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 関東はこのところ春、いえ夏のような陽気でしたが、風が吹き荒れて黄砂やら花粉やらもろもろが飛び交い、しばし影を潜めていた花粉症が復活。目は痒いし、くしゃみはでるしで、ぼろぼろです。 狭い日本といえども北と南ではまったく違う気候で、天気も大荒れといったところですね。

 この二週間、講演で滋賀(雪でした)や水戸(偕楽園の梅はまだのようでした)に行き、取材も多く、卒業生の結婚式にも参列し(若いカップルの幸せそうな笑顔はうれしかったです)と、大忙しでした。
 その合間に保育に参加したときに、印象的なできごとがありました。


 4、5歳児で「コンサート」をやっていました。

 一つのグループは、女の子たちが作詞作曲した歌に振りをつけてダンスをしていました。

 もうひとつのグループは、作詞作曲した歌を、空き箱を使ったドラムのような楽器で演奏していました。

 子どものつくる歌は、おとなの曲のように整ってはいません。シンプルで短く、しゃべり歌のようなものに近いです。おとなの曲も続けてうたうので、どうしてこうも違うのだろうと思うほど曲に差があります。でも子どもたちは至ってへっちゃらで、自分たちの歌とできあいの(おとなの作った)歌を同じように張り切ってうたいます。
コンサート 女の子たちの練習風景をみたあとのミーティングで、担任の青くんが聞きました。
「ちぃっちゃんは始めいっしょにうたって踊っていたのに、途中でやめて奥に入ってしまったでしょう? あれは、どうしてだったの?」
 私は友だちともめ事があったのかしらと思いました。すると、ちぃっちゃんが言いました。
「ちいさいときにはね、へいきでうたったの。でもね、おおきくなったら、はずかしくてやれなくなった」と言って泣き出したのです。驚きました。

 ダンスをしながらうたっている途中で恥ずかしくて続けられなくなるというのです。そこで、裏に引っ込んでしょんぼりしていたのです。
 こんな気持ちの変化を自覚したこと、そして言葉で表現できることに感動してしまいました。
「ちぃっちゃんの気持ち知っていた?」と子どもたちに聞くと、仲良しのじゅなちゃんが「しっていた」と言いました。「かおがかわるから、わかった」と。

 これまた、子どもたちは表情からその子の気持ちを察する能力が抜群です。ちまたで言う「空気を読む」というのとは違います。仲良しの人の表情は、承知しているのです。

 そういえば、お母さんの気持ちは、おおよそ把握しているのが子どもです。
「人に見られると恥ずかしいか、見られるとうれしいか」という話に進んでいきました。

「まえははずかしかったけど、いまはうれしい」というみちかは、ほんとにこの頃、率先してダンスをしたり、うたったりしています。昔も今も恥ずかしいから絶対にやらないという子も3、4人いました。でも、気持ちは変わるということが認識されたようです。
 金曜日の午後、お母さんたちにも声をかけて「コンサート」が催されました。
ちぃっちゃんは舞台の横でうたったり踊ったりする子に「せーの」とスタートの合図をする人になっていました。それは大きな声の「せーの」でした。
 入り口でチケットを配る人。明かりをつけたり消したり、カーテンをひく人(「照明」と言っています)。舞台手前で歌詞を書いた紙を持つ人。段ボールのお日さまや月をあげる人。ビニールシートで波を作る人。雪を降らす人。お土産の折り紙を配る人。それらの人を「うらかた」と言います。たくさんの裏方にたすけられて、20分程度の子ども主催の「コンサート」が無事に催されました。
 20日が卒業式です。子どもたちも残る日を数えながら、やり残していることに精を出しているように見えます。(3月10日 記) 

 

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