赤が鎌倉街道。緑のマーキングしてあるところが、訪ねたところ。



狭山市に入り、智光山公園のところで鎌倉街道が二つに分かれます。
その一つAルートは、智光山公園の前の県道に沿って真っすぐ進み、工業団地を通って坂に差し掛かります。
この坂が「信濃坂」
途中に「鎌倉街道」の案内があります。
     


影隠地蔵

信濃坂の途中に小さな公園があり、一体のお地蔵様が立っています。
清水冠者義高については、後述の清水八幡神社のところで説明します。
入間川の先でついに追いつめられた義高は、追手の目を逃れるために地蔵の陰に隠れたそうだ。
当時のお地蔵は、高さ2尺余りの木像で、今は別のところにあります。
いま立っている石像は、明治初年の廃仏毀釈により木像が処分されたあと、地元の人たちが、義高の死を哀れんで立てた供養塔ではないかと言われている。
11歳の子供だった義高でも、この小さな地蔵の陰には隠れることは、出来ないと思ったのだが、そういうことでした。
綺麗に手入れされたお地蔵さんの周りを見ると、義高を哀れに思って建てたお地蔵さんをずっとお守りしてきた地元の人たちの暖かい気持ちが伝わってくる。
                                       風雨で磨り減ったお顔のお地蔵さん
     


奥州道

「信濃坂」を下りきったところの、交差点やバス停の名前が「奥州道」。
この街道は、奥州道とも信濃路とも呼ばれていたそうで、この辺が交通の要路だったことがわかる。
     


赤が鎌倉街道(Aルート)。緑のマーキングしてあるところが、訪ねたところ。




入間川八丁の渡し

鎌倉街道は、大きな河「入間川」を渡らなければならない。
「八丁の渡し」といったそうだが、何度もあった洪水や河の変化で、現在その位置はわからなくなっているようだ。

後述の「奥州道」からまっすぐに入間川に向かって県道がのびており、今は「新富士見橋」がかかっている。
この辺が当たらず云えども遠からずであろう。

「新富士見橋」からの入間川の眺め



清水八幡神社(清水冠者義高終焉の地)

「新富士見橋」の近く、国道16号線の脇に、清水八幡神社がある。
清水冠者義高は木曽義仲と山吹姫との間に生まれたと言われる長男・木曽義高のこと。

 大蔵館(埼玉県嵐山)での闇討ちで父を失った義仲は、長野県木曽谷の中原兼遠のもとに預けられ、
武士として立派に育て上げられるが、その兼遠には二人の娘がいた。
名前は山吹(葵)と巴。いつしか義仲と山吹は夫婦となり、義高を授かる。

 源頼朝挙兵に応じるかのように、同時に義仲も立ち上がり京都を攻めるが、
頼朝と義仲は様々な要因によって、あわや武力衝突に及ぶ寸前まで来ていた。

 しかし両者は寸前で和解をし、義仲はその証として息子・当時11歳の清水冠者義高を、人質の意味で頼朝のもとに送り、
当時六歳くらいになっていた頼朝と政子の長女・大姫と結婚させることになった。

 しかし、義仲が京都を攻め落とし、朝廷に取り入るのを知り、頼朝はついに義仲を征討する命を源義経と兄・範頼らに発する。
そして、寿永三年(1184)正月、多勢に無勢の義仲は、北陸路に落ち延びようとする途中、近江粟津野の露と消えた。享年三一歳。

 義仲が頼朝に討たれた後、寿永三年(1184) 4月21日、頼朝は、部下に当時12歳の義高も討てと命じるが、
頼朝の妻・政子の知るところになり、娘・大姫が深く慕っている義高を殺すのは忍びないと、義高を逃がす。
義高の身代わりを仕立て鎌倉に残し、義高は、女の姿に変装して、夜明けと共に鎌倉を脱出する。故郷・大蔵館(埼玉県嵐山)へ。
しかし、頼朝は察知し、御家人の一人・堀藤次親家の軍兵に義高を追わせる。
そして、ついに入間川の河原で、義高は親家の軍兵に討たれてしまう。


