〈L’acte〉
1−Kaoru
この魅惑に身も心も捕えられ、抗う気持ちも消え失せた。
──アルチュール・ランボー
最近、浩二はエスプレッソに凝っている。
俺は嫌いじゃないから構わないが、おかしいのは浩二がそれにかなり大量のミルクと砂糖を必要とする点だ。
苦いのが嫌な奴は、エスプレッソなんかわざわざ自宅で淹れたりしないんじゃないか?
浩二のことがさっぱり理解できないのは、いつまで経っても変わらない。
測鉛を下ろしても、浩二の心の深さは、いつも俺の持っている糸の長さを越えている。
「ナニ考えてんの?」
ソファに掛けてエスプレッソを飲んでいる俺の横に、既にカフェラテとしか呼べない代物のカップを持った浩二が座る。
「エスプレッソと手持ちの糸」
そうでなくとも大きな目を、夜の猫のようにまんまるに見開いて、浩二の唇が動きかける。
「何を考えてるかわからない、だろう?」
俺は俺の台詞を、言われる前に言った。
「そうだけど……木野さんはオレの考えてることがわかんのに、オレには木野さんの考えてることわかんないのって、不公平」
不服そうに赤い唇を突き出して浩二はふくれる。
「俺にだっておまえの考えてることはわからん。お互い様だ」
「今わかったじゃん」
「俺も同じことを言おうとしていたからだ。確率の低い偶然が起こっただけだろう」
「オレの何がわかんないのさ」
拗ねる声が甘く聞こえる。
「何もかも、だ」
唇が重なり、舌が絡みあうと砂糖の味がした。
浩二はエスプレッソの苦味を感じているだろう、そんな余裕があれば、だが。
口が塞がっている時は鼻腔で呼吸をすればいい、という単純な事実に浩二が気づいたのは、ごく最近らしい。
俺は実に長い間、深いキスの合間には息継ぎの時間を作ってやらなくてはならなかった。
そのぐらい浩二は夢中になってしまう、何にでも。
耳朶を軽く噛み、ほっそりと長い首筋に唇をつけると、薄いTシャツの下で乳首が勃ちあがるのが見えた。
俺はその邪魔者をめくりあげて、薄桃色の突起を指先で摘まむ。
話す時にはすっかり男らしいテノールになった浩二が、こういう場面でだけあげる変わらない高い声。
それが俺の名を呼ぶ。
拒む仕草は弱く、肌は上気して俺を誘っている。
俺はもう一度口づけして、この淫蕩な姫君を寝室に引きこもうと抱きよせた。
その途端、お馴染みのコール音が鳴る。
抱いた腕を離さぬまま、俺は反対の手でジーンズのポケットから携帯電話を取り出す。
「もしもし」
相手が俺を、外科医の木野薫であるかどうかを尋ねる。
「そうですが、何か?」
片手を滑らかな肌に滑らすと、浩二の体が震える。
電話の向こうは医療刑務所で、話しているのはツワブキを担当している監護官だった。
石蕗渓、精神科医として驚嘆すべき技術を持ちながら自らが狂ってしまった男。
かつて恋人を助けられなかった俺を恨んで、浩二を人質にとって犯した男。
そうであるのに、今ではなぜか毎月の俺の訪問を待っている、受刑囚。
「ツワブキが? 冠動脈狭窄?」
いまや冠動脈粥腫は、発見が早ければ大した疾患ではなくなった。
以前は動脈内に溜まったアテロームを、いちいち胸を開いて血管ごと切除していたが、もうそんな大手術は行われない。
大腿部の付け根か手首からカテーテルを挿入し、患部でバルーンを展開し、アテロームで狭くなった血管を拡げてやればいい。
俺が行くほどのこともない。
浩二の無駄な肉のない腹を指で辿り、スウェットの中に忍びこむ。
電話を放さない俺に抗議したそうに睨んでいるその眼が、色っぽく潤んで揺れる。
「本人と代わって下さい。埒があかない」
虚血状態にあるはずのツワブキは元気に電話に出た。
『このままだと完全に冠動脈が塞がりそうなんだよ、BJ。この際、ロータブレーターで掃除してもらいたいんだ』
「俺を配管工と間違えてやしないか。忙しいんだ。そんなオペでいちいち呼ぶな」
もう硬くなっているものをゆるゆるとさすってやると、切なそうな押し殺した吐息が洩れた。
