ここ、「嵐山(らんざん)」地区には史跡が固まってあり、鎌倉街道のうちでハイライトを飾る一つの場所。
赤が鎌倉街道。
緑のマーキングしてあるところが、今回訪ねたところ。




菅谷館跡

まずは、畠山重忠の居館跡「菅谷館跡」です。
畠山重忠は、頼朝以下三代の鎌倉幕府に仕えた重鎮で、特に頼朝に信頼された武将です。
もともとは、桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族で、源頼朝が兵を起こしたときは、畠山重忠が頼朝軍を一度破っています。
再度頼朝が兵を起こしたとき、頼朝の説得に応じて、以降頼朝の下で働く。
頼朝が非常に重忠を信頼していた。
重忠の活躍は、宇治川の戦いの一番乗りの話や、義経の戦法で有名な鵯越の合戦のときには愛馬をいたわって急坂を馬を背負って降りた話など、たくさん残っている。

重忠は、頼朝以下三代の鎌倉幕府に仕えましたが、北条の世になると疎んじられ、謀略に会いわずか130騎を率いて雲霞のごとき大軍と互角に戦ったのち討たれてしまいます。

まずは、そこにある「埼玉県立嵐山史跡の博物館」でお勉強(笑)
重忠のロボットが鎌倉街道の説明をしてくれたりしてます。

   

                                                 重忠のロボット

博物館から出ると、「菅谷館跡」が気持ちよく広がっています。
その後戦国時代に、上杉とか北条の戦いの城となった関係で大きくなり、広い!

   


二ノ郭から本郭に行く通路。
郭は、ほぼ同じ高さだが、本郭には土塁を築いているため、空堀を挟んでかなりの落差がある。

   


   
ここが畠山重忠の居館跡があったといわれる「本郭」                             南郭を歩いたあと、二ノ郭に出るとタンポポが咲き乱れ、のどかな空間。
                                                     この日は、二つの学校の生徒がいたるところで写生していて、ちょっと参った(笑)

二ノ郭と本郭の間の空堀。
写生に飽きた生徒が元気よく駆け回る(笑)



   春さかん つわものどもの夢のあと
        いまは少女の あそび場かな      
(四季歩)

堀も工夫されていて、右側の出っ張ったところは「出枡土塁」といい、敵の侵入を防ぐ工夫。




「畠山重忠像」を見に行こうと思ったら、進入禁止!。どうも崩れたところがあるらしい。(地震の影響か?)
仕方ないから、進入禁止の柵沿いに回って行って、像を撮れる位置から望遠で撮った。

   


「蔀(しとみ)土塁」と言って、敵が「西の郭」から「三の郭」を見通せないように作ってある。




「正坫門の木橋」
内側の郭を高く盛り上げてあり、侵入する敵が上り勾配を渡らなければならないようにしている。



いろいろな工夫に関心しながら「菅谷館跡」を見てまわていたが、もう2時間も経っているのに気づき、名残惜しく切り上げました。



都幾川

もっと上流になりますが、嵐山渓谷の景色が京都の嵐山ににていることから「嵐山」の地名になった。
しかし地方の人ゆえ、遠慮して「らんざん」と呼んでおります(笑)





大蔵館跡

源義賢の居館跡で、ここで「木曽義仲」は生まれました。

ええっ、木曽義仲は埼玉生まれ!  と吃驚しないでください。事実です(笑)
源義賢は、源氏の棟梁源為義の次男で、帯刀先生(皇太子警護役人の長)をやるほど人望も厚く、武名が高く、長男義朝よりも跡目争いでリードしていた。
ところが、義朝の子悪源太義平の急襲により、大蔵館で義賢は討たれてしまう。
そのとき、子供の駒王丸は二歳。討手の斉藤実盛と畠山重能(重忠の父)が不憫に思い、助けて木曽の中原兼遠に預けます。この駒王丸が、後の木曽義仲です。
で、源氏の棟梁は源義朝となり、それから頼朝に伝わっていく。
(悪源太義平は、平治の乱で死んでしまう)

もしも、源義賢が源氏の棟梁になっていたら、ここ嵐山も今とまったく違った様相になっていたことでしょう。

今は「大蔵神社」となっています。

   


   



源義賢の墓

次いで、源義賢の墓を訪ねます。
これが個人のお宅の庭にあるんですな(笑)
畑を突っ切って行けるように細い道をつけてくれています。お世話になります。

   


源義賢の墓





鎌形八幡宮

源義賢、木曽義仲、そして木曽義仲の子・清水義高ゆかりの鎌形八幡神社は、平安時代初期の延暦年間に、
坂上田村麻呂が、九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている。