そして、親家は4月26日に鎌倉に戻って報告すると、当時6、7歳であった妻・大姫は悲嘆に暮れるばかりで、
母の政子は、ひどい仕打ちをした頼朝を怒り、義高を直接手にかけた藤内光澄を討ち取って、さらし首にした。


藤内光澄も気の毒な人間ではある。頼朝の命によって行ったことなのに、政子の怒りを買い、討たれてしまうのだから。

 義高は入間川の河原に葬られ、政子は、神社を作らせ、自らここに来て盛大に供養したそうだ。

しかし、その神社は入間川の大洪水で全て流失してしまい、いまの神社は地元の人たちが再建したものである。

 その後、大姫は、常に病みがちで、頼朝の念願であった京都の宮中(後鳥羽天皇)に大姫を嫁に出そうとしたが、頑として縁談を受け入れなかった。
そして上洛途中、大姫は原因不明の病に倒れ、建久八年(1197)、加持祈祷あらゆる手を尽くしたが回復せずに、
20歳の若く短い一生を鎌倉の地に終えてしまった。


 永井路子著『北条政子』に描かれた大姫最後の章には、
「私が死ねば(入内を)お断りしなくても、この話は立ち消えになります。そして、私はそれだけ早く義高様のお側に行けます。」
と政子に告げる場面がある。
最後まで、義高を慕い続けた大姫の切なさが伝わってきます。



     
国道16号線の脇にお宮さんがひっそりと立っている。             お社も小さな祠のようなものである。
「清水冠者義高終焉の地」という標識があり、以前から気にはなっていた。



     
扁額を見れば、地元の人たちがお守りしているお宮さんであることがわかる。   傍らにひっそりと咲いていた



徳林寺・八幡神社

鎌倉幕府の防衛を考えたとき、入間川は格好の自然の防衛線であり、一次の防衛線が入間川、二次が多摩川ということになります。
多摩川に至るまでの合戦で大勢がついてしまうということがあり、入間川が重要視されました。

入間川の攻防としては、大きなものが二度あります。
1)新田義貞が鎌倉攻めの兵をあげたとき。
新田義貞は元弘3年5月8日に挙兵、これを迎え撃つ鎌倉幕府軍は入間川を防衛線と考え、二手に分け、主力軍が「上つ道」で入間川に、
もう一方が「中つ道」で春日部に向かい、挟撃作戦をとりました。
新田軍は11日には入間川を渡ってしまい、遅れをとった幕府軍は挟撃作戦に失敗します。
両者は小手指原(入間川から所沢の広範囲だったらしい)の戦いで一進一退しますが、15日夜に相模国の三浦義勝が新田軍に合流し、新田軍が勝ちを納める。

そして進軍した新田義貞が鎌倉を落とすわけです。

2)鎌倉公方の足利基氏が滞陣した「入間川御所」
新田義貞の死後潜伏していた義貞の子の義興・義宗兄弟が観応3年(1352)に蜂起し、御醍醐天皇の第7皇子の宗良親王を奉じて武蔵野国に侵入、鎌倉を奪います。
鎌倉を奪われた足利尊氏は、武蔵野合戦(府中市、小金井氏)で義興・義宗兄弟と戦うが、ここでは劣勢、
次いで四男基氏と合流した足利尊氏が小手指原・入間川の合戦で辛くも勝利し、義興・義宗兄弟は上州、越後に落ちていきます。

足利尊氏は京都の政情から上洛せざるを得ず、鎌倉公方として足利基氏を残し、更に鎌倉防衛のためには入間川が重要として、足利基氏に入間川に滞陣させます。
文和2年(1353)から康安2年(1362)にかけて、結局10年も滞陣することになります。3万から5万という大軍が滞在し、
また関東の治世がここでなされたため(入間川御所)、ここ入間川は大いに栄えたといわれます。

○徳林寺

元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの合戦にてこの地に本陣を置き、その守護神として聖観音を安置し、地頭小沢主税が開基となり、この寺が建立された。
また、鎌倉公方足利基氏が滞陣した「入間川御所」の地ともいわれています。




この寺の宝物で特筆すべきは「釈迦八相図」と「涅槃図」です。
江戸時代のこの地の豪族綿貫家は「西の鴻池、東の綿貫」とうたわれた程で、酒井雅楽頭への24万両を筆頭に1000名近い大名や旗本に大金を用立てたといいます。
狩野派の絵師を抱え、これを描かせたものです。市の史跡めぐりの際に拝観しましたが、実に立派なものでした。