電話が声を拾ってしまうのではないかという恐れが、浩二を常以上に敏感にしている。
俺は亀頭の付け根にあるふくらみに軽く爪を立てた。
『忙しいって、あの可愛いボウヤとのデートで? 明日は休みだって聞いているよ』
「俺はトシだからな。手を抜くと逃げられる」
浩二のものがぴくんと小さく動いて、ぬるりとしたカウパー腺液が溢れでてくる。
必死に噛んで声を耐えている唇が、血のように紅い。
『あの子を抱いてる時のBJはトシって感じには見えなかったな』
俺はその台詞で犯されていた浩二を思いだす。
仕方がなかったとは言え、俺以外の男に抱かれて快楽を得ていたこの細い体。
少々乱暴に下着ごとスウェットを引き下ろしてしまうと、驚いたように浩二が俺を見た。
露わになった裸身は、俺と同じ種で、同じ表現体であることが信じられないほどに美しい。
逃げようともがく試みは、乳首をこねて潰す指一本の動きで封じた。
すすり泣くようなあえかな吐息。
唇が、声を出さずに、お願いだから、と動いた。
明日は俺も浩二も休みだった。
二人の予定が揃って空くのは、何ヶ月ぶりのことだろう。
三年になって病院実習に入った浩二は、ともすると日曜ですら休みにはならない。
『言ってただろう? ロータブレーターを医大が独占してて使えないって。使ってみたいでしょう?』
興味がないと言ったら嘘になる。
バルーンやステントを使った経皮的血管成行手術は何例もやったが、ロータブレーターは出来たばかりの技術だ。
カテーテルの先が微細なドリルになっていて、血管に蓄積し石灰化した病変部を削りとる。
外科医であるよりアギトの専門医であることの方を求められている今の俺には、この特殊機材を使う機会が回ってこない。
『来るでしょう? BJ』
「それは何だ。精神科医としての結論か?」
俺の手は止まってはいない。
何かに夢中になってしまったら自分か弟の身が、危うかった時代の癖なのだろう。
複数のことに注意を振りわけておくのは特に難しいことではない。
掴まれ、扱かれて追い詰められた浩二が、激しく首を振った。
指先で先端の割れ目をなぞるように動かすと、もう我慢もそこまでのようだった。
浩二の背中が大きく弓なりに反りあがり、俺の手の中に温かい液体が迸る。
『いや、ただの希望的観測。正直に言うと、僕は盲腸だって切ったことがないんだ。信頼できる医者に手術してほしいんだよ』
まだ息も整わない熱い体の、もっと熱い部分に慎重に指を滑りこませる。
はじめはゆっくりと、そして感覚が慣れるのを待って、浩二自身の精液で濡れた指を激しく行き来させる。
射精したばかりの浩二のペニスが、また血液を含んで勃ちあがってくる。
人差し指に中指を添え、そこを少しずつ開いてゆく。
「行ってやってもいいが、今は忙しい」
浩二の長い肢を開かせ、強引にその間に割りこむ。
俺はジッパーを下ろして、自分のものを出して浩二の充血したそこにあてがった。
浩二の瞳が見開かれる。
俺のものは充分に欲望で硬い凶器と化していた。
たおやかな人魚を銛で打つ残酷な漁師のように、俺は浩二を刺し貫くために体重をかける。
押し返す抵抗感をくぐりぬけてしまうと、柔らかい場所がひくつきながら俺を呑みこんだ。
こらえきれなかったらしい浩二の声が、電話の向こうにも聞こえたのだろう、ツワブキが笑った。
『何だ、さっきから妙にセクシャルな気配がすると思ったら、最中だったんだ』
「ノーコメント」
最初は前立腺の背部だけだった浩二の性感帯は、今では内壁全体に拡大している。
俺のものがどこに当たっても、激しい快楽に打ち震え、俺を締めあげる。
引き出し、また突き入れる動きを繰り返すうちに、浩二の肢が自然と開いてくる。
『それはお邪魔しました。終わってからでいいから来てくれないかな』
「そのためにエサまで用意したのか。相変わらず周到だな」
届く限りの奥まで突きたてても、浩二はまだ声をあげまいとしている。
