ぬぬ

 ついこの前までスタッフをしていた人が、7ヶ月の孫を連れてきました。娘はりんごの木卒業生です。

 甘えん坊で私にくっついていた子でしたが、立派に自立して、仕事をして、母になりました。この日は育休が終わった時のために保育園を見学に行ったので、預かってきたのです。
 来たとたん、私たちがうれしくて大きな声を出してしまったために、泣いてしまいました。赤ちゃんにしてみれば、喜びの歓声なんて思いもしない、いきなり大声でびっくりしてしまったのでしょう。
 祖母に抱かれたまま和室に行きました。
 少し落ち着いたようだったので、近くにあるガサガサ音のする何かが入った袋を渡してみました。このくらいのときは握ったり、音がしたりすると喜ぶんだっけと思い出して、握らせたのです。大当たり! 両手で握ってガサガサやっています。
 だんだん和んできたので、畳に仰向けに寝かしました。横に私も天井を向いてごろんとなりました。緊張していないようです。ガサガサやっています。口にも入れています。そういえば、手をかざしてクルクルして眺めるのよねと思い、私が手をあげて手のひらをクルクルさせてみました。見ています! 笑顔です! そのうち寝返りも打ちました。腹ばいの感じも懐かしい、いっしょにやってみました。保育の子どもたちがやってくると、がぜん、喜びます。目をキョロキョロさせて、泣くどころではありません。
 とうとう、最後は私の腕に抱かれてくれました。

 横になっていたときに、遙か昔のことを思い出しました。

 

 りんごの木を創って間もない頃、なにかでお金を稼がなければいけないと思い、三人で「赤ちゃんおもちゃ」を企画したのです。中川ひろたかと市川雅美と私です。当時、ベビーベッドの上にはオルゴールでクルクル回るメリーゴーランドというのがありました。くまや人形や星や、いろんな物が吊り下げられて回るのです。あれを考えようということになりました。しかし、あれはあかちゃんにはなにが回っているかはわからないのではないかと言うことになりました。横や上から見るから形がわかるのですが、下から見ているあかちゃんには回わるから目では追うけれど、クマだから喜んでいるわけではありません。そうなると、形ではなく布がいいのではないか、赤がはっきり見えやすいというので、赤と他の色の布を吊り下げる。けど、クルクル回るより風で揺れるくらいの方がいいということになり、モビールを作って布を下げました。
 ガサガサと音も喜ぶ。ならスーパー袋がいいということになりましたが、見栄えが悪いので、少し上等なセロファンの袋に赤い薄紙を入れました。
 握りやすいように、タオル地で楕円の羊のぬいぐるみも作りました。目は飲み込んでもいいように小さなビーズを使いました。
 そのあと、幼児の教材も考えたのですが、粘土、石、段ボールと素材がベスト。結局、安価なものばかり。お金を稼ぐ子ども用のおもちゃは、私たちには無理ということになってやめました。
 すでに35年くらい前の話ですから、多少記憶がいい加減ですが・・・。
 こんなふうに子どものためにと作られている物が、おとなにわかりやすいけど子どものためになっているとは限らないということ多くないですか? 子どものための教材って、おとなの気持ちを勧誘できないと売れないですからね。
 先日、Eテレの<ウワサの保護者会>という番組で「これって“やり過ぎ教育”?」というのをやっていました。親は塾に行かせ、いい成績をとらせ、いい学校に入れ、いい企業に就職して金銭的に困らない生活ができるようにすることが子どもの幸せだと信じている人が多いようです。そこから外れることができず、子どもが追い込まれていくという話でした。大学に行けなくなった子どもが、母親に「死ねなくてごめんなさい」と、言ったというのは衝撃でした。親が子どものためによかれと思ってまい進してしまうときに、子どもが完全に見えなくなってしまう。これは先生といわれる人もそうです。子どもの指導に燃えてしまうと、自分のやるべきこと、子どもにやらせるべきことばかりに燃えてしまい、肝心の子どもの心、自分の心が感じられなくなっていく。スポーツの世界もそうかもしれませんね。
 そんなとき、あかちゃんと同じことをすると見えやすくなったように、同じ目線に身を置いてみるといいのではないかしら。保育ならなにを楽しんでいるのかは、隣でいっしょにやってみると伝わってきます。同時に、共感できます。私の指針「心に添う」ことの始まりは、そういうことでした。自分の役割とか、教えたいこととか、やきもきすることとかはさておいて、しゃがんでみるということです。信頼関係って、そこからしかスタートできない気がします。(6月13日 記)

 

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