赤が鎌倉街道。緑のマーキングしてあるところが、訪ねたところ。



鎌倉街道は、前述の西大家駅横の踏切を渡り、しばらく行くとわからなくなります。戦後の区画整理によって出来た旭ヶ丘に入り、街道の姿を探すのは、難しいということです。

『日高市史』によると、女影には二本の鎌倉街道上道が記されています。
東回りの街道は、鎌倉街道踏切から県道、それから南に向かい、住宅街を女影と高萩の境、その先中沢と高萩の境を通って南に進み、高萩団地の先で西回りの街道と合流します。鎌倉街道上道の特徴の一つである、町境を進んでいたのです。
西回りの街道は、境橋、女影交差点、諏訪橋を通って馬頭観音の石碑の先で東周り街道と一緒になるわけです。

境橋

ここから、この地区の探索をスタートします。
境橋の欄干もかなり古いもので、道自体も旧街道の雰囲気は感じられます。
    


JR川越線の踏切を渡ってから、西回り街道をそれて、街道東周りの「鎌倉街道踏切」を確認しておきます。

鎌倉街道踏切

JR川越線・武蔵高萩駅の西の踏切が、こう名付けられています。
『新編武蔵風土記稿』 によると高萩駅北に、高萩院という京都聖護院の末寺があり、その寺宝に1333年(元弘三) 5月、鎌倉攻めをする新田義貞がここに寄り、
奉納した「太刀一振」 があったと伝えられていますが、現存していないとのことで、残念です。

鎌倉街道踏切                                                                         踏切から武蔵高萩駅が見える
    


鎌倉街道踏切手前左手に寛政年間建立の 「廻国供養塔」があります。
左の小さな祠が「廻国供養塔」で、右のお堂には色々な石仏がたくさん納められていたが、説明が無いのでどんな石仏なのかは不明。
     


女影交差点

西回り街道に戻り女影交差点に行きます。この辺りは、鎌倉時代も「女影宿」として栄えた所と言われるところです。交差点の角に、「女影時計台」と表示されているかわいい時計塔が建てられていました。
『新編武蔵風土記稿』には、「女影」の地名の由来となった伝説が載っています。それによると、女影に「千丈ケ池」があり、その昔、「せん」という女性がこの池に身を投げて死んだと伝えられ、
その後、この池にその女性の影が映るようになり、地元の人がこれを「女影」と呼び、これが村の名前になったとあります。
今も女影の南にある「仙女ケ池」がそれであると言われています。
    


諏訪橋

女影交差点から南に進むと、道が二又に分かれる手前に諏訪橋があり、その脇に、享保一八年(1733)の「六十六部日本廻国供養塔」が立っています。
    


霞野神社

その先を左に行くと鬱蒼とした森に囲まれた霞野(かすみの)神社があります。
この辺りは、昔(奈良時代)は大きなお寺(女影廃寺跡)があり、街道を挟んだ西が比定地だったそうです。
    


女影ケ原古戦場跡

霞野神社本殿の南には、「女影ケ原古戦場跡」 の碑が立っています。
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、
ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破ったのです。その古戦場跡がこの辺りになると言われています。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残すのです。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をしています。
これからの探索で、その後の話は楽しみにしましょう。

     
       石碑                             この辺が戦場跡かと眺めてみる


道標を兼ねた大乗妙典碑

霞野神社前の鎌倉街道と、右に分かれる道との間に隠れて道標を兼ねた「大乗妙典碑」があり、「右あ
うぎ町谷八王子道、左入間川所沢みち」と刻まれています。
「右あうぎ町谷八王子道」は、南の大谷沢で日光裏街道(国道407号線)に出て、入間市の扇町屋を通り、その後、国道一六号線を八王子に向かう道ではないかと思われます。
そして「左入間川所沢みち」がこれから進む鎌倉街道です。
    


女影氏板碑

霞野神社から西南の方は、女影という地名になっています。そこで、街道を離れ、女影の方へ行ってみます。
女影の上ノ条と呼ばれる辺りは、武蔵武士の一党・女影氏の館があったとされているところです。
女影氏については、今やよくわからないようです。『吾妻鏡』承久の乱の条に登場する女影太郎と四郎がここに館を築いた女影一族ではないかと言われています。
承久の乱で、太郎は負傷し、四郎は討ち死にしたと『吾妻鏡』は記しています。
女影氏館跡は、はっきりしていないそうですが、道沿いに住む飯塚さんのお宅の裏の小さな祠に、板碑があり、女影氏滅亡後に供養のために立てたものだと言われています。この板碑がある飯塚家の辺りが、女影氏の館跡とも言われているところです。
  

まわりは、こんな感じです。



「鎌倉街道上道の碑」

霞野神社前に戻って、左側の道、鎌倉街道を行きます。
途中車のすれ違いができない狭い道を通って、台地を下ると、急に広く視界が開けます。一面の水田が広がっています。途中、右に馬頭観音の文字だけの小さな石碑があります。
しばらく進むと第二小畔川を渡ったすぐの左手に平成3年11月に日高市教育委員会が立てた立派な「鎌倉街道上道の碑」があります。
こういう碑があると、街道探索は間違っていない、鎌倉街道を歩いているという確信がつかめて、とてもうれしいですね。
その先は、短いですが切通しのような道を進みます。
    


鎌倉街道交差点

街道は、さらに南に向かいます。間もなく日高カントリークラブの脇を通って行くと、国道407号線(日光裏街道)の「鎌倉街道交差点」に出ます。
街道は、直進して行きますが、直交している日光裏街道も少し進んでいくと杉並木もあり、櫻もかなり植えてあって、いい道路です。

これは江戸時代、八王子の千人同心が、日光廟警護のため交代する時に八王子から日光へ歩いた道なのです。
     

日光裏街道(国道407号線)



智光山公園

ここまで来ると、もう狭山市です。
大外回りで歩くと1時間くらいかかるので、私がよくウォーキングしている場所です。緑化植物園もあって四季の緑が楽しめる、いい場所です。
     

狭山市には、鎌倉街道が二本通っており、本道、脇道と言う人もいますが、人により重さはそれぞれだと思うので、私はAルート、Bルートと呼ぶことにします。
智光山公園が切れるところで、街道は二つに分かれます。写真で右に行く大きな道がAルート。写真で前方に分かれる小さい道が柏原に行くBルートになります。












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鎌倉街道(上道)散歩

埼玉県日高市

2011.12.7 散歩


・境橋           ・鎌倉街道踏切
・女影交差点        ・諏訪橋
・霞野神社         ・女影ケ原古戦場跡
・道標           ・女影氏板碑
・鎌倉街道上道の碑     ・鎌倉街道交差点
・智光山公園

日高(女影)地区

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