それなのにその腰は、咥えこんだ俺を離すまいとするように、揺れはじめている。
初心さと裏腹に熟れた体のアンバランスが、俺を尚更にひどい男にする。
肢を肩の上に引きあげ、俺自身で中をめちゃくちゃにかきまわす。
『BJ、話は聞いてくれてるんだろうか。心配になってきた』
「ああ。三時間したらそっちに行く」
『三時間?』
まるで拷問でも受けているように身悶える浩二の表情を見下ろしながら、俺は言う。
「あと一回してから、だ」
呆れたように、ツワブキはため息をついて通話を終えた。
俺は携帯電話のフラップを閉じてテーブルの上に置き、浩二の上に屈みこんでその唇を貪ってから言った。
「もう声を出してもいいぞ。話は終わった」
涙に濡れた睫毛があがって、俺を恨めしそうに見る。
「ひ……どい…よ……あ、んっ あぁっい…い……」
狭いソファの上で折りたたまれた体を突きあげると、浩二の言葉が意味を成さなくなる。
俺を責める気持ちと与えられる快美感の間で揺れた意識は、すぐに後者に天秤を傾けた。
「かお…る、さん……薫、さん……」
俺が入りこむ振動に途切れながら、浩二は俺を呼ぶ。
呼び捨てにして構わないと言ってあるのに、どうしてもそれには馴染めないらしい。
一緒に暮らして同じ姓になっても、長いこと俺は“木野さん”のままだった。
今でも、名前で呼ばれるのは情を交わす時だけだ。
だからこそ、薫と呼ばれると俺は猛々しい本性を抑えきれなくなる。
突き入れるだけでは足りなくなって、華奢な骨盤を掴んで、俺自身に叩きつける。
「浩二……締めつけてくる、いいのか? こんなに手荒に抱かれても」
返事はない。
その代わりに長い肢が絡みついてきて、俺をさらに引き寄せる。
濡れた浩二のものが腹にこすれる。
俺はそれを強く握ったまま、上下に激しく手を動かしてやる。
「…っ…あぁっ……あ、あ、あ…っ……」
中からも外からも強引に責めたてられて、浩二が大声をあげる。
それはもうよがり声のレベルを超えて、悲鳴だ。
「……やぁっ イッちゃ、うっ」
「俺もだ……来いよ」
正確には俺の方が早かった。
精液が内壁にあたる感覚すらも快感にして、浩二は射精した。
突然、糸が切れたように俺に絡んでいた肢が滑り落ちる。
こうなると浩二はしばらく失神したままだ。
脱がせた服をタオル代わりに汗と汚れを拭い、指で中に出してしまった精液をかきだしておく。
俺と浩二はよほど体の性が合うらしく、中で出したからと言ってあとで浩二が体調を悪くしたことはないが、念のためだ。
意識はないはずなのに、浩二は俺の指に噛みつくようにそこを締めた。
指を抜くと、そこが名残り惜しげにひくつく。
交わったあとのその場所は血を集めて腫れていて、まるで赤い花のように見える。
俺を狂わせる花……コカインの原料になる芥子のように。
ベッドのヘッドレストに身をもたせてPCIの論文に眼を通していると、急にそれを払い落とされた。
浩二が眼を醒ましたのだ。
「……ヘンタイ」
「その変態の背中に肢でしがみついて、腰を使ってたのは誰だ」
白目のところまで浩二は真っ赤になる。
「電話、しながら、なんて…っ……」
「気にするな。相手も気にしちゃいない」
電話の相手に、自分が抱かれていたことを知られていたとわかった浩二は、俺から背を向けて枕に顔を埋めた。
震える剥きだしの背中に、俺は唇をつける。
「俺に抱かれるのは、そんなに恥ずかしいことか」
感じる場所を唇で辿りながら、俺は訊ねる。
「そういうコトじゃ……木野さん、ズルイよ」
「何処が」
「論点をすりかえてる」
親への反抗に白紙答案を出した、と威張っていた小僧が、いつの間にか論拠を云々するようになっている。
歳を取ると時間の流れが早い、というのはこういうことかと俺は自嘲した。
「ナニがおかしいのよ」
「おまえのことじゃない」
俺を睨みつけるために振り返った浩二に、唇を重ねる。
