。
 私が子どもの頃ですから昭和の昔になってしまいますが、お風呂は子どもが小さいときは親と一緒に入りました。薪と石炭で湧かしていた頃ですから、一人ずつなんて、長い時間資源を無駄遣いすることはできなかったのもあるでしょう。
 お風呂に入ると、タオルでいちおう全身を洗ってから浴槽に入ります。肩まで浸かって「よくあたたまりなさい!」と、わらべ歌などをうたってくれたものです。やがて、出るときはタオルを絞って体中を拭いてから脱衣所に出ます。そこにバスタオルがあって拭きます。けど、すでに小さいタオルで拭いているので、バスタオルはほぼ濡れずに、家族全員が同じのを使っていました。バスタオルは大きくて厚いので洗濯すると乾きにくいからと、母が言っていました。大きい洗濯物は大変だったのでしょう。
 子どもの頃のこの毎日が今も染みついています。ですから、同じようにしています。

 で、いまのやり方を聞いてみましたら、なんと小さなタオルは使わない人が多かったのです。お風呂からびちゃびちゃのままで出てきて、いきなりバスタオルで拭くのが一般的。

 従って、バスタオルは一人一枚、洗濯は洗濯機がやるので清潔で便利ということなのかもしれません。この文化はいつから、どうしてそうなったのかも興味があります。
 このやり方が子どもたちは染みついています。ですから、小さなタオルを持って入ることもなく、キャンプのときの五右衛門風呂でさえ、出てきたら一人一枚バスタオルを使い、ビチョビチョにします。洗濯はできない場所なので、せいぜい日に当てて乾かしていますけど。
 おとなたちでも、小さなタオルを持って風呂場に入るのは温泉に行ったときくらいと言いますから、びっくり仰天です。それも身体を隠すために使うとか。
 こうやって考えると、日々暮らしの中で身につけていく作業はほぼないんじゃないですか? 使うのは指先でボタンを押すくらい?
 かつて、私は「今は6歳でもひとり暮らしができる、数字が読めてボタンが押せれば大丈夫」と言いましたが、ほんとにどんどん目と指先しか使わなくなってしまっているような気がします。
 昔と比べたら私たち世代だって退化している機能は山ほどあります。
 使わない能力ならば、退化しても差し障りはないのかもしれないとも思ったり。
 でも、戻れない暮らし方のなかで、人間はどんな進化をしていくのでしょう? 
 宇宙人の絵のように、身体はひょろひょろで頭が大きく目がぎょろり、そんな感じかなぁ。みなさん、どう思います?
 ちょっと怖くなりました。やはり思いっきりあそんで身体を使ってほしいです。
 頭と比例して心身を使って欲しいです。
 ちなみに絞ることを教えたら子どもたちはできるようになりました。あえて、教えていくことも大事かもしれません。(7月9日 記)


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