ぬぬ

 3歳児の担任から、こんな話を聞きました。
 昼間にお月様が出ていたそうです。うっすらと見えるとき、ありますよね。
「あ、お月様」と言ったら、子どもたちが見上げたそうです。
 でも、いつもと違います。昼間だし、色が違うし・・・不思議に見上げていたときに一人の子が言ったそうです。
「まちがっちゃったんじゃない?」って。
 そしたら、みんなで見上げて手を口に当て「まちがってるよー」と、月に向かって叫んだそうです。
 3歳児ならではの感性。楽しくて、一年寿命がのびる気がします。
 
 その反対のうれしくない話もありました。
 小学校4年生のハサミを、先生が没収して管理することになったという学校があります。学校全体なのか、たまたまそのクラスなのかは探ってはいません。けど、「ハサミを使うときは、先生に言ってもらうことになった」と子どもが言ったそうです。
 そこで、親がなにかあったのかと学校に電話を入れましたら「なにもありません。何かあったら困るから集めたのです」とのこと。いわゆる刃物だからでしょうか? 私は、そんなバカなと憤慨しました。「親たちで学校に話しに行ってみたら」と言いましたら、「そうなんですよ。ところが親も別にいいんじゃない、使えないわけじゃないんでしょという人もいて、ますます動けなかった」という話でした。
 美術の時間に彫刻をやるのも、神経を使うそうです。彫刻刀を算え、続けるとか。
 なんだか、子どもたちが“だるまさん”にさせられていくように感じました。
 手も足も奪われて、その場でゴロゴロするしかできない。自由なのは口だけ。そこで動きが少なく、おとなに迷惑をかけない、おとなにバレない、スマホを使って他の子をいじくり、いじめる。そういう構図が見えませんか?
 今や、排尿機能が未発達で(いわゆるトイレトレーニングができないまま)小学校におむつをつけて行く子どもがいます。アメリカではかなり前からでしたが、日本でも出現しています。反面、自ら命を断つ、いわゆる自死の子どもは世界一で、とうとう昨年度は小学生が14人いました。(中学生は146人、高校生が339人 通算499人と報告されています)子どもたちはどうなっちゃうんでしょう。
 私が中学の時のことですから、すでに50年も昔のことです。みんな平気で小刀を持っていました。ある日、二階の階段の上から踊り場に向けて小刀を投げた子がいました。床に刺そうと思ったのでしょう。ところが、たまたま、そこへ上がってきた子どもがいて太ももに刺さってしまいました。それは大騒ぎでしたし、けがをさせてしまった子もした子も、一生ものの傷を受けたでしょう。側で見ていた私たちもその恐ろしさは一生ものになっています。けど、それ以降小刀禁止になった覚えはありません。私たちは工作の時も使っていましたし、鉛筆もボンナイフで削っていました。何かあったとき、禁止やルールになるという構図はいつのころからなのでしょう?
 子どもの人数が減って、"貴重品" になったから、不自由でも安全に育てなければいけなくなったのでしょうか。
 そういえば、幼稚園に勤めていた頃、折り紙は一日ひとり二枚までというルールがありました。際限なく使われてはたまらないからでしょう。けど、折り紙は好きな子と嫌いな子がはっきり分かれます。好きな子は何枚だって折りたいんです。私は自宅で美しい包装紙をどんどん折り紙サイズに切って持って行っていました。
 りんごの木をはじめて来年四十年になります。納得できないことはしないままに至ります。子どもが使いたくなるものは、いつだって子どもが手に取れるようにしてあります。紙もハサミも折り紙もサインペンも・・さすがにナイフは置いてありませんけれど、放置されているハサミを見て驚かれる見学者がいます。
 でも、幼児用の先のまるいハサミは、踏んづけたところで切れることはありません。紙を切っていてうっかり指が切れてしまうほどの切れ味もありません。自分の髪の毛は切ったりしていますけどね。
 危なっかしい物は全部子どもから遠ざけてしまい、子どもはなにがどう危険なのかを知ることさえ奪われています。
 いま、子どもの主体性ということが、保育でも学校でも言われています。けど、自分がやりたいことをやれるような環境がなく、主体的は無理です!
 おとなたちが自分の立場ではなく、本気で子どもの育ちを考える時代にならなければ、動けないで目だけぎらぎらさせている子どもたちになりかねません。
「持続可能な社会」と耳にすることが多くなりました。人の育ちも同じように心していかなければいけないのではないでしょうか。(11月15日 記)

 

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