ぬぬ

 警戒宣言が解除された県もありますが、まだまだ予断がゆるせない状態です。ここ横浜市も感染者が増えていて、りんごの木の近辺でも最近発生しているので、5月いっぱい現状維持と決め、通常保育は「まーだ まだ」としました。


 この騒動になってから、自分自身の気持ちや考えも、日々変わってきている気がします。
 すさまじい勢いでネット関係が進化拡大し、オンラインで<会わずに会え>てしまうことに、「すごい!」と感動さえしていたのです。が、最近「どうなのかしら?」と疑問が湧いてきています。

 特に小学校に関してです。一斉にオンライン授業を始めた県もあります。
 これだけ休みだと勉強が心配という親たちがいて、先生たちは遅れを取り戻すことに必死、文科省は年度内で見込めばいいとか言ってます。
 たった2ヶ月で学力の心配? 欧米では夏休みが毎年2ヶ月もあるのに。
 おとなたちは焦っていろんな手を打とうとしています。
 おとなたちに問いたいです。
 ーー小中学校で勉強してきたことが、自分の人生の役に立っていますか? 
 ーーコロナ騒動の前、そんなに子どもたちは勉強していましたか? 
 だいたい、子どもたちはそんなに勉強したがっていますか? 勉強が好きな子は勉強しているでしょうけれど、この時間を<有効に・ぼんやり>しちゃいけないでしょうか?
 コロナ騒動が終息したら、なかったかのように、今まで通りが始まるのですか?
 いま学ぶべきことは、「すべて命があってのことだ」ということ。
 「どんな状況にあっても自分をなくさないこと」と、私は思うのですが。


 いままであわただしく過ごしてきた子どもが「たいくつ」「ひま」「何していいかわかんない」そんな時間を過ごすことでいいのだと思います。そこで、お節介なサービスをおとながしなければ、子どもの心は起き上がります。「なんか、おもしろいことないかなぁ」って。
 本来子どもは自ら育つ力を持っていると、私は確信しています。おとながサービスをせず、口うるさくせず、時間的な余裕があれば「つまらない」を「つまる」に変える力があるのです。自分の好きなことをみつける、何を大事にしたいのか考えるのにいいチャンスです。
 戦争があったり、経済状態がよくなかったり、自然災害があったりと、いろんな歴史を辿ってきています。今回も歴史に残る出来事だと思います。不本意ながら背負わされていく禍に、今までを振り返り、何を大事にするかに気づく。そして、つぶされないで前向きに進めるのは、勉強ではなく、自分を受け止めてくれる人の存在であり、人と人の繋がりではないでしょうか。
 だのに、コロナを避けながら学校の授業スケジュールを律儀にやっていくという頑なさはなんなのでしょう。大量の宿題を昇降口に取りに行き、親が家を学校化するように促す。先生は子どもに教科を教えることしか子どもにできることはないのでしょうか? 親は今までのように勉強しないと不安なのでしょうか?
 子どもに現状をちゃんと話す、子どものことは子どもに任せてみる、一緒に暮らしを楽しむという今までできなかったことから、何かがみえてくるのではないでしょうか。
 
 そこへいくと保育現場は教科、授業がない分向き合い方が違います。
 乳幼児の日々の発達を促すためにはあそびが必要ですが、「布団の上で、前転を練習しましょう」「人のいない公園に行って、逆上がり10回させてください」なんてことは言いません。(ひょっとして、そんな課題を出す園もあったりするのかな?)
 子どもたちに手紙を出している所も多いようです。「おはよう!」とオンラインで声をかけているところもあるようです。(この方法に私は躊躇していますが)
 りんごの木でも、郵便で毎週お手紙を送っています。ここでのあそびを知っているからこそできる迷路やなぞなぞ、おはなしやぬりえなど、保育者一人ひとりが、子どもを思い浮かべながら書いています。最近はお返事をもらえるような工夫をしています。
「もうちょっとのしんぼうだよ。だいじょうぶになったら、いっぱいあそぼうね!」と言い続けています。子どもたちの心が前を向けるようにね。
 高校、大学は新しい授業展開が生まれていくでしょう。これはネット環境の進化が助かります。でも、小中学校は学校に行かないでもいい方法もある方がいいけど、学校に行くと楽しいということも大事だと思います。人間関係の基を学べるし、人はそれぞれ違うことを身をもってわかるからです。そして、子どもにとっての家以外の居場所にもなり得るからです。

 最近は漠然とした不安感があります。コロナに感染する不安ではなく、コロナによって変えられていく暮らし、コミュニケーションのかたちが。そして、コロナでも変えられない人間の頑なな価値観が。(5月17日 記)

 

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