硬く拒むように閉じられていた朱唇は、やがて緩み、俺の舌先の愛撫を受け容れる。
「……オペ?」
口づけの合間に、浩二は訊いた。
「ああ。大した時間はかからない。すぐに帰ってくる」
「急いで行かなくていいの?」
「行ってしまっていいのか」
ぎゅっと抱きついて、いや、と甘ったれた声で浩二は言った。
今日は男にしがみつかれやすい日らしいな、と俺は思った。
横になっていたツワブキは、近づいた俺を見るなり抱きついてくる。
「……おまえの恋人に祟られたくないんだがな」
顔色が極端に悪いのは、チアノーゼの所為だけではないらしかった。
電話で言っていた通り、こいつは体を切られるのは初めてで、怯えている。
精神科だとは言っても外科でも研修しただろうに、思った以上に気の弱い男だ。
「怖いんだ、仕方ないだろう」
「浩二を誘拐して俺を半殺しにした時の度胸は何処へやった」
「あの時は死んでもいいつもりだったんだ。生きろっていったのはBJだろう」
「俺を信じたから呼んだんだろう?」
ツワブキはようやく腕を離す。
「大体、おまえまだ34だろう。冠動脈にアテロームをつくるなんて不摂生が、どうやって刑務所内でできるんだ」
「家族性の高脂血症なんだ。それに、35になったよ」
「40過ぎの俺から見れば1つ2つなんか大差ない。そんなことでよく精神科医が勤まっていたな」
「弱くて狂った同類だからこそ解ることもある」
「最低の理屈だ。おまえの患者に同情するよ。横になれ、今日は俺が麻酔医も兼業だ」
もう安定剤を投薬されているのに、効いていない。
恋人を喪ってからアルコールとドラッグに耽溺したこの男には、通常以上の麻酔薬が必要だった。
注射器に吸いあげた透明な薬を打たれると、ツワブキは俺を呼んだ。
「BJ……」
「何だ」
「BJ……」
「だから何だ。頼まれなくても失敗などしない。とっとと寝ろ。朝にはもう動ける」
意識を失いかけているとは思えないはっきりした口調で、ツワブキは言った。
「キスしてくれないか」
何度も言った台詞を、俺は繰り返した。
「ツワブキ、おまえは死んだ恋人と俺を同一視しすぎる」
そしてツワブキもまた、同じ言葉で応えた。
「僕は元精神科医だ、そんなことわかってるよ……」
俺がこの男を憎みきれないのは、たぶん、雅人に似すぎているからだろう。
浩二をさらい、陵辱し、もう少しで心まで壊されるところだった。
それなのに俺はツワブキを突き離せない。
その知的で儚げな容姿も、両親を亡くしているところも、年長の保護者に頼りきっていたところも。
昔の、“マジックマスター”になってしまう前の、懐かしい俺の弟に重なる。
「BJ……お願いだから」
抱きつかれた上にキスまでしたら、手術室に運ぶために待ち構えているスタッフにどう思われるか容易に想像がついた。
俺はホモじゃない、という抗弁を何度しても、無駄なのだろう。
どうしてこうそっち方面の人間にばかり好かれるのか、俺自身にはまったく理解できない。
いや、わかりたくもない。
「二度としないからな」
ため息をついて、俺はさっき浩二とキスしてきたばかりの唇をツワブキのそれと重ねた。
手術は簡単に終わった。
先にドリルと削りとった病巣を格納するカプセルがついている以外は、普通のカテーテルと変わりない。
俺は自分の指先の延長としてメスを感じる。
カテーテルも、同じことだ。
ツワブキの腕の血管から俺の指先は侵入し、石灰化した部分を残らず削りとり、引きだす。
町医者でもできそうなたやすい作業だった。
もうそれを使う機会が回ってきはしないと解っているのに、いつも最新の技術を持っていたいと思ってしまうのは悪い癖だ。
俺の医者としての人生は、おそらくもう終わっている。
残りは限りなくボランティア的な、アギトという同類たちの面倒をみる保父役に費やされるのだろう。
それが嫌だと思ったことはないし、その仕事で浩二との生活が成り立っているのも確かだ。
だが俺の中の消え残った野心の火が、時に燻ってこうした莫迦をやらせる。
