柴田愛子

 新学期の準備も任せっきりにして、2週間お休みをいただき、ブラジルに行って来ました。

 飛行機に乗っている時間が23時間ぐらいで、アメリカのアトランタで給油に5時間も待ち、30時間近くかかります。遠い。
 地球の裏側ですから、たぶん、穴を掘っていくと出るくらいの位置にあると思います。
 兄の家族がいるサンパウロから、雄大なイグアスの滝、それからアマゾン川上流のマナウス、ブラジルの最初の首都サルバドール、最後はリオデジャネイロから帰国というルート。
 まあ、遠い国ですし、地名を言われてもわからないですよね。興味のある方は地図を広げて見てください。
 とにかく広すぎて、移動に飛行機で5時間、9時間とかかり、日々早朝から行動というハードなことになってしまいました。


 私がいちばん面白かったのは、アマゾンのジャングルの中を歩くことでした。
 現地の人が植物やムシ、動物のことなどを話しながら、案内をしてくれました。正確に言うと、ポルトガル語の現地の人+現地の日本人ガイドですから、日本語で話してくれます。
 今回、日本人のガイドを、それぞれの地でお願いしました。
 皆さん、子どもの頃に家族で農業移民した方たちでした。一人の方は2歳で、もう一人は7歳、そして、私と生年月日が同じだった方は14歳だったということです。
 私の兄は建築家として行きましたが、だいたい同じ頃で、日本からの移民最後の頃だと思います。
 当時は船で40日かかって行った地の果ての国でした。日本で貧しくて行った方、農業の技術をもち夢と冒険心を持って行った方など様々ですが、とんでもない土地を与えられ、本やテレビで見てきた以上の、想像を越えるご苦労をなされたことが、実感できた思いでした。
 農業移民で行った人たちで今も農業をやっている方は、ほとんどいないそうです。でも、スラムに日本人はいないそうです。
 みんな、とてつもない苦労をしながら、ちゃんと生きてきた。地面のなかに埋め込まれても埋め込まれても芽を出す雑草のように、たくましく、強く伸びてこられたように思いました。
「ここでは、いくらあったら生活できるのですか」という質問に対して、
「いくらなければ生活できないのではなく、いくらでも(お金の量ではなく)生活はできるのです」と答えていました。
 その方は、移民したての頃、お兄さんを事故で亡くされたそうです。今は歯医者になっている弟さんは、自分の夢のためにブラジルにきて母親に苦労をかけたお父さんを、最後まで許せなかったそうです。
 そのお父さんは数年前に強盗に殺され、お母さんは体が不自由になってしまったので、自分が引き取っているということでした。今は3人の子どもを育てている、パワーがあふれた太陽の塊のような人でした。
「私は人生のページをどんどん繰っていきます。けっして前のページをもどって見たりしない」と言っていました。過去は振り返らず、今を突き進んでいくということでしょう。
 景色も雄大ですごいものでしたが、移民した人たちのドラマを実感させてもらえたいい旅でもありました。遠い国でもあり、近い国でもありました。

 ここらで、ちょっと見聞きしてきた子どもの話をします。
 まず…サンパウロの甥の双子の、1歳の誕生日のパーティーの日に到着しました。
 マンションの1階のフロアーを借り切り、入り口は風船のアーチ。入るとまるでディズニーランドのような、おとぎの国に仕立ててあります。
 料理の屋台が出て、専門のビデオとカメラマンが写し回り、いったいこの騒ぎはなに? と思うよう。
 子ども連れの友だち、親戚が60人以上いたでしょうか。
 帰りには子どもの写真のカードが付いた手みやげをもらいます。
 なんでも、1歳の時は、こんなふうに大騒ぎするそうで、日本の七五三を思い浮かべました。

 次はアマゾン川の中州にある島に行ったときのことです。
 二年前に電気がついたというその島は、船が着いたとたんに子どもたちが寄ってきました。一人の子はナマケモノを抱いています。カメを連れている子、オウムやトカゲを持ってきた子もいます。
 ガイドさんが言いました。
「写真を撮ったら、わずかでもお金をあげてくださいね。お金でなくて、お菓子でもいいです」
 ちょっと寂しい残念な気がしました。「そういう、習慣になっているのね」と。
 そこは雨期になると川の水量が増すために、高床式のような家になっています。
 ニワトリや犬が歩く素朴な生活風景は、テレビの「ウルルン滞在記」などでよくで見るような光景です。
 子どもたちは裸足で、いかにも木登りが上手そうに、足の指は開いていました。
 お金をせびることを不快に思いましたが、しばらくいると、子どもたちは悪びれず、「アメをあげる」というとあっという間に一列に並んで手を出す保育のときの子どもたちと同じ感覚であることに気づきます。
 飛行機で残したビスケットやクラッカーをあげると「ヤッター」という表情をしました。

 リオデジャネイロでは、学校の行き帰りの親子連れの姿を見ました。
 お父さんと子どもが歩いていたり、お母さんと子ども、ベビーシッターさんと子どもという組み合わせもあります。
 送り迎えは親がやることになっているけれど、親の都合が悪いときはベビーシッターに頼むときもあれば、スクールバスに乗せてもらうときもある。
「大事な大事な子どもだから、親が都合をつけるのは当たり前、送り迎えに話しながら手をつないで歩くのはとてもいい」と言います。
「何歳くらいまでそうするのですか」と聞きますと、その人は子どもが四年生までしたということでした。

 車が赤信号になると何か売りに来る子がいるかと思えば、美しいベッドに寝かされシッターさんがつきっきりの子もいる。
 同じ国でも、随分子どもの育てられている環境が違います。
 けれど、子どもはどこでも子どもだと思いました。
 今の自分の状況になんの疑いも疑問も持たずに、自分の場所として、それが普通と思って、それが自然だと思って、子どもらしくはしゃいで生きています。
 そして、客観的に見てどの子が幸せ、不幸せという評価はできないとも思いました。(戦争や災害で悲惨な状況にある子どもは別ですが)子どもたちを見ていると、経済的豊かさでは、幸せの量は測れないというのも感じましたね。

 ブラジルの余韻を感じつつ、新学期が始まりました。もう、頭の中は大忙しです!

 写真上 雨期だけに現れる水中ジャングル(水面に鏡像が映っています) 下 ナマケモノを抱く子ども
(4月10日 記)


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