ぬぬ

 一気に暖かくなり、あちらこちらで花が咲き始めましたね。
 木々の枝にも新芽のつぼみが膨らんで、そのときを待っています。
 りんごの木の近くの桃の花も満開です。
 そして、卒業式が指折りで数えられるときになってしまいました。
 先週の土曜日は、子どもたちがいつもお世話になっている西丹沢・皆瀬川上流にある「ペガススの家」にうかがいました。創立35周年の会がありました。りんごの木は初年度から使わせてもらっています。かつて参加していた研究会の同僚が夢を実現した場所でもありました。
 この季節にうかがうことは滅多にありません。遠くの山には桜でしょうか? ピンクの花がちらほら。いつもあそぶ川の水は少なく、周囲の木々も茂っていないので、同じ場所と思えない風景でした。
 35 年も行き続け、毎年恒例の場所になっていても、いつも驚きや新鮮さがあるのはどうしてなのか、川を見ながら考えていました。卒業して大きくなった子どもたちも、同じ場所なのに、毎年すごく楽しみにやってきます。馴染んでいるホッとできるふるさとのような感覚はもちろんですが、それだけではない気がします。
 自然の姿は、行くたびに違います。川の流れや、水量、水の色、風のふき方、そして、石ころや生き物。
 だから「また、あそこ?」という期待外れの子どもの声は聞かれません。
 「また、あそこにいける」と楽しみにする声ばかりです。
 同じ場所でも、子どものあそび方が変わります。
 カニや魚や生き物を見つけることにはまったり、それを食べることにはまったり、川を登っていくことや段差を越えることにはまったり、そのときそのときで向き合い方が違います。
 そして、OBでのキャンプは年齢差が大きいので、大きい子が憧れの姿を見せてくれます。
 川の石の上で石を研いで、切れる道具を作る。
 大きな滝でのジャンプ。
 カニやさかなの唐揚げをして食べる。
 さかなを仕掛けを作ってとったときもあれば、釣りをしたときもある。
 最後には素手で取るようになっていきました。
 たき火で石を焼き、バケツに入れてお湯を作るときもあれば、川の側のたき火で焼いて、冷えたお腹に抱えてあたためたときもある。
 薪割りはいつの時代だって魅せられます。斧が正確に当たり、パーンと木が二つに裂けて飛んでいく姿は拍手をしたくなります。
 こんなふうに、毎年でも飽きることがないというのはどういうことかと考えてみると、相手(自然)の奥行きが深くて、次々心を揺さぶるネタを提供し続けてくれる。それもどんどん深まっていくものだらけなのかも。つまり、自然は“生もの”で、常に変化をするばかりではなく、こちらの働き方に応じた反応を返してくれる。
 ふと、私はどうして子どもを見ることに飽きないんだろうと思い浮かべてみると、同じことが言える気がします。子どもも“生もの”で奥が深い。いつも変化していて、こちらの働きかけ方に応じた反応を返してくれる。
 かつて幼稚園に勤めていたとき、三年もすると一年の過ごし方がわかって困らなくなりましたが、ワクワク感が鎮まってしまった気がしました。、そして五年もたつと、自分の中が空っぽで使い果たした気がしました。だから、それ以上勤められなかった。
 けど、いまだに保育を続けている自分を振り返ると、あのときは保育という仕事を無事にこなしていくことだけになっていたのでしょう。新しいことやアクシデントが起こりにくい保育プログラムのなかで、子どもに視点がいっていなかったのかもしれません。だから、ワクワクしなくなり、感情が鈍くもなっていたように思います。
 今やめられないのは、子どもの“生の深さ”にはまったからのような気がします。
 私は今でも<恒例>が好きではありません。恒例にして同じことをすると、段取りはよくなるけど、どうなるかという不安と期待のワクワク感が起きてこないのです。けれど、ペガススのキャンプも山梨のキープ自然学校の冬あそびも、恒例になっているのにあきないのは、やっぱり自然も子どもも、つかみきれない大きな“生もの”だからという気がします。
 そこに大事なことがひとつ。おとなの細かい指導とルールを持ち込まないということが背景にあると思います。“生もの”(自然と子ども)に囲まれて、ワクワク楽しめる保育や暮らし方をしたいものです。

                                          (3月11日 記)

 

●最近のバックナンバーはここをクリックしてください。