こんなことなら、浩二と過ごせばよかったのだ。
「木野先生、患者の意識が戻りました」
看護師が、着替えて帰り支度を終えたばかりの俺を呼びに来る。
意識が回復して何の問題もないことを確認するまでは残るつもりだったから、早い方が有難いが、それにしても早すぎる。
塀の中までドラッグを差し入れている奴がいないかどうか、確認させておく必要があるだろう。
「今、行きます」
応えて俺は病室に向かう。
ツワブキは酸素マスクをしてベッドに横たわっていた。
「……やあ、BJ」
俺の感覚が危険信号を出す。
この部屋は何かがおかしい、それに。
「心肺機能は正常に戻ったはずだ。苦しいのか?」
酸素を吸わせるように指示した覚えはないし、モニターの数値もそれが不要であることを示している。
「少しね……」
「少しなら我慢しろ。酸素過剰の後遺症の方が重篤だ」
疲れているのだろうか、そう言っている俺の方が息苦しさを感じた。
そして耐え難い、眠気。
「BJ、顔色が悪いよ。座った方がいい」
俺は枕元に置かれていた椅子に崩れるように腰を落とした。
体がうまく動かない。
「ツワブキ……おまえ、まさか」
動けなくなってから俺は自分の感じた違和感の正体に気づいた。
間抜けだ。
この空間は、二酸化炭素と窒素の濃度が異常に高く設定されている。
「ごめんね、BJ」
謝って済むか、という文句を、俺が言えたかどうかは定かではない。
視界が暗くなり、やがて失われた。
目が覚めて最初に見たのはミニチュアの飛行機だった。
「……フォッケウルフ」
俺の唇が勝手に考えたことを言葉にする。
「やりやがったな、ツワブキ」
そこはカウンセリングルームで、俺が観たのは壁を埋める箱庭療法用のキットの一部だった。
寝かされているのはご丁寧にフロイト流にカウチで、さっきとは逆に椅子に座ったツワブキに見下ろされている。
「俺の分析なら間に合ってる」
「他にいい場所がなくて」
まだ、外には出ていない、ここは塀の中だ。
俺は起き上がろうとして、数秒で努力を放棄した。
「……俺は暗示にかけにくかっただろう」
ツワブキは笑う。
「そうだね。その心理障壁はBJの自家製? よくできてる」
「プロに誉められて光栄だ。弟がテレパスだったからな」
「なるほどね」
心理療法を受けていたツワブキは、それを逆手にとってカウンセラーを支配下に置いたのだろう。
そして俺をはめるための罠を準備させた。
狂ってさえいなければ、こいつは本当に一流の精神科医なのだろうに。
「そろそろこの茶番の理由を聞かせてくれ」
「あなたの傍にいたかっただけ」
俺は動けぬまま、またため息をついた。
「ツワブキ、おまえな……」
「わかってる。あなたを傷つけたりしないし、ちゃんと浩二くんのところに返すよ」
「何がわかってる、だ? 俺はおまえの恋人じゃない。本人の意志に反する拘束を誘拐っていうんだ」
「だから、少しの間だけだよ」
一秒でも、俺は嫌だった。
他人の意のままに扱われるのは不愉快極まる。
「どれだけ俺がここにいてもおまえは満足できやしないぞ。俺は、あの人じゃないんだからな」
やはり精神科医だったツワブキの恋人。
俺自身にはわからないどこかが、彼と似ているのだとツワブキは言う。
だが誰も、誰かの身代りにはなれない。
「BJに理解してもらおうとは思ってないよ。あなたはただ、暗示の切れる時間まで、僕といてくれればいいんだ」
動けるようになった途端に俺はこいつを殺してやろうかと思った。
だが、それこそツワブキの思う壺だ。
この男にとって死は救いに他ならない。
「あと……どれだけ付き合わせる気だ」
「陽が、沈むまで」
俺はフイになった浩二との休日を思って、鉄格子の窓から見える明るい太陽を恨んだ。
……Ainsi faite,la moricaude
Bat les plus altieres beautes,
Et de ses yeux la lueur chaude
