前回の続きで、今日は笛吹峠を越えて鳩山まで。
赤が鎌倉街道。緑のマーキングしてあるところが、今回訪ねたところ。
前回訪ねた、源義賢の墓の近く、大蔵交差点から笛吹峠に向かいます。
縁切り橋
すぐにあるのが「縁切り橋」
征夷大将軍坂上田村麿が軍勢を引き連れてこの地に滞在、岩殿の悪龍退治の準備に忙殺していた時、京都から奥方が心配して訪ねてきた。
坂上田村麿は会おうとしないばかりか、「大命を受けて出陣しているのに、追い来るとは何事か、今より縁を切る。早々に立ち去れ」と宣言したという。
それから「縁切り橋」と言われた。
婚礼の時、縁起をかついで土地の人は新郎新婦を通さぬという。
表示はあるものの、橋が見当たらないので探しましたが、道を横切っているのが、こんな小さな川。なので橋は今はありません(笑)
将軍神社
この辺り一帯は将軍沢と呼ばれています。しばらく進むと左手に、日吉神社があり、その参道の突き当たりに小さな祠があります。
征夷大将軍・坂上田村麻呂を祀った将軍神社です。 覗き込むと、中にまた部屋があり、その入り口に赤旗が。
鎌倉街道旧道
将軍沢を抜け、今は笛吹峠へ向かう道は舗装され、車が多く走る道になっていますが、将軍神社から峠の項上への途中、右に入る林道があり、
そこが笛吹峠に向かう唯一の街道跡だということで、歩いてみました。
途中田んぼ道もあり、やがてここからは使われていないのでしょう、草木が覆い被さっています。
車に戻り、笛吹峠に向かいます。しばらく気持ちのいい山道が続きます。
笛吹峠以降の地図。
赤が鎌倉街道。緑のマーキングしてあるところが、今回訪ねたところ。
笛吹峠
笛吹峠に到着しました。
この笛吹峠は、「ふえふき峠」「うすい峠」とも呼ばれています。そのどちらかは諸説に分かれ、決まりはついていないそうです。
新田義貞の死後、次男の義興と三男の義宗は、南朝の宣旨を受けて、文和元年(1352)上野国で蜂起しました。義宗の軍勢は、足利尊氏の軍勢と小手指原など武蔵野において戦いました。
絵巻が残っています。
太平記絵巻(白描)東京国立博物館蔵
画面左手が新田軍で、鍬形のある兜をかぶった武将が新田義宗です。
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この峠は、いわゆる武蔵野決戦で大敗して、ここまで引き上げた新田義宗軍が最後の防衛の陣を張ったところと言われています。
『太平記』に、この夜のことが書かれていて、足利の陣と新田の陣の比較がされています。
「将軍(足利) の御陣を見渡せば、四方五六里に及んで、銀漢高くすめる夜に、星を列るが如くなり。笛吹峠を顧れば、月に消えゆく蛍火の山陰に残るに異ならず」とあり、
新田軍の敗軍の様子が寂しく、物悲しく描かれています。
その時、新田軍にいた宗良親王は、月明かりに誘われて笛を吹いて敗戦の心の乱れを慰めたことから、笛吹峠と呼ぶようになったと言われています。
笛吹峠から物見山を経て岩殿観音に向かう道を少し歩いてみました。気持ちのいい山道です。
笛吹峠を後に南に下って行きます。目の前に広がる里山は、埼玉県鳩山町です。
羽黒堂
峠道を下りて来ると右の山斜面に石地蔵を安置する「羽黒堂」があります。別名「はぐれ堂」とも呼ばれていて、その名の由来について 『新編武蔵風土記稿』には、
昔、歯を黒くした大将の首を埋めた、出羽の国の人を葬ったので羽黒山にちなんだ、家来にはぐれたために矢で射られた大将の首を埋めたなどの説が載っています。
いずれにしても街道沿いにふさわしい地蔵堂です。
鳩山中学校
街道は、鳩山町に入りますが、そこから街道は消えてしまいます。かって鳩山中学校の校舎の下に街道跡を保存してありました。
鳩山中学校の敷地には、凹道の街道跡が通っていたのですが、ちょうど校舎を建てる場所に当たっていたそうです。
そこで校舎の下になっても埋め戻さずにコンクリートの壁と支柱で土台を支えて街道跡を残したと言うことだったのです。
で、のぞくと見られるようになっていたそうです。
ところが、鳩山中学校がまだ木造校舎の時は残してあったそうですが、鉄筋校舎を建てる時に街道跡は埋めてしまったそうです。残念です。
現鳩山中学校校舎、あの場所を通っていた。 校庭の南側に鎌倉街道の解説が。
史跡・国分寺瓦窯跡
さて、ここでちょっと街道から離れて、「史跡・国分寺瓦窯跡」を訪ねました。鳩山中学校から車で5,6分です。
鳩山町には、ここのほかにも多くの窯跡が発掘されています。鳩山町須江というところは、その須恵器にちなんだ地名だそうです。
今は、ほとんどの窯跡は埋められてしまい見ることは出来ません。鳩山町の鎌倉街道は、奈良時代の国分寺造営の時には、屋根瓦を運搬する人と馬で賑わっていたのが、容易に想像出来ます。
訪ねた場所には、二つの窯跡がありました。
石田国分寺瓦窯跡
ここは、まだ発掘がされていないそうです。
赤沼古代瓦窯跡
武蔵国・国分寺(東京都国分寺市)の屋根瓦を焼いていた窯跡は、木造の古い小屋の中に保存されていました。
私が参考にしている資料には「この小屋がすごい藪の中で近づくのに苦労した」とありましたが、現在は隣接する「農業公園」の整備の際に一緒にきれいに整備され、発掘したものを管理棟に展示してありました。
のぞいてビックリ! 外見の小屋から想像もできない景色でした。
赤沼の鎌倉街道跡
それから、一気に鳩山町指定の赤沼の鎌倉街道跡まで行くことにしました。
赤沼の鎌倉街道跡。鎌倉に向かう方向で眺めます。
県道の赤沼入口から少し入ると十字路の角に「史跡鎌倉街道」 の標柱がありますが、これはほとんど読めなくなっている。
そこに、赤沼供養塔と称する三基の石碑が立っています。中央に「日本回国四国七遍供養塔」があります。「にほんかいこくしこくななたびくようとう」と読みます。
資料によると、ここに「右・ひきのいはどのみち、中・すがやのはらみち、左・おがわちちぶみち」と書いてあるらしいのですが、よくわからなかった。
その「中・すがやのはらみち」 が鎌倉街道です。
前回訪ねた、畠山重忠ゆかりの「菅家館跡」のある菅谷原に通じている、ということですね。
今回は、ここまで。
この日は暑い日で、ヨレヨレになりました(笑)
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