qq
wrs

 

 先日、東京都日野市にある「 NPO法人 子どもへのまなざし」からご依頼をいただき、活動の場

「なかだの森」にうかがいました。

 平らに広がった林の中には小さな小川が流れています。大きな木々の間にロープでつくった網やブランコがかけられています。片隅では火がくべられ、焼き芋をするようです。大きな銀杏の木々は真っ黄色、どことなくギンナンの臭いが漂っています。「こんなところがりんごの木にほしい」。欲深な私はすぐにそう発想してしまいます。
 林の中の広い空間にビニールシートが敷かれ、人々が集まってくれました。

「12月に屋外で講演ですか?」と恐怖、覚悟をして厚着をしていきましたが、この日は快晴。上を見ると、木々の間から真っ青な空、薄い雲が流れていく幸せな景色でした。
 80人ほども集まっていたでしょうか。膝に赤ちゃんを抱えて、小さい子を遊ばせながら、ふと後ろを振り返ると、そこにもちらほらと。大道芸人の気分でした。気持ちが開放されて、いつにもまして饒舌な私。
 午後は近くにある施設内で、スタッフの方々やボランティアの方々に話させていただきました。心地よい疲労感で、帰宅の電車の中では爆睡でした。

 

 ここで発行している「なかだの森通信」をいただきました。そこに「子どもの時間」というコーナーがあります。中学一年生のKくんの作文が載っていました。前回のつれづれで私が感じていることを書きましたが、まさに子ども側からの気持ちが綴られていました。

 とっても感動したので、了解を得てここに載せさせていただきます。

 これは夏休みの宿題「人権作文」としてかかれたものです。
 (前書きを少し省略させていただきます。)

 

〈あれは、ぼくが小学三年生の時だったと思う。近所の公園の木登りをしていたぼくは、知らないおばさんに声をかけられた。
「ぼく! 危ないから降りなさい」
 まだ小学生だったぼくは、知らない人に反論することもできずに、すごすご木から下りた。が、なぜ、知らない人にそんな指示をされなくてはならないのかと思った。
 ぼくが登っていた木はせいぜい6mくらいである。もちろん、6mの高さだって落ちたら死ぬことはあるだろうし、おばさんは親切で言ってくれたのはわかる。けれど、ぼくは自分の力量を知っている。できること・できないことは、自分が一番わかっている。

 初めてぼくの木登りを見たおばさんが実は木登りの達人で、ぼくの動きを危ないと言ってくれたのなら話は別だが、おばさんは単に高いところに子どもがいるのがこわかっただけなんだろうと思う。
 つまり、自分の「感覚」が、ぼくにストップをかけた判断の基準だったのだと思う。そんなことでぼくは自分のやりたいことを止められてしまったのだ。
 長いこと「子ども」をやっていると、こういうことはよくある。自分で経験しなくても、しょっちゅう、そういう場面を見る。
 たとえば、公園の滑り台。おとなは上から下に滑るものだと思っている。けれど、ずっと同じように滑るだけじゃ、すぐに飽きる。子どもはできないことに挑戦して、できるようになるのが面白いのだ。滑り台を上から滑って喜ぶのは、やっと滑れるようになった幼児だけなのだ。なのに、ちょっと大きくなった子どもが、下から登っていると、たいていのおとなは怒る。
「そっちは滑るところでしょ、登るのは階段から!」
 だれかが上で滑ろうと待っているなら、その注意は正しい。でも、誰もいなくても言うのだ。
 どうしてだか、一度聞いてみたことがある。すると「滑るところを土足で登ったら、次の人が汚れるじゃない」と言われた。 
 信じられない。
 子どもが公園で遊んでいたら、汚れるに決まってる。汚れないなら、それは本気で遊んでいないってことなのだ。
 おとなは、子どもが「楽しく真剣に遊ぶ」ことよりも「服を汚さないこと」の方が大事なんだろうか。
 基本的人権のなかには、たしか「幸福追求権」というのもあったと思う。ぼくの幸福は「やりたいように自由に遊んでいるとき」に一番感じられるものだ。ぼくだけではなく、たいていの子どもはそうなのではないかと思う。なのに、遊びが危険に見えたり、服を汚すものだったりすると、たいていのおとなは「やめなさい」と言う。
 危険な遊びや、汚れる遊びは、おとなの「幸福追求権」を侵害するからとめられるのだろうか?
 そうでないなら、止めないでほしい。
 ぼくらの幸福を奪わないでほしいと思う。〉(12月9日 記)

 

 

2012年度のバックナンバーはこちらをクリックしてください。