残念なことに綿貫家は江戸幕府が壊滅したとき、貸し倒れとなり没落してしまいました。

山門を入って左側の六角堂に地蔵尊が安置されていますが、耳地蔵として信仰を集めています。
河原などから穴の開いた石を探して、これをお地蔵さまに供えれば悲願が通じ成就するとの伝えがあるそうです。
沢山の穴あき石がお供えしてあります。

   


墓地に、五知如来の石仏があるのですがちょっと変わっていて、4体の如来が地蔵菩薩を真ん中にして立ち、大日如来だけが一体で離れた場所に立っています。
地蔵菩薩を真ん中にして、阿閦如来(あしゅくにょらい)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)、観自在王如来(阿弥陀如来)。

   
                                                    大日如来と板碑群



○八幡神社
祭神は応神天皇。
元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉を攻めるにあたり参拝した。

鳥居から神社までは急な石段を上ります。石段を登りきると拝殿があります。

   


本殿と「駒つなぎの松」

   

本殿の脇に新田義貞が馬をつないだとされる「駒つなぎの松」があったのですが、現在は枯れてしまっています。
根本だけ残っています。


本殿の、正面を除く三面に、透かし彫りと浮き彫りの両技法を巧みに使い分け、「琴棋書画」を七福神などで表現した見事な彫刻が施されています。
ちなみに「琴棋書画」とは、中国で余技として貴ばれた琴・棋(囲碁・将棋)・書画のこと。

  


床の下にあたる場所にも龍などの見事な彫刻がされています。





赤が鎌倉街道(Aルート)。緑のマーキングしてあるところが、訪ねたところ。




七曲の井

武蔵野の枕詞に使われた「ほりかねの井」の一つ。
富士山の噴火灰により形成された厚い「関東ローム層」のため、堀りにくく、すり鉢状に掘った井戸である。
「ほりかねる井」、「掘るのが難しい井」から生まれた言葉。

文献や史料に出てくる「ほりかねの井」
・伊勢(9世紀末の人物)が詠んだ歌
   「いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶そ深さまされる」

・清少納言の『枕草子』
  「井はほりかねの井、玉の井、走り井は逢坂なるがをかしきなり、山の井、などさしも浅きためしになりはじめけん、
   飛鳥井は“みもひもさむし”とほめたるこそをかしけれ、千貫の井、少将の井、桜井、后町(きさきまち)の井」
  ⇒全国に点在する名井の第1位に「ほりかねの井」を挙げています。

・藤原俊成が詠んだ歌
  「武蔵野の堀かねの井もあるものを嬉しく水の近づきにけり」
  ⇒『千載和歌集』に所載。「ほりかねの井」が武蔵野に所在することを最初に詠んだ歌。

当時、このあたりには人は住んでいなかったのに、何故井戸が掘られたかと言うと、
『延書式』(延長5年(927)に完成した律令の施行細則)の巻50・雑式に、
 「凡諸国駅路辺植果樹、令往還人得休息、若無水処、量便掘井」とある。

「駅路」には果樹を植え、人が休息できるようにし、水の無いところは井戸を掘りなさい、というわけです。

鳩山で国分寺瓦窯跡を見てきましたが、瓦を国分寺まで運ぶ人、牛、馬などが、この井戸で渇きを癒やしたのでしょう。

鎌倉街道に面して、水守りと考えられる観音堂があり、その奥に「七曲の井」があります。



昭和45年に発掘調査が行われ、井戸まで降りるのに実際7回曲がって降りている道が確認されました。
その調査をもとに描いた絵も、井戸の横に掲示されていました。
      



その絵と同じ方向で眺めた井戸。                                           復元された井戸。
       















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鎌倉街道(上道)散歩

埼玉県狭山市
撮影:
2007.5.3 、
2011.6.18、
2011.10.14

・影隠し地蔵(信濃坂) 
・奥州道

・入間川八丁の渡し 
・清水八幡(清水義高終焉の地)
・徳林寺
・八幡神社
・七曲の井

狭山市(Aルート)

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