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 新しくやってきた2、3歳児も日々表情が変わってきています。黙々と自分だけの壁をつくってあそんでいたのが、顔があがって他の子が見え始めています。
「おもしろそう」と思ったことに近づき、かつて教えられたであろう「かして」という言葉も言わずに、奪う、どかすと本来の子どもの姿を出し始めています。


 とらちゃんがピアノでネコのように(つまり指で弾くということではなく、鍵盤の上に背を丸めて乗り、こぶしで音を出していました)していました。じっと見ていたかこちゃんが近づいていきました。そして、とらちゃんを引きずり下ろしました。簡単に降ろされてしまったとらちゃん。少し、泣きました。でも、かこちゃんは気にせずにピアノの椅子にすわり、きちんと指で弾きました。

 とらちゃんはピアノに執着はなく、ケロッと他のあそびを始めました。

 かこちゃんが「ピアノはそんなふうにするものじゃないのよ」と言いたかったのか「わたしもピアノがひきたくなったわ」ということなのかは、私にはわかりません。なにしろ、無言でしたから……たぶん、後者でしょうけど。
 お迎えに来たお母さんに、この経緯を話し「自分のやりたいことはやる。自分の意志がはっきりしていて、いいですね。」と話しましたら、お母さんの表情は曇っていました。「それって、いいことなんですか?」って。

 私はびっくり仰天! 自分の意志を自覚できること、そして行動できるというのは生きていく芯の部分です。大事なことだと思っていますし、その力を子どもたちにつけていきたいとも思っていますから。

「いいことです! かこちゃんは自分の意志(感性も含む)を持っている、それを行動にできることがわかったので安心して見ていられます」と話しました。

 お母さんは、かつて、よその園で指示に従えなかったことがあって、それはいけないことのような気がしていたようです。

 例えば、この春入園した方々のお子さんは、門の前で「おはようございます」と園長先生に声をかけられて「おはようございます」と返していますか?

 もちろん、返している子もいるでしょう。でも、返せない、返さない子もいます。

 まだ、この人には警戒心があるから口を開かないという子もいれば、馴染んでいないから恥ずかしくて言えない子もいます。

 言えないことがいけないことではなく、その子の心情を語っているのです。

 親はおとなですから「おはようございます」と返しましょう。人生経験が長いから園長に警戒心はもっていないし、挨拶という儀礼を知っているし、返した方が相手と気持ちが繋がることもわかっています。

 でも、幼い子どもたちは心と体が直結しています。心が堅くなると、身体も硬くなるのです。それは、いたって自然なことです。

 表面上だけしつけて仕込むより、今の子どもの気持ちを受け入れる方が大事です。言わなかった子が「おはよう」と言ったとき、氷が溶けたのです。その感激的なときを待ってください。
 こんなふうに、私は自分の気持ちに正直に主体的に動ける(表現する)ということを大事に思っています。興味を持ったからやってみる。気持ちいい感触、臭いに自分を近づけてみる。どんなふうになっているのか知りたいから壊してみる。
 そう、「自分が主体的に動く」というメインが、実は「あそび」なのです。そして、あそぶうちに他の子との関わりやトラブルなど社会性も学んでいきます。知識欲も生まれます。あそびは発達の根源です。
 子育て雑誌「クーヨン」(クレヨンハウス発行)の5月号に、能の研究者池谷祐二さんが幼児期の自然体験や身体を動かすことは、一生ものということを言っています。能は大器晩成だとも。大学生になってから伸びる人と伸びない人の差は、自発的にあそんでいたかどうかが関係しているのでは、と言っています。

 幼稚園時代がおとなになったときに直結するわけではないので、なんとも立証しきれないからいろんな意見があるのだと思いますが、りんごの木を長くやってきて基本はあそびということ確信するようになっています。

 この方ばかりではなく、私の周りには「子どもにとって、あそびは生きる力」と考えている方が多くいます。ところが、現実としてはおとなの指示に従えたり、おとなの価値観を早く身につけさせようとする方が多数派のように思えます。

 勤勉家が評価されてきた日本では「あそび」という言葉のイメージが否定的なのかもしれません。困ったものです。長くなってきたので、今回はここまでにします。(4月21日 記) 

 

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