源氏の氏神として仰がれていたといい、また、武門武将の神として仰がれ、「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか篤く」と、縁起の中にある。
木曽義仲産湯の清水や、嵐山町指定文化財の二枚の懸仏、徳川歴代将軍の御朱印状他多数の文書等が保存されている。

杉の林の中の気持ちのいい場所です。




中ほどに山門とも仁王門とも能舞台ともわからないものがあります。

   
                                                    "旗文字"の号額がかかっている。


入っていくと、向かって右手に木曽義仲の産湯に使ったという清水の井戸がある。竹の樋を使って、清水を引いていました。冷たくて美味しかった。

   


石段を上がると本殿

   


本殿の後ろ側が、小さい窓に全部御幣が立てられ。注連縄が張られている。何なのだろうか?




正面の向背、木鼻には立派な彫刻が




右側の木鼻の彫刻が珍しい!
よくある獅子ですが、蝶をつかまえている!



蝶なのか?蛾なのか?
帰ってから調べました。
まずは、繭玉の奉納額があったので、養蚕に関係して「カイコガ」ではないか?

「カイコガ」



彫刻全体の感じは「蛾」っぽいのだが、彫刻は触覚が長いのに気が付きました。
これは「蝶」ではないか!
菅谷館跡の隣に、大きな「オオムラサキの里」という施設があるように、この辺はオオムラサキで有名なので、オオムラサキかも。

「オオムラサキ」


私は、「オオムラサキ」だということにしておこうと思います。


奉納されていた「繭玉」の額                                   ここ武蔵野国では、なんといっても「甲源一刀流」です。奉納額
   




班渓寺。

班渓寺は曹洞宗の寺で威徳山班渓寺といいます。この寺の梵鐘に次の文字が刻まれているそうです。
「木曽義仲妙虎大姉(山吹姫)が我が子義高が頼朝によってその追ってに殺害され、夫義仲と子の義高の菩提を弔ってこの寺を建てたということです。
 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也」。
山吹姫が源頼朝のために斬殺されたわが子(義仲の子、義高)の菩提を弔うために創建したというお寺です。



ここに、木曽義仲の妻「山吹姫」の墓があります。
山吹姫は木曽の中原兼遠の兄にあたる2男の兼保の娘。木曽義仲が近江で討たれたあと、ここまで落ち延びてきて、ここで暮らして没したようです。


木曽義仲の妻は、巴御前じゃないの?・・・・・カミさんに問い詰められて、整理しました(笑)
「平家物語」で「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の「便女」 を具せられたり。山吹はいたはり(病気)あって、都にとどまりぬ。
中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」
「便女」とは武将の側で身の回りの世話をする女性。便女=美女となるらしい。
山吹姫は病気がちで京都に居たが、義高という子をもうけているので、妻。
巴御前は兵者として義仲に同行して有名だが、妻ではなかったようです。だから義仲が死ぬ直前、義仲に説得されて落ち延び、のちに和田義盛の妻になったという話あり。
巴御前といえば京の都で畠山重忠との一騎討ちの話が有名です。
そして、既に書いたように、幼い駒王丸(義仲の幼名)を助け、木曽の中原兼遠に預けた畠山重能は重忠の父にあたります。
木曽義仲を助けた畠山重能と、義経らと共に義仲を討った畠山重忠。

歴史の綾ですね。

「山吹姫」のお墓

    



向徳寺

向徳寺は、藤沢市にある有名な「遊行寺」の末寺で、30余の武蔵型板碑を保存してあることで名高く、最古のものは正応6年(1293)銘だそうです。
武蔵型板碑とは、秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩(薄く板状にはがれる)という青みがかった石材で造られ、関東特有の板碑です。



板碑が屋根つきで丁寧に保存されています。

   


            


境内には、たくさんの花が咲いていました。

   
   菊桜                                                  木蓮


白い花のヤマブキ(山吹)があるのか、と思って撮ったのですが、帰って調べてみたら、これはヤマブキではありませんでした。
「シロヤマブキ」という種類です。ちなみにヤマブキは 5 弁花で,シロヤマブキは 4 弁花。

   
                                                             何の虫だろう?








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鎌倉街道(上道)散歩

埼玉県比企郡嵐山町

2011.4.26 散歩

・菅谷館跡
・大蔵館跡
・源義賢の墓
・鎌形八幡宮
・班渓寺(山吹姫の墓)
・向徳寺(武蔵型板碑)

嵐山(らんざん)地区

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