Rend la flamme aux satietes……
ツワブキは俺の髪を指で梳きながら、上機嫌で詩など口ずさんでいる。
全く、腹の立つ男だ。
「俺はカルメンじゃないし、男を燃え立たせたりしないぞ」
美しい顔に嫌味な笑いを浮かべて、ツワブキは俺の頬を撫でた。
近くでみるとこいつの色男ぶりが際立っているのがわかる。
細面になめらかな皮膚、整った顔、マトモならさぞや女を泣かせただろう。
「BJ、知らぬは本人ばかりなり、ってこともあるよ」
「気色の悪い冗談はやめろ」
どんな精神外傷を負ってもいいから、いますぐここから逃げたくなる。
俺は俺の心という迷路に閉じこめられている。
メイズの中は爆発物で満ちていて、下手に動けば起爆する。
つまり、狂う。
そうなっても俺は構わない、だが、浩二は。
陽が暮れるまで、というツワブキの言葉が嘘でないことは俺にでも解る。
俺も医者の端くれだ、嘘を、こんな長時間に渡ってつき通されるほどには鈍くない。
うっかり数分騙されるドジは踏んでも。
待てば、解放される。
それはわかっていても、考えこむくらいなら思い切って危地へ飛びこむタイプの俺には、拷問に等しかった。
「……寝れば満足するなら抱いてやってもいいぞ」
野郎の肌になど触れたくもなかったが、こうしてただ時間が来るのを待つよりマシだ。
「ダメだよ。身体制御の暗示を解いたら、あなた逃げるもの」
俺の精神にかけられたトラップが、それだけでないのはわかりきっている。
だがそれでも俺は、動ければ逃げだすだろう。
よく読まれている。
「でも……それもいいかもね」
ツワブキが俺のジーンズのジッパーに手を掛けた。
「おい、冗談だろう?」
俺の声は相当に情けなかったに違いない。
奴は笑った。
ジッパーが下ろされ、俺のものが引き出される。
外気の冷たさを感じる間もなく、ツワブキの熱い口腔に含まれる。
「夕べ2度やってきたんだぞ、年寄りを殺す気か」
たっぷりと唾液を絡ませながら、キャンディでも舐めるようにねっとりと執拗に口撫される。
畜生、と俺は思った。
天才的なのは洗脳の腕だけじゃなかった。
暗示の所為でも何でもなく、奴は巧かったのだ、それが、途轍もなく。
「誰がこんなことを教えやがった」
屈辱的なことにしっかり勃起させられた俺のそれから唾液の糸を引きながら、ツワブキの唇が動く。
「気持ちいい? BJ」
「医者になんかならずに彼の愛人やってりゃよかったんだ、おまえは」
ペニスを勃てながら叩く憎まれ口ほど説得力のないものも少ないだろう。
赤い唇が軽く俺のものを吸いあげ、舌が先端をぐるりと舐めまわす。
俺は呼吸が乱れるのをもう止められなかった。
これは浩二に、乱暴なセックスを仕掛けた罰か?
こうなってしまうと、射精してしまいたいということしか考えられなくなる。
不意に、唇が離れた。
避妊具が被せられ、粘度の高い液体が、その上から垂らされる。
性交用の潤滑ローションだった。
「おまえ、最初っからそのつもりでいやがったな」
「もちろん。せっかくあなたを自由にできるのに、僕が何もしないはずがない」
奴は俺のそれを撫であげる。
「嫌じゃないよね、BJ?」
俺は俺の意志に従わない生殖器を罵ってやりたかった。
鼓動に合わせてひくつきながら、もっと強い刺激を期待している不埒な器官。
ツワブキは下着を脱いで、俺の上に跨った。
ゆっくり腰が落ちる。
硬い肉の筒が、俺を呑みこんでいった。
「……っ…く」
こぼれだしてしまった声に、満足そうにツワブキは耳を傾ける。
「もっと啼いてよ、BJ……」
淫らなスクワットがはじまる。
締めつけながら腰を回し、上下させ、俺を貪る。
強烈な快感が、心拍数を上げた。
自分では動けないもどかしさが、余計に俺の呼吸を乱れさせる。
吐き出す息に、みっともない喘ぎが混じる。
それがツワブキの興奮を煽るのか、奴は自分のペニスを扱きはじめた。
ツワブキが快感を覚えるたびに、内部がびくびくと痙攣し、俺を惑乱させる。
その俺のザマが、余計に奴を興奮させる。
悪循環だった。
人よりは長くこらえられるつもりだったが、手と口で昂められ、体の中に収められた俺のものには、限界が来ていた。
それでも俺は、無理やり射精させられるのは御免だった。
必死で耐えていると、とどめを刺すようにツワブキが言った。
「いいんだよ、BJ……あなたがイかなければ、僕はいつまででもこうしていられるんだから」
完敗だった。
俺は諦めて、自分を抑えるのをやめた。
そのあとさらに一回“喰われて”、俺は眠ったらしい。
当たり前だ。
40過ぎの男が24時間以内に四回セックスして一回オペをやって眠っていなかったら、疲れ果てるに決まっている。
微睡の中で、俺は浩二のことばかり思いかえしていた。
ツワブキが俺にやったことと、俺が浩二にいつもしていることは、本質的には変わらないのかもしれなかった。
俺は浩二が、そこを触れられれば動けなくなる部分を何箇所でも挙げられる。
そういうふうに俺が仕立てたも同然だからだ。
そうして動けなくしてから、俺は存分に浩二を喰らう。
涙に濡れた瞳で許しを請われると、尚更に俺の体は昂って浩二を責めたてる。
なぜそんな狂ったサディストを、浩二は伴侶に選んだのだろう。
家に帰ったらまず真っ先に浩二に謝りたかった。
抱きしめて、あの柔らかい髪に口づけて。
今すぐにでも、帰りたい、そう思った途端に眼が覚めた。
ツワブキの冷たい眼が、俺を見つめていた。
凍てついた感情のない眼、それなのに、ツワブキは涙を流していた。
「何が悲しい?」
訊ねると、奴は俺の髪を一房、長い指に絡めた。
そして黙って首を振った。
愛するものを喪う哀しみなら、嫌というほど知っている。
ツワブキにとって亡くなった恋人は、師であり親代わりであり、たぶん世界のすべてだったのだろう。
大切なものを一瞬にしてすべて失くしたら、俺も狂うのかもしれない。
幸か不幸か、俺には弟という、守るべきものがあった。
そのストッパーが、こいつにはない。
行き場をなくした感情は初め憎悪となり、今は恋着となって俺に向けられている。
それが仮初めのものでしかないことを、精神科医であるこいつがわかっていないはずがない。
「ツワブキ、おまえ、あの人が亡くなってからちゃんと泣いたのか」
グリーフワーク、悲嘆の、喪の仕事。
涙と共に繰り返し死者を悼み、その思い出を語り、人はようやく喪失の闇から立ち上がっていく。
ずいぶんと安っぽい、同情だったかもしれない。
俺には泣くことは許されなかった、ただ耐えることで壁を築き、闇を封印した。
その同じ苦行を、この男にさせたくなかった。
「暗示を解いてくれ。陽が落ちるまで居てやる」
ツワブキは、理解できない、といった顔で俺を見た。
「……どうして?」
「おまえが読んだより、俺が思っていたより、俺って男は甘い奴だったってことだ」
逡巡するようにツワブキは俯き、そして小さな声で呟いた。
……Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure……
「夜よ来い、時鐘よ打て、日々は去り私は残る、か」
アポリネールの感傷的な一節に解放されて、俺はようやくカウチを降りる。
そうしてツワブキを固く抱きしめてやった。
もう来るなとツワブキは言ったが、俺はやはり来月も面会に行くだろう、奴の愛した男の思い出を聞くために。
どこまでも甘い男になったものだ。
俺はツワブキのしたことを誰にも言わずに出てきた。
誘拐と監禁拘束、奴の治療計画を変更させ、刑期をもう十年上乗せする気にはなれなかった。
第一、この俺が「強姦されました」と告訴するのはほとんどコメディにしかならない。
そんなことを考えながら走っていると、角を曲がった瞬間にふと平衡感覚を失って電柱に擦った。
俺が。
バイクで。
しかも俺自身のパーツでもあるDRに乗っていて、事故る、だと?
左のハンドルとステップと、肩と膝に出来た傷を見て、俺は呆然とした。
DRと俺には自己修復機能があるからいいとして、浩二が買ってくれた服はどうしたものだろう。
新品を買いに戻るか、怒られるのを覚悟で一刻も早く帰る方を選ぶか。
こんなことで悩むから俺は職場で恐妻家扱いされる。
だが浩二が恐ろしくないかと言えば……一度キレさせたらあいつはアンノウンより恐ろしい。
泣きながら多弾頭ミサイルのように避けきれない言葉で俺を追いつめてくる時のあいつは怖すぎる。
俺の人生についぞなかった“反省”だの“後悔”だのを、鋭い刃物さながらに喉元に突きつけてくる。
ショックのあまり、キルスイッチすら押さなかったせいで、我に返るとDRはとっくにエンストしていた。
今から新品をホテルのランドリーに頼んで前と同じ状態にするのにかかる時間は、推定で2時間。
その2時間があれば、俺は今まで浩二に、惨い抱き方しかしてこなかったことを懺悔できる。
今日は多弾頭ミサイルも甘んじて受けよう。
覚悟を決めて家に帰った俺を待っていたのは、いつもよりさらに情熱的な浩二の抱擁だった。
「こんなにケガしちゃって。すぐ消毒しなきゃ、ほら早く早く」
俺は玄関先で裂けた服を脱がされ、バスルームで傷を洗われて裸のまま居間に護送される。
「浩二……済まない」
「え? ナニがよ」
擦過傷をベンザルコニウムとリドカインの希釈液で拭いながら、怪訝そうに浩二が問い返す。
「その……せっかくの休日に仕事が入った上に、おまえに買ってもらった服を、だな……」
くくっと喉を鳴らして浩二は笑いだした。
「ナニ言ってんの木野さん? 仕事は仕方ないじゃない。それに服なんてどうでもいいよ、木野さんさえ無事なら」
その邪心のない笑顔を見た途端、俺の両腕は浩二を捕らえていた。
「き、木野、さん??」
「おまえ、俺と寝るの嫌じゃないか?」
「ね、寝るって……あの……アレ、のこと?」
「そうだ」
浩二は俺の腕の中で顔を赤らめて視線をそらしながら、小さな声で言った。
「イヤなわけ、ないじゃん。だってオレ木野さん好きだもん」
いつも一人前の男扱いしないと言って浩二は膨れるのだが、俺の頭に浮かんだ形容詞はやっぱり“可愛い”だった。
ここで押し倒したらいつもと同じパターンになる、何より俺の明日の勤務状態が危うくなる。
抱きしめたまま衝動を堪えている俺の気も知らずに浩二は、それに、と付け足した。
「ちょっと乱暴だけど……木野さんにされるの、すごくキモチいいし……」
理性が飛ぶ音、というのがもし実在するとしたらいま俺が聞いたのがそうだろう。
俺は先程までの悔恨を場外に放りだして浩二の唇を奪った。
「……木野、さ…ん…傷の、手当て……が」
耳朶を食みながら、俺は囁いた。
「舐めておけば治る……おまえが」
勤務なんかくそ喰らえだ、と、俺の生殖器も主張している。
「あ……やだ……」
貪欲な俺の播種本能を見て、浩二がさらに赤面する。
他の誰ももう俺を満足させられない。
どこまでも感じやすい体に浩二を仕立てたのは俺だが、俺をこうしたのは浩二だ。
「ダメだよ、木野さんケガしてるし、それに……」
そうだった、やっと俺は思い出す。
明日から、浩二は外科の病院実習だ。
無理はさせられない。
仕方がない、俺は浩二の保護者でもある、その立場を、俺自身が選んだ。
俺と同じ道を歩いてくれる浩二の、障害にはなれない。
そっと浩二から離れると、背中から抱きつかれた。
「木野さん!」
おい、今そういうことをすると、また理性が飛ぶぞ。
浩二の体が熱い。
俺の首筋にかかる息も。
その熱い吐息交じりの声で、浩二は誰が教えたのか、凄まじいことを言って俺をねだった。
「木野さん、ポリペクトミーして」
「……俺の内視鏡で、か」
お願い、と浩二が俺を誘惑する。
外科医どうしのカップルが少ないわけが、何となくわかった。
そんな言われようをされたら、相手がおまえじゃなかったら“内視鏡”は使える状態にならないぞ、浩二。
どうやら俺は取り返しのつかないことをしたらしい。
仕方ない。
俺は浩二を捕まえると、動けなくなるまで柔らかい唇を貪った。
大切な“患者”を俺は丁重にベッドにお連れして、二人を隔てる無粋な繊維を取り去る。
震えながら“オペレーション”を待っている薔薇色の体。
それにどうしようもなく欲情している俺の体。
外科医が女好きと酒好きだらけなのは医療関係者ならみんな知っている。
その群れにいてさらに、遊び人の称号をほしいままにしていた俺にも年貢の納め時ってやつがきたらしい。
わかってるか、浩二、俺がこんなふうになっちまうのはおまえを抱く時だけだ。
この刹那のために何もかも投げ出して構わないと思うのは。
愛しているからだ。
俺は無意識に、しょうがない、と声に出してしまったらしい。
組み敷かれ、貫かれた浩二が、理解しているのかいないのか、かすかに、しかし魅きこまれるほど妖艶に、微笑んだ。